けっこう昔のドラマなのですが。私も、DVDで見ただけなのですが。
──でも、なんだか出口がひらけない、人生がふさがっているような気がする……そして、もう他に見たいドラマも映画もアニメもない、なんかいろいろつまんない……っていうようなときに、ちょっと試しに見てみて?って思うドラマです。
(そういう感じで、私は過去に何人かの人にオススメしてきていますが、外れなくみんな、すっかり気に入ってくださっています。なんとなく、わかります。このドラマは。この人にオススメしたら良さそうだな、というのが。)
ただ、試しに見てみて?としか言えなくて、これ何なの?どういう話なの?って聞かれても、なかなかうまく説明ができないのです、このドラマ……。まあ、日常もの、って言ってもいいのかな……でも、……う〜ん。
(もくじ)
- 一言でさっくりとまとめることを拒むもの=「生」
- 複雑に仕掛けられたメッセージ
- スイカ=地球=宇宙?──生と死
- 私たちが、死なないで生きていくためには、どうしたらいいか? / 「いてよし」の連鎖
- この世界そのもののような……
一言でさっくりとまとめることを拒むもの=「生」
そう……結局この作品は、何を描いているのだろう……と、決して一言では言い表せないのです。*1
テーマ、と言っても、難しい。これがテーマです、って、一言で言えればどんなに簡単か。
……というより、「生きる」ことそのものがテーマであって、しかも、「生きる」ことそのものっていうのが、決して一言で言い表せない、統一のテーマで言い切ることができない、一個一個の出来事に、毎日、毎時間、毎分毎秒、対処していくしかない、そういうことを繰り返していくしか人が生きていく方法はない……そしてそういう生きるということそのものの営みは、決して辛いことばかりではなくて、そういう連続の中にこそ、楽しさ……というより、「充実」があるんだ、っていうような……そして、こういうようにまとめて要約して語っちゃうこと自体を、そもそもこのドラマは禁じているような、いましてめているような……そういうドラマなのです。
ああ、もうこの時点で、何を言っているのかわからないですよね。そう、わからなくなる。このドラマは、それくらい、考えさせられる。そして、生きるということはどういうことなのか──いや、そういう抽象的な問い方が既にこのドラマが禁じているものだ、そうではなくて──、「私は」どうやって生きていったらいいのか、っていうようなことを、嫌が応にも、考えさせられる、そして、わからなくなる……わからなくなるということは、良いことであって、つまり、わかったふりをしていたこと、蓋をして、まるっとまとめて、わかった気になっていたことが、実は全然わかっていなかった、ということに気づくということで……そこからこそ、「私が」生きるということに真剣に向き合うという姿勢が、きっと生まれるのです。*2
しかも、ですね。こんなふうに書き出すと、なんだかどえらい難解な内容なのかと思われてしまうかもしれないのですけれど……いえいえとんでもございません、最初から最後まで、ほとんどずっと笑いっぱなしで、気楽〜に、ご飯でも食べながら、するする〜〜っと、流し見をすることだって、できてしまいます。いえいえ、むしろ、ご飯でも食べながら見るような見方こそが、一番ちょうどいいと思います。
食卓を囲むシーンが多いのですけれども、いわば、そういう食卓を囲むようなシーン、具体的で、日常的で、何の変哲も無いシーン……そういったものの中に、何か人生の真実がある、っていうようなことに、さりげなく、ふっと気づくような……そういうドラマなのです。「梅干しの種を見て、泣けた」。例えばこの最終回のある人物のセリフに、こういった真実が凝縮されているような気がする。
だから、最終的に、「とにかく見てください」としか言えないのです。そして、最終的に、どうやってお勧めするのがいいかと言えば、「ご飯でも食べながら、気楽に見られる、下宿日常ものですよ、個性あふれる役者さんたちの演技も味わい深くて、皆さんの普段着のお洋服も何気に凝ってておしゃれで、レトロな雰囲気が味わえて、とてもいいですよ」って、おすすめするのが一番いいのだと思うのです。「雰囲気を味わうドラマです」って。
そして、雰囲気を味わうつもりで、ご飯でも食べながら、のんきに見てみたら……なぜかうっかり、ハッとさせられたり、ぐさっと刺されたり、パッと目の前が開けたり、なぜか涙が溢れたり……なんて、うっかりしてしまったら、いいと思うのです。──しかも、そんなふうなサプライズを最後まで味わうことなく、「雰囲気ドラマで素敵だった〜」って、ポヤポヤな感想しか持たない人がいたとしても、またそれはそれで、いいと思うのです、そういう人は、もうじゅうぶん幸福な人なのでしょうから。
(あるいは、ちょっと見てみたけどつまらなかった、って思う人も多いかもしれない。どこに見所があるのかわからない、って思う人もいるかもしれない。そういう人は、無理して見ないほうがいいと思います。ドラマチックなドラマを、探したらいいと思います。……私にとっては『すいか』は、これ以上ないくらいドラマチックなドラマなのですが……)
複雑に仕掛けられたメッセージ
それと、小林聡美、もたいまさこ、関係で、様々な映画やテレビ番組が存在しますが……私もそれらにも一応ある程度手を出したクチですが……、私が思うに、それらは『すいか』とは全く違います。『すいか』には、『すいか』にしかないような、たくさんの宝物が、あまりにも散りばめられすぎている。
さっきも雰囲気ドラマ、ぼんやり流し見したらいい、と言いましたし、そういう見方を許す作りになっています。けれども、よくよく見てみると、もうそこら中に、それこそ数秒ごとに、細かく細かく、様々な仕掛け、ネタ、メッセージ、伏線、などが仕掛けられている。複雑な糸がはりめぐらされた、巧妙なからくり細工のようになっている。と思う。何回も見返して、ようやく気づく仕掛けもたくさんある。ああ、ここがこことつながっていたんだ、って、後から後から気がつく。
スイカ=地球=宇宙?──生と死
それで、結局一切中身に触れていないのですが、せめてタイトルについて。
前から思っていたんですけど、そもそも『すいか』っていうタイトルが、一体何の意味があるのか、わかるような、わからないような……なのです(どこかで脚本家の方が、”正解”を、インタビューなどで答えていたらアレなのですが)。夏に放送された、夏のドラマだから、かな……。そこで、一つの解釈(読み込み)を。
このドラマは、ほとんど三軒茶屋という非常に狭い範囲での日常が描かれているだけなのですが、しかしどういうわけか、ところどころで細かく「宇宙」の話が登場します。木星の話とか、宇宙が膨張している話とか……。宇宙から見た地球の映像も、何度も映ります。第1話の冒頭からしてそうです。ハルマゲドンで地球が滅びるとか、そういう話題から始まりますから。
それで、画面の真ん中にポツンと、宇宙空間に浮かぶ地球が映し出される映像と、オープニング映像でぽ〜んと飛び出すCGの大きなスイカの映像とを順番に眺めていると……あ、もしかしたらこういうことかもしれない、と思いました。
つまり、丸いすいかと、丸い地球と……この2つが、結局は同じものなんだ、っていうような、そういう真理に気づくような……そういうことなのかもしれない、と思ったのです。
小さな下宿の日常を淡々を描いているだけのように