ロマン主義アニメ研究会

感想、考察、等。ときどき同人誌も作ります。ネタバレ注意。

ギフト:聖なる川(サンリオ)の流れる「世界」──『キティとミミィのあたらしいかさ』

 1981年に制作されたサンリオの人形アニメーション、『キティとミミィのあたしいかさ』。レトロな立体アニメの動きがとってもかわいい作品です。手作りの感じというか、少し動きがカクカクっとしているのも可愛い。小さなキティとミミィが、傘を持ってトコトコっと歩き回ったり…。キティたちを取り囲む、小さな小さな小道具たちも、ちまちまと丁寧に作られていて、いちいち可愛くて、本当に胸がときめきます。キティとミミィの2人の様子も、他のキティちゃんアニメや*1、現在見られるピューロランドなどでの2人の振る舞い方などと比べてもずいぶん幼くて、子供らしくて、とても可愛らしいです。例えば、雨でお出かけができなくて、2人しておうちの窓から外をのぞきながら、「つまーんない」「ね、つまーんない」「ね、つまーんない」と、ぐるぐる回るやり取りをしている様子なんか…もう、あまりにも可愛くて、大好きで、ついつい何度もマネをしてみたくなります(1人で…)。

 けれどもまた、同時にこの作品には、「世界中がみんな”なかよく”」(サンリオの段ボールに書かれた文字)が実現する…という、サンリオ的理念が詰め込まれいる、とも思いました。

 お母さんからのギフト(あたらしいかさ)、お母さんというギフト(世界からの贈り物)、そして、キティとミミィが、困っている「誰か」に贈る、おそらく初めてのギフト…。『キティとミミィのあたらしいかさ』で描かれるのは、こうした「ギフト」の連鎖です。それは「愛」が流れる、聖なる川(サン・リオ)としての「世界」。サンリオが掲げる「Small Gift, Big Smile」とは、「愛」に溢れる(=「可愛い」)グッズやカードを贈り合うことで、この川の流れが続いていく、ということなのではないかと思いますが、そんな理念がぎゅっとストーリーに詰め込まれています*2

 

 

世界からのギフト──運命

 キティとミミィは、お母さんから、新しい傘と長靴をもらいます。大喜びするふたり。すぐにお部屋の中で長靴を履き、傘をさして、はしゃいでいます。これは、お母さんからの「ギフト」です。

 こうしたお母さん「からの」ギフトは、お母さん「という」ギフトがあってのことです。キティとミミィは、幸せな家庭に育っています。可愛らしい2人の子供部屋にあふれんばかりのおもちゃが並べられていることが、それを物語っています。すでにたくさんのギフトをもらっている。

↑この子供部屋のシーンも大好きです。小さな家具やおもちゃが、ちまちまっ、とたくさん置いてあって、こんな部屋に住みたい![正確に言えば、「ロンドン郊外」のお家で子供時代を送りなおしたい!]と思ってしまう。)

 キティ&ミミィの子供部屋のなんと可愛らしいこと。小さな積み木、カーテン、壁紙の模様、イス…胸が締め付けられるような、小さくて可愛い世界です。

 こうしたことは単なる偶然であって、キティとミミィが、単なる野良猫とか、「鳩時計の中の鳩」なんかに生まれなかったのはどうしてなのか、答えはわかりません。まさに神のみぞ知ることです。それが運命(Gift)というもの。──「鳩時計の鳩」というのは、これよりももっと後のセル画アニメ「ハローキティーの止まった大時計」に登場するキャラクターです。それによると、鳩時計の「鳩」に生まれたからには、一生、時計から離れることができず、決まった時刻に鳴くことしか許されず、自由がない。絶望的に終わりの見えない繰り返しの毎日を生き続けなければならないそうなのです*3

 こうして、ある意味で不条理に、偶然的に、あるいは神秘的に、私たちは世界へと投げ込まれる(=gifted)。そしてそれが何であれ、私たちはさらにその先へと「生」を投げかけていかなければなりません。

