2024年7月〜10月にかけての雪組公演について。宝塚大劇場、東京宝塚劇場、それぞれで何度か観劇することができましたので、私の大好きな朝美絢さんのことを中心に、感想を簡単に記しておきます。
(もくじ)
- 美しさ
- 強さと同時に、可憐さ・可愛らしさ
- 朝美さんの独自の魅力──美しい男
- 「生き続ける」ということ
- 「オスカル」にとっての「朝美さん」
- 〝私〟の中に「生き続ける」
- ご覧なさい、宇宙──自然と社会のくびき
- その他の皆さん、お役
- フィナーレ、サヨナラショー
- その他、細かいこと
この公演はトップさんご退団公演であり、彩風さんのフェルゼンは非常に凛々しく美しかったのですが(過去のフェルゼンと比べても、情熱的で力強い印象でした)、私の場合はとりわけ、かねてから大好きな朝美絢さんの演じるオスカル様を見たいがために、何度も劇場に参りました。
朝美さんのオスカルは、素晴らしかったなどという言葉では足りないくらいでした。ともかく、まず見た目も本当にオスカル様です。クルクルのブロンドのロングも本当に違和感なく見える。演技も、恋する乙女心と軍人らしさとのバランス、コントラストがしっかりあって、原作の印象の通りだと思いました。
こんなにも美しい朝美さんのオスカルが見られて本当に良かったと思いました。これは〝尊い〟というか、もう本当に〝ありがたい〟というように思います。私が数年前から宝塚歌劇に関心を持つようになり、朝美さんのことを知り、そしていま、朝美さんのオスカル役を観ることができている。これは、いろんな巡り合わせ、偶然の積み重ね、運命のようなもののおかげだと思います。そういう意味でも、ありがたいなあ、と思いながら鑑賞した公演でした。
こういう運命的なありがたさは、いろんな困難を潜り抜けながらも、宝塚の伝統・ベルばらの伝統が途切れずここまで続いてきたことのおかげであり、またそれらがいまこの舞台で一つに結びついているおかげだと思います。こうした流れの全体の中で、トップさんのご退団と朝美さんのこれからのご活躍もある。
これは、「広い宇宙」や「マロニエの木立」といった不断に続いていく自然や宇宙の存在へと想いを馳せる、この作品のテーマ(?)にも通じるものがあります。冒頭に登場する〝この薔薇(=自然)をみよ〟と呼びかけ舞踏する子供たち(「ご覧なさい」)は、何かそういった自然や宇宙の運命を、今ここで目撃せよ、直視せよと言っているかのようにも思いました。
美しさ
朝美さんのオスカルは、きっと現実にオスカルがいたらこういう人なんだろうなと思わせるものでした。
まず、第一印象のビジュアル面が素晴らしかったです。最初の登場シーンなど、朝美さんオスカルが登場するだけで、パッと場面が華やかになる。どこから見ても美しいオスカルだったのですが、個人的には、比較的前の方で斜め横から拝見するお席のことがありましたが、その角度で見ると特に本当に美しかった。ブロンドのクルクルとした髪の間に、スラリとした鼻、顎のラインが見られます。
あの朝美さんのお顔立ちは、くるくるとしたブロンドのロングヘアーが、本当に何ら違和感なく馴染んでいました。そもそもオスカルはフランス人ですから、日本人がああいう髪型にしてしまうと、少し違和感というか、いかにもかつらをかぶっているという感じがしてしまいそうなものですが、それがまったくない。というより、原作のキャラクターはやはり理想化された漫画の登場人物であって、本当のフランス人というわけでもないのですから、むしろ朝美さんがぴったりすぎるくらいピッタリに感じられました。これはすでに先行公開されたポスターの段階で明らかにそう感じられましたが、実際に舞台に登場されて動いてらっしゃるのを拝見すると、実在の人物としてオスカルがそこにいらっしゃる……!! というように思いました。最後のパレードでの「我が名はオスカル」と階段を降りてくる姿は、本当に、ハッとするくらい美しかった。