──投げ込まれる世界がどのような世界かは、自分で選ぶことができない。「なぜ私達が住んでいる甲府に爆弾が落とされなければならないのか、多くの市民が家を焼かれ、焼け死んでいかなければならないのか、いくら戦争だと言っても、まだ学生だった私にはよく理解が出来ませんでした。いいえ、91歳になった今でも、どうして、あの時、甲府の善良な市民がそのような目にあわなければならなかったのか?どうして甲府だったのか?私には分からないままです*4

 『キティとミミィのあたらしいかさ』が描いているのは、このギフトの連鎖(gift←give)だと思います。ギフト存在論といってもいいかもしれません。

世界へのギフト──愛

 キティとミミィは、「あたらしいかさ」に浮かれながら、はしゃいで踊っています。これはとっても、本当に可愛らしい場面です。この場面を見るためだけに見る価値のあるほど、なんて可愛いんだろう、って思います。

(↑晴れているのに、2人して傘をさして、長靴をはいて、丘の上で踊っている。かわいい。人形アニメのちょっと手作り感ある動きが、またかわいい。)

 けれども、この可愛らしさを描くことだけがこの作品の目的ではない。というより、可愛らしい2人を追いかけているうちに、じんわり滲み出るように、サンリオの「ギフト」の思想が伝わってくるように作られている。

 驚くべきことに、この後2人はこれほどに喜んでいた傘を見ず知らずの鳥さんのために差し出してしまうのです。雨に濡れて困っている鳥さんたちのために。あんなに嬉しくて仕方のなかった「あたらしいかさ」を、1本差し出します。

 その傘がこの2人にとってどれだけ嬉しくて大事なものだったのか、それまでのシーンではっきり描かれているからこそ、この鳥さんへ差し出すという行為が2人にとってどれほど大きなものだったのかがわかります。

 例えば、傘がころげていってしまったら(わーんと大泣きした後)一生懸命に探しに行きます。

 雨が降ってきたら、傘が濡れちゃう!と言いあって急いで傘をたたみ、2人で傘を抱えながら走って、木陰で雨宿りします。日が照っているときには傘をさして、2人は踊っていたのに…そんなに大事なんだって思えて、とても可愛らしかったです*5

 こんなふうに、2人にとってこの「あたらしいかさ」は、嬉しくて嬉しくて、大事で大事で仕方のないものなのです。しかしそれを、通りすがりに出会った鳥さんに差し出してしまう。これがいかに大きなことなのか見ているとわかるのです。雨にすらも濡らしたくないほどの傘をあげてしまうのだから。これがもしかすると2人が初めて他人に贈る「ギフト」かもしれません。

 しかも重要なのは、この鳥さんとはおそらく初対面だったということです。鳥さんとは以前から面識があって、何かお世話になったことがあったからそのお返しに傘を差し出したとか、あるいは世間体とかご近所づきあいもあるので差し出した・・・みたいなわけでは全く「ない」のです。ただ目の前で困っている「誰か」のために、今できる範囲のことをしてあげたい、といったような、自然な気持ち。それは、見返りを求めてすることではない、本当の「愛」です。

世界からのギフト・リプライズ──だれかとだれか

 ところがその後、2人が贈った親切な「ギフト」は、ある意味で(ここが大事)報われます。作品の終盤で、キティとミミィは、綺麗なサンリオの包装紙に包まれたプレゼントを受け取ることになるのです。…と言っても、あの鳥さんがスタスタとやってきて、先ほどはお世話になりました、ぺこり、などといってプレゼントを持ってくるわけではありません。

 では誰からプレゼントを受け取ったのかと言えば、一見とても変な話なのですが、物語の終盤で、”誰だかわからないある人”から、キティとミミィはプレゼントをもらうのです。直接的にはおばあちゃんからもらうのですが、おばあちゃんは、見ず知らずの人からプレゼントをもらったと言います。(ちょっと冷静になると、なんだその話は…という感じもしますが、ここでつまらない揚げ足を取っても仕方ないのです。サンリオが描く「ロンドン郊外」では、見ず知らずの人が急にくれたプレゼントでも、危険物である可能性などは全くない、それでいいのです。)

 結局、キティとミミィは一体誰からのギフトをもらったのか、はっきりしないままお話は終わります。そしてそれゆえ、この突然の(謎の)プレゼントはきょうキティとミミィが鳥さんに「あたらしいかさ」を贈った(ギフト)ことと関係がないような、偶然のことのような、でも、まったく無関係というわけでもないような…そんな曖昧な描写のままに終わっています。

 多分ここが大事なのだと思います。困っている「誰か」のための「愛」は、巡り巡って、また「誰か」からの愛となって返ってくる、かもしれない(し、返ってこないかもしれない、でもそれでもいい…)・・・ということ。「世界中がみんな’なかよく’」にあるように、「世界」が結びつくということは、こうした直接の見返りを求めない、「他の誰か」一般へ向けられた「博愛」のようなものが必要なのです。というのも「世界」とは、少数のよく知っている人たちと、大多数のよく知らない「他の誰か」から成り立っているものなのだから。こうした「他の誰か」への見返りのない本当の「愛」、世界への愛こそが、「世界中がみんな’なかよく’」には必要でしょう*6

 つまり、キティとミミィが物語の終盤で受け取ったのは「世界」からのギフトなのです。世界を愛する者は、また、世界からも愛される(かもしれない)。冒頭に言及した「お母さんというギフト」に象徴されるような、「根源的なギフト」が、キティとミミィにとって自覚的なものとなったその自覚の表現が、包装紙に包まれた姿のあのギフトなのかもしれません。

 そういえば、ちょうどこれは「誕生日」プレゼントであるという言及がなされています。すなわちキティとミミィは、ここで改めて再度、世界に「生まれた」とも言える。キティとミミィ、あるいはお母さん、おばあちゃん、といった閉じられた関係ではなく、「誰か」から「誰か」へと続く「愛」が連鎖する繋がりに、キティとミミィは参与することになった。この「誰か」と「誰か」の<間>、関係こそが「世界」なのだと思います。ここで初めて、キティとミミィの2人の眼前に「世界」というものが開かれたのです。2人は「世界」へと投げ込まれること=運命としての根源的なギフトを、サンリオの包装紙に包まれた形で改めて受け取った。──ちなみに偶然でしょうけれど、この作品の主題歌は「だれかとだれか キティとミミィ」というタイトルです。

世界は続いていく──「世界中がみんな”なかよく”」

 そしてこのお話はおそらく、まだまだ続くのであって、キティとミミィはまたこれからも、「誰か」にギフトを贈ることになるでしょう。キティとミミィの活躍はずっと続いていて、今もそうなのです。

 ちなみにこの人形アニメーションより後の、1990年代に制作されたハローキティーのセル画のアニメーションは、キティたちが世界に贈り物をし続けるお話としても読み取ることができると思います。そこではシリーズを通して、キティたちが偶然的に(ほとんど初対面の人たちも含む)出会った様々な人たちを助けようと奮闘したりします。あるいは、キティがミミィを助けようと奮闘するようなお話もあります。つまり、この『あたらしいかさ』の続きを描いているとも解釈できるのです。

(付録)「鳥さん」の解釈

 ちなみに、「鳥さん」について、このお話のストーリーそのものに即して解釈すると、「天使」のような存在であると考えられます。

 (1)あの白い鳥さんは、何か特別な魔法のような力を使って、キティとミミィを水たまりの中の不思議な世界に招待し、雲で楽しく遊んでもらった上で、傘を返し、プレゼントを贈っています。(2)そして、水たまりの中の不思議の世界から、プレゼントを忘れて、傘だけを持って帰ってきたキティとミミィに、また、鳥さんが別の姿をとって(「人」と呼ばれている…この世界での「人」とは何を指すのかよくわからないが、「鳥」ではないのだろう)、おばあちゃんにプレゼントを渡しにきたようです。(3)さらにその「人」は、「なんでも知っている」、初対面なのに「明日がキティとミミィの誕生日だということも知っている」とも言われていました。