しかも、今回は何度か拝見する機会を得ましたが、回を重ねるごとに美しくなっていっているように感じました。どんどん、自然にオスカルそのものになっていっているように思いました。
強さと同時に、可憐さ・可愛らしさ
また、実在のオスカルはこういう感じだろうなと思わせたのは、もちろん演技というか、雰囲気もそうでした。
毅然と強くて、でも優しさ、柔らかさ、繊細さもある。朝美さんがオスカルをなさると知ったとき、また、ポスター写真で朝美さんを見たとき、きっとそんなオスカルになるのではないかと期待していましたが、まさにその通り、というか、そんな私なんかの安易な期待を遥かに上回るものでした。
最初の登場シーンでの「無礼者!」とか、その後の「命令です!」などは、軍人らしくキリッと力強くかっこよく、やはりさすがの男役らしい演技でした。
けれども、今回はこれに加えて、やはりオスカルは女性のお役、特に、言うなれば〝恋する乙女〟でもあって、そこがしっかりと感じられました。「無礼者!」、「命令です!」といった凛々しい軍人らしい演技のあとにはフェルゼンとのやりとりがあり、さらに続いてオスカルが自分の心情を独白するような場面が続きます。こういった場面では、ついさっきまでの軍人としての振る舞いとは対照的に、とっても可憐で、可愛らしいさえと感じさせるものがありました。
例えば、「無礼者〜!」の後に、フェルゼンから「整った顔立ちだ」と言われ、もうその段階で少し恋に落ちているようにも思えます。朝美さんのオスカルは、そんなふうに〝乙女〟らしくなる瞬間が、セリフのない一瞬の表情や雰囲気などで、かなり細やかに表現されているように思いました。どこまで意図的なものなのか、もしくは役に入り込んでいらっしゃるがゆえの自然なものなのか、ご本人でなければ──いやもしかするとご本人でも、はっきりとわからないような細やかなものなのですが。
また「命令です!」といって宮殿のご婦人たちを解散させた後、フェルゼンとのやりとりが続きますが、ここでも表向きはフランス軍人としての建前から話をしているようで、その端々に、フェルゼンへの想いがしっかり見え隠れしていました。そしていうまでもなく、その後の「愛の巡礼」。目線が儚げに彷徨ったり、非常に繊細な表現がありましたが、こうしたところも朝美さんの魅力だと思います。そして、やはりときおり見せる表情は、どこか恋する乙女というか、可愛らしさも感じられました。フェルゼンからの手紙にハッと瞳を輝かせ嬉しそうにしたりするシーンもそうでしたね。
またもちろん、アンドレとのシーンでも、そういった繊細な表現が見られました。「隊長」として(近衛隊や、衛兵隊でのブイエ将軍とのシーンなど)しっかりとかっこよく振る舞いながらも、他方で、その後でのアンドレとのシーンではしっかりと可愛らしさも出ていました。「今宵一夜」はもちろんですが、「バスティーユ」の場面でも、軍人、そして市民の代表として果敢に戦う強さと同時に、常に、アンドレへの想い、乙女心がしっかりと重ね合わされているように感じられました。「シトワイヤン、行こう!」のセリフも、非常に力強いけれども、確かにアンドレへの愛に動かされていました。その後のあの伝統的な振り付けにおいても、勇ましいと同時に、あくまでも華麗さ、繊細さが失われていません。元々の振り付けによるところも大きいかと思いますが、やはり完全にいつもの男役の朝美さんではなく、端々に繊細さ・可憐さがしっかりと見られました。
また最期の「フランス万歳」も、とても美しく、あまりに美しいがゆえにとても辛く感じましたが(この〝辛さ〟については後述)、それというのも、オスカルの殉死は、フランス市民のためでもあり、また同時に、やはりアンドレのためだからです。これからのフランスが良きものにならない限り、アンドレが死んだ意味がない。だから「フランス万歳」という最期の場面でも、やはり同時に、アンドレへの想いがはっきりと感じました。
朝美さんの独自の魅力──美しい男
私は、実際に舞台で拝見するものとしては、朝美さんの女性のお役は私は初めてでした。けれどもオスカルは、一般的な女性のお役とはまた違いますね。
可憐な様子を見せるオスカルの朝美さんは、一見すると新鮮なようですが、実はとても朝美さんらしいお役なのかもしれないとも思いした。勇敢な軍人と、内面の繊細さ。この両面性を表現するのはなかなか難しそうですが、朝美さんという人の中で、何かもう予めきちんと結合されているような、そんな感じがいたします。
そもそも”美しい男”とは、そういうものかもしれません。強さと繊細さの両面性を兼ね備えている。その意味では『仮面のロマネスク』のヴァルモンも、全然違うお役のようで、実はオスカルと共通するものがあるとも言えるかもしれません。少なくとも私は、朝美さんのそういうところが好きなのだと改めて気づきました。
そもそも朝美さんのお顔も、すでにそういう両面性を備えていると思います。朝美さんの大きくて綺麗な瞳は、キリッとすれば、ワイルドに獲物を狙う猫(ガート・ボニート)のようにもなるし、他方で、つぶらな瞳を備えた美麗な人物、美少年や乙女、また妖精のようにもなります。こういった両面性というか、中性性というか、これこそがやはり朝美さんならではの魅力なのではないかと私は思います。今回の「バスティーユ」のダンスの際も、朝美さんの目力が非常にすごくて、2階席で拝見していたときでもこちらまで目力が飛んでくるような(?)、そんなふうに感じましたが、その際にも、そんな朝美さんの両面性、中性性の魅力を感じました。
「生き続ける」ということ
──朝美さんの歴史
今回、オスカルを演じられるにあたって朝美さんは、声のトーンも少し高めになさっているように感じました。全国公演のヴァルモンを見た後でしたから、特に、そう感じたのかも知れません。朝美さんは、お役によって声のトーンを変えられるという工夫を割となさっていると思います(雑誌のインタビュー等でもそういうお話がありました)。『蒼穹の昴』でも、春児役は少し高めでしたね。また過去には、朝美さんは女性の役を演じられたこともあります。もしかすると、そんな女性のお役を過去になさった経験も、生きているのかもしれません。
そういう意味では、今回のオスカルには、これまでの朝美さんの歴史が反映されているとも言えます。私が朝美さんを知ってからまだそう長い時間が経っていませんが、「スカステ」などで拝見して辿ってきた朝美さんの歴史というものの捉え方が合っているなら、そういうように思います。
これは私などが言うのも烏滸がましいですし、上から目線のようで申し訳ないのですが、やはり朝美さんは、どんどんあらゆる面で上達なさっていて、成長なさっていると感じます。もちろん元が悪かったというようなことでなく、いつも自らを更新して、上回っていっていらっしゃる。今回のオスカルも、これまでの朝美さんの経験が総合されて、さらに一段階、上の次元に上られたのではないでしょうか。まったく偉そうに評論するような立場でもないのですが、そんなふうに素人目にも思うのです。
そう考えると、「私の中にあなたは生き続ける」という今回の新しいお歌のテーマは、ちょっと違う角度であえて解釈するなら、今の朝美さん(オスカル)の中に、過去の朝美さん(これまでの全てのお役)が生きている。そういうようにも捉えられるかもしれません。
──宝塚の歴史
そして、そんな過去の朝美さんというのは、結局は、過去のいろいろな出会いの中で存在したものでしょうから、その意味では、同期や、月組、雪組、またそのほかのすでにご退団された皆さんも含めた多くの出会い、交流の積み重ねによるものでもあるでしょう(ここ最近の「スカステ」でも、そういう企画や言及がよく見られましたね)。
もちろん、「私の中にあなたは生き続ける」「あなたの中に私は生き続ける」という歌は、まず第一にはフェルゼンがオスカルを想って歌うものであり、また第二に、フィナーレでも象徴的に歌われていたように、言うまでもなくトップ交代、彩風さんから朝美さんへの引き継ぎのような内容にも捉えることができます。
『NOW ON STAGE』でも、彩風さんは、ご自分の退団公演ということも大事だけれども、それに加えて、この公演を一つの糧にして、これからの雪組、これからの皆さんの活躍に役立ててほしいと言ったようなことをお話ししていましたね。あのお歌は、まさにそういうことを言っています。だから、ご退団は別れなのですが、別れではない。これからも「生き続ける」。そういうメッセージなのかなと思いました。
そう考えてみると、今回のトップ交代に限らず、彩風さんのフェルゼン、朝美さんのオスカル、また他の皆さんのお役も、きっと過去のスターさんたちのフェルゼン、オスカル等々が、「生き続けている」のだと言えます。そういう意味では、ちょっと大袈裟に言えば、一回ごとの『ベルばら』の公演を見るたびに、これまでの全ての『ベルばら』の公演を見ているようところがあるのかも知れません。
宝塚には古典芸能のような側面があって、お能の「型」の踏襲のような部分があると思います。朝美さんが演じていらっしゃるところでは、例えば「今宵一夜」や「バスティーユ」などでは、特にそういう形式美の踏襲がはっきり見られると思います。考えてみれば、これらはラブシーンであったり、戦闘シーンであったりと、演劇で生々しく描くことは難しいでしょうし、またその必要もないものかも知れません。特に「宝塚」ではそうでしょう。だからこそ、あくまでも象徴的に「型」として表現するのが合っているのだと思います。
「オスカル」にとっての「朝美さん」
ただし、単に伝統を継承するだけでなく、同時に、伝統〝に対して〟新しいものを付け加えていく、という側面も当然あると思います。今回、朝美さんは「オスカル」という歴史あるお役に巡り合ったわけですが、逆に言えば「オスカル」(という役・概念)も、今回、「朝美さん」という演者・表現者に巡り合った、とも言えるわけです。
つまり「オスカル」にとっての「朝美さん」の意義──すなわち「オスカル」という伝統的に受け継がれた概念・ペルソナに対して、「朝美さん」がもたらしたものはなんだったのか、ということについても考えてみたくなります。
そうなるとやはり、オスカルの乙女らしさ、可愛らしさといったような魅力を掘り下げた、という意義があると言えるかもしれません。『ベルばら』の過去の上演のものは私は「スカイステージ」でしか知りませんが、やはりきちんと男役らしく演じられている場合が多いように感じました。もちろんそれが違和感があるということではないですし、そもそも女性である皆さんが演じてらっしゃる以上、それで十分オスカルらしさは出るとも言えるでしょう。
しかし、原作のオスカルは、やっぱり、乙女な側面はきちんと乙女で、もしかするとそこが、過去の上演のオスカルには少し足りなかったのかもしれません。時代的なものや、演じられる方々の工夫、好みのようなものもあったかとは思いますが。
またその意味では、朝美さんのオスカルは、私の印象では原作のオスカルにかなり近いと思いました。おそらく朝美さんは、原作やアニメなどのオスカルもしっかり研究なさったと思います。朝美さんはいつも役作りのための研究を熱心になさっていることをお話しされていることがありますよね(そういったところも非常に尊敬しています)。けれどもそれだけではなく、すでにお話ししたように、やはり朝美さんの持つ独自の魅力が、原作オスカルにしっかり合致していたということも大きいように思います。
つまり朝美さんは、これまでの宝塚でのオスカルを継承した上で、かつ、原作の要素もきちんと取り込み、かつ、朝美さんオリジナルの新しい「オスカル」を作り上げたということになります。
〝私〟の中に「生き続ける」
また、さらに言えば、「生き続ける」というのは、観客である〝私〟の中にも、やっぱり皆さんは生きているのかもしれません。
朝美さんのことを知って、劇場に通うようになる今の私と、それ以前の私とは、もう違う〝私〟になっていると思います。そういう意味では、私の中に朝美さんが〝生きている〟。
また反対に、朝美さんの中に私が〝生きている〟──ということは当然ないでしょうけれども、しかし、広くファンの方々の集合体という意味では、おそらく生きているのだと思います。そうであったらいいなと思いますし、きっとそうだと思います。朝美さんがいつもファンの方々へのメッセージをくださるのも、そういう意味だと思っています。
とりわけ今回こんなことを思ったのは、「バスティーユ」の場面がきっかけでした。全くもって我ながら幼稚でバカみたいなことを言っていると思うのですが、朝美さん(が演じるオスカル)が死んでしまうのが、本当に本当に、とても悲しかったのです。
有名な美しい場面ですし、漫画でもアニメでも、また過去の上演(映像ですが)でも何度も見たもので、すでにお話ししたように古典芸能の「型」のような場面です。それでも今回は、特別に悲しかったのです。
それはおそらく、朝美さんが演じていらっしゃるからだろうと思います。大好きな朝美さん(が演じる役)が死んでしまう。あんなに美しいオスカルの朝美さんが……。この悲しさが、他の全ての感情よりも真っ先に湧いてきてしまいました。本当にこんなの、お芝居の感想としてどうなんだ? と自分でも思うのですが、でもお芝居とはいえ、朝美さんが死ぬところを見るのが、なんだかとても辛かったのです。
そしてそれはおそらく、朝美さんがいなくなったらどんなに寂しい世界になってしまうんだろう……? と改めて思ったからではないかと思います。だから少しでも長く、男役・朝美さんを見ることができますようにと祈り、これからも応援したい(というか、実質的には私のほうがいつも応援されているのですが)という気持ちになったのでした。
また、こうした(若干謎な)私の悲しい辛い気持ちは、「バスティーユ」の後に(「バスティーユ」の場面全体が回想シーンという位置付けでしたね)フェルゼンが歌い、また再びフィナーレで歌われる、あの「あなたの中に私は生きている」という歌で、ああ、そうか、朝美さんは私の中に生きているんだな、と気づき、癒されることになったのでした。……ええ、もちろん朝美さんは普通に生きていて、この後のフィナーレでもちゃんと目の前で歌っていらっしゃったわけですが、改めて、すでに私の心の中に朝美さんがいらっしゃるんだな、ということに気がついたのです。
ご覧なさい、宇宙──自然と社会のくびき
ところで私は『ベルばら』は「スカステ」でしか見たことがなかったので、冒頭の「ご覧なさい」は、やっぱり、おお、これが!という感じがしました。小公子、小公女さんは、やっぱり本当に可愛らしいですね。あの子たちは一体どういう存在なのだろうと思うのですが、なんとなく宮廷にいそうな少年少女のような姿で、イメージ上の存在、薔薇の妖精さんのようなものなのでしょうか。
でもあの子たちのおかげで、これから漫画の世界、幻想的な世界に入っていくのですよというお知らせにもなっていますね。第1幕、第2幕とも、あの子たちから始まります。第2幕は少し悲しいメロディーで歌いながら、これからの物語の運命を暗示していましたが、やっぱりあの子たちは、あくまでも基本的には笑顔で歌い踊ります。「怨嗟の声が……」とか、この子たち小さいのによくそんな言葉知ってるね(漢字書ける?私は書けないよ)などと思いながら、おそらく歴史を超えた存在、個々の人間の悲喜交々を俯瞰して見ているような、そんな超越的な存在なのだろうと思います。それは薔薇の花や「マロニエ」と同じように、「自然」や「宇宙」に属しているのでしょう。
その意味では、フェルゼンもオスカルも、「広い宇宙」や「マロニエの木立」といった、「自然」や「宇宙」の観点から話をしていました。かれらは歴史を俯瞰した、宇宙からの視点、高い視座を持っているのです。やはり貴族というか、精神において高貴なのだと思います。(それに対して平民であるアンドレは、あまりそういう視点はないかも知れません。目の前の愛するオスカル、目の前の困っているパリ市民、等々に集中していきます。でも、それはそれでまた、彼の良いところなのです。)
フェルゼンが、亡きオスカルに思いを馳せ、白い薔薇を捧げながら語りかけるシーンでは、「[人はなぜ]大きな宇宙の中で生きていこうとは思わないのか」と話していましたが、フェルゼンとオスカルは、そういう「宇宙」というような視点で繋がっているのだと思います。その後の「生き続ける」というメッセージも、この「宇宙」という大きなものを背景にして、意味を持ってくるものだと思います。
フェルゼンが鞭を振りながら馬車を馳せるあのシーンも、なんだか「宇宙」を駆け抜けるような、そんな雰囲気さえありました。アンドレに「身分違いがなんだ!」と喝を入れていましたが、フェルゼンはやはり、「身分」のような人間のしがらみを超えた高い視点を持ち、自分の愛を貫こうとしています。むしろフェルゼンとアントワネットの関係は、オスカルとアンドレよりももっとたくさん、あれこれ飛び越えないといけない「くびき」がある。そういう「くびき」から(ほんのひととき)放たれて、ピンク色の綺麗な薔薇から登場して愛し合うあのシーンでは、本当に無邪気で自由な様子でしたよね。薔薇の花というものはやはり自然のもので、人間社会のしがらみとは関係がない。自然の法則、宇宙の法則に従って、咲いては散るだけです。王妃様が「マリー」と呼んでもらったときのあの笑顔は、まさに薔薇の花がパッと咲くような無邪気な可愛らしさがありましたが(後ろを向いた時の頭のお花の飾りも本当に可愛らしかったですね)、人間社会の「くびき」から解放された、とても自然な表情でした。
その少し後の場面で、ご婦人たちが「おおプランタン」と歌い、「ウキウキしちゃう」とはしゃいでいました。オスカル隊長に叱られてしまっていたように、いかにも能天気な貴族たちといったコミカルなシーンではありましたが、でも一方で、ああいう率直な喜びはそんなに馬鹿にできるものでもないはずですよね。春が来て嬉しいな、花が良い香りだな、といったような、自然の変化を素直に喜ぶ、非常にシンプルで、むしろ人間らしい喜びと言えるかも知れない。
フランス革命は人々が過剰に政治化されてしまった時代だとも言われます。オスカルはアンドレの死を受けて、彼の死を無駄にしてはいけないと命懸けでバスティーユを目指しますが、やっぱり、こんなことにならなければ、オスカルとアンドレは普通に結婚して楽しく暮らしていたかもしれない。そんなパラレルな世界もあったのかもしれないなどと少し思ってしまいます。パリに行く前日(「今宵一夜」)、2人で星空を眺めていましたが、宇宙や自然の美しさに感嘆し、人間らしいシンプルな喜びを噛み締めていました。
そのパリでもオスカルは、「女伯爵の称号を捨てよう!」とすごく明るく言い放っている。「もろもろのくびきよ、さらば」と言い、平民のアンドレとも「結婚式だ」と嬉しそうに誓い合います。オスカルも「くびき」から自分自身を解放し、自然に帰ろうとしています。
こんなふうに、実は自然と人間社会のくびきという対比も、この作品の一つのテーマなのかもしれません。冒頭の「ご覧なさい」も、この綺麗なバラを、この自然を、宇宙を、見てご覧なさい、そこから学んでみなさい、というメッセージのようにも感じられました。
その他の皆さん、お役
──アンドレ・縣さん
縣さんのアンドレは、縣さんの元々持ってらっしゃるお優しい雰囲気が端々に出ていて、オスカルへの優しい愛情、包み込むような愛情に感じられました。
「なぜついてきたー!?」は、本当に。もう、なんでついてきた〜?って、オスカルと一緒に内心思いながら聞いています。もう、どうして……、一人であんな橋の上なんかにいるから……。原作などを見るとわかるように、他の仲間たちには目が悪いことを言ってあったのですが、オスカルには内緒にしていたんですよね。
あのオスカルの叫びには、不器用なあいつ、なのにいつも自分のために行動してくれるあいつ……っていう、そういう気持ちが感じられます。不器用なアンドレ、そういうところが好きだったけど、そのせいでこんなことになってしまった……という、悲痛さが込められている。
息絶え絶えに、命を大事にしろとアンドレはオスカルに言うのですが、まず自分の命を大事にしないといけないのに……。銃弾に打たれる演技も、すごくリアルでした。もちろんお芝居ですから、その後、歌を歌ったりするんですが、それでも。
──マリーアントワネット・夢白さん
最期の牢獄の場面で、ステファン人形を取り戻し、「人間」になり、また再び「王妃」になる。スープ、お人形、そして愛する人。大事に思ってくれる人がいること。こうやって、お人形のようだった状態から、人間らしい生き生きとした表情を少し取り戻す。もしかすると、オーストリアを出た頃に一瞬だけ戻ったかもしれません。そしてその上で、王妃として全うすることを決断するわけです。フェルゼンも迎えに来ていましたし、逃亡することも選ぼうと思えば選べたのに、です。こうやって口で言うのは簡単ですが、実際にそんなことを成し遂げられるというのは、相当に難しいことだと思います。やはり貴族、王家の血筋なのでしょうか。外見上は囚人の質素な姿に変わり果てていながらもなお、生まれ持った高貴さが内側から輝いているようにも感じました。ただの少女が王妃にさせられた、というより、やはり本来の王族だったのかもしれません。こんなことをあれこれ考えさせる夢白さんの演技でした。
フィナーレ、サヨナラショー
ちょっと特殊な形式のフィナーレ、パレードだったと思います。最後は、お役の衣装のままで終わる。あの華やかなベルサイユの貴族の世界は、もう丸ごとなくなってしまったわけです。そんな世界の終わりと共に、彩風さんの雪組も終わる。そんなことなのかもしれません。
グリーンの衣装の朝美さんたちが、銀橋の白い衣装・旅立ちの衣装の彩風さんに、アカペラで舞台から歌いかける場面はとても印象的でした。フェルゼンがオスカルを思って歌った歌が、ここでは逆に、オスカル=朝美さん(たち)から歌われるわけです。
「サヨナラシヨー」は、『蒼穹の昴』のお歌を、彩風さんと朝美さんとが、少し演技も交えながら歌うところがとても良かったです。「昴」に、お互いに目指すべき夢のようなものを託し合うようなイメージでしょうか。ちなみに『蒼穹〜』公演では朝美さんは、ボロボロの(失礼……)お姿で歌っていたのですが、今回はキラキラで(当たり前ですが)とても良かったです。
最後は、黒燕尾の群舞で締めるという、非常に美しい様式でした。やっぱり宝塚って最高だ、これは宝塚でしか得られない喜びだ、と強く思わせてくれました。そういうことも、彩風さんの狙いの一つなのかもしれません。
その他、細かいこと
──公演ドリンク・カクテル
大劇場で幕間休憩にいつもいただく公演カクテル。ノンアルコール版は、爽やかな青リンゴの味だったと思います。美味しかったですし、見た目も綺麗でした。
アルコール入りの方は、4輪のバラ、おそらく、フェルゼン、アントワネット、オスカル、アンドレ、ということで「フィアフォーゼス」ウイスキーが使われた少し大人な(?)渋い味でした。
「フォアローゼス」、美味しいですよね。ラベルも可愛いですし、少し甘い香りも感じられるウイスキーで、しかもお値段も比較的に手頃なので、この公演カクテルをきっかけに、ときどき家でもいただくようになりました。
──第2幕は泣きすぎるが、「化粧崩れ防止スプレー」(?)の効果を実感
もう今回の公演は、特に第2幕の後半は、何度見ても、どうしても毎回、とんでもなく号泣してしまうものでした。
まず、アンドレが撃たれてしまうところで号泣。直前まで「結婚式だ!」とウキウキ気分なオスカル隊長だったのに……。そう思うと辛くて辛くて、泣いてしまいます。そして「なぜついてきた〜」っていうのが、本当にそうだよなと思って泣いてしまう。
でもすぐここから「シトワイヤン、行こう!」に入ります。そうだ、泣いてる場合じゃない!オスカル隊長についていくんだ!バスティーユを目指すんだ!と、気を取りなおすのですが……そこでまた、銃声が。また泣いてしまいます。一番たくさん泣いてしまうのはやっぱりここですね。そして「フランス万歳」。白旗で市民たちが喜ぶ中、ロザリーが泣き叫んで幕。ロザリーの叫びで、またこちらもさらに涙が押し寄せます。
そう思っていると、一転。また、今回追加された「生き続ける」のお歌のシーン。フェルゼン伯爵の「セラヴィ〜アデュ〜」で、また泣いてしまいます。とってもいいメロディ、いい歌詞なんです。本当に美しい場面。「アンドレ、オスカルのそばを、離れるんじゃないぞ!」というところで、特に泣いてしまいます。ペガサスに乗って空を駆ける二人のイメージが浮かびます。フェルゼンにも、きっと見えていたんだと思います。そして、マロニエの木、宇宙に想いを馳せる。オスカルも、窓辺で星を見ていましたね。「宇宙の中で、小さな存在だ」と。ここに何か通じ合うものがあったのかなと思いました。そんなフェルゼン、オスカル、アンドレのことを思って泣いてしまいます。
そして、また泣いてしまうのは、王妃様の牢獄のシーン。特に、メルシー伯爵がステファン人形をお返しする場面……。ここでまた涙が溢れてしまいます。死刑の直前というもう最悪の状態で、王妃様はオーストリアからやってきたときのような無邪気さを取り戻すのですが、もう遅かったわけです。「大人になられたばっかりに、王妃様は……」というメルシー伯爵のセリフに、涙が溢れます。王妃様、運命に翻弄されたけれども、平凡な女と自分のことを言っていたけど、お人形で遊んですくすくと育って、普通に平凡に幸福になれた、そんなルートもあったのではないかと、どうしてもあの無邪気な表情を見て思ってしまいます。
そして、フェルゼン登場。王妃様、お助けにまいりました、って、もう本当にカッコよすぎるわけです。でも、こうして、ロザリーたちや、メルシー伯爵、そしてフェルゼンと、みんなの愛に囲まれて幸せだと思ったがために、かえって決意を強くしてしまいます。これが本当に皮肉に感じます。そして、最期の「妃様〜!」で、また泣いてしまう。
こんなふうに、少なくとも5回は、ものすごく涙が溢れてしまうシーンがあります。何回見てもそうでした。
さて、ここで本当にどうでもいい情報かもしれないのですが、「化粧崩れ防止スプレー」(正式な名前はなんだっけ?ドラッグストアでよく売ってます)というのがあって、夏場に出かけるときには一応、汗で化粧が崩れないように使っています。でも正直、これがどのくらい効果あるのか? 本当に効いてるのか? なんか水みたいな成分がファ〜と噴き出てくるだけで意味あるの? と半信半疑で、実はおまじない程度にしか思っていませんでした。
けれども今回、このスプレーがどれだけすごいのかをはっきり実感したのです。今回の公演では、毎回5回以上、涙が明らかにぼたぼた流れ落ちるレベルで泣いているのですが、一切、化粧が崩れていなかったようなのです。いや、「一切」かどうかは厳密にはわかりませんが、でも観劇後、人に会ったりしたときも、全く崩れてない、本当に何も変になってない、と複数の人たちからはっきり言われました。観劇後どんだけ顔が酷いことになってるかわからんな、ささっと下向いて帰らにゃなと思っていたんですが、どうも大丈夫だったようなのです。そんなわけで今回、「化粧崩れ防止スプレー」(仮)がどれほど効果が高いのか、実感することができたというわけです。今まで疑っていてごめんね。