 つまり、あの「鳥さん」は、(1)特別な魔法のような力を使うことができ、かつ、(2)姿を変幻自在に変えることができ、さらに、(3)全知である、ということが言えます。こうなると、鳥さんは、神様とか、天使とか、世界そのものの化身であるとか、何かそういった存在ではないかと考えられます。そもそも、キティとミミィが遭遇した「鳥さん」は、仮の姿であって、本来は「鳥さん」ではないのかもしれません。人間の前に現れるときに仮の姿をとって現れるものといえば、これは「天使」であると言えるかもしれません。

 「キャラクターは、世界の子どもたちに幸せを運ぶ天使です」、「人は決して、ひとりでは生きられない。今日も、明日も、いつも私たちはあなたのことを思っています」*7──という、サンリオの理念を反映している存在かもしれません。

*1:ちなみに、この『あたらしいかさ』が、キティちゃんたちの初めての映像作品だそうです(DVDの「作品解説」より)。初めて動いて喋ったキティたちの姿が、この作品というわけです。

*2:そうそう、サンリオの商品って、本当に、リーズナブル、って思う。コアなファン向けのお値段の張るアイテムもありますが、一方で、小学生のお小遣いで手に入る、通常の日用品くらいのお値段のものもたくさんある(キャラクター代が上乗せされている感が少ない…多くが自社製品だからでしょうか)。本当に「Small Gift」が用意されているなあと思う。「もらっても(もらった側が)負担にならない(感じない)くらいの…」っていうのが、一つの基準としてあるみたいです。

*3:…って、ねえ、ほんと、毎回思うんだけど、どうしてセル画のキティちゃんアニメのシリーズって、突如こういう重い話を持ってくるの…?? この「鳩の運命」の話とか…私はそういうところが結構好きなんだけど…

*4:辻信太郎、「株主のみなさまへ」、『サンリオIRレター 株主のみなさまへ 第59期営業のご報告』。そして、ここから世界への新たな「ギフト」として、彼は「サンリオ」を創設した、ということになるのでしょうか。

*5:ちなみに、キティとミミィが歌う『だれかとだれか キティとミミィ』という歌では、「かさを かかえて はしっているね 」という歌詞があります。この曲を最初に聞いたとき、なんで傘をさすんじゃなくて「抱えて」いるんだろう?って、ちょっと疑問に思いました。けれどもこの歌は、『キティとミミィのあたらしいかさ』の主題歌でもあったのですね。作品を見てようやくわかりました。おそらく歌詞はこの場面のことを歌っているのだと思います。

*6:おそらくサンリオとは全く関係ありませんが、私の好きな歌の歌詞に、こうあります。「喜びを他の誰かと分かりあう! それだけがこの世の中[=世界]を熱くする!」(小沢健二「痛快ウキウキ通り」)。別に「プラダの靴」じゃなくてもよくて、”サンリオのギフト”でもいいし、「かさ」1本でもいい。それは単に大切な「ギフト」の象徴です。そう言えば、この歌でも、歌の主人公風の人物は、最後、1人で寒い街をスタスタと歩いているような描写があります。喜びを分かち合ったからといって、その分かち合った相手から直接何かが返ってくるとは限らないし、それを期待しなくていい、むしろ期待すべきでない。「喜び」としての「プラダの靴」をプレゼントするということ、そのこと自体のなかに「喜び」がある。これが「痛快」と呼ばれているものかもしれません。「痛快」っていう言葉には、すっきり、というようなニュアンスがありますが、ギフトを相手に贈るというという行為には、自分の持っているものを手放してしまうということでもあって、そこには「放下」の清々しさがあります。

*7:1970年代、サンリオの「会社案内」の文言だそうです。『’70s&’80sサンリオのデザイン』グラフィック社、2019、7頁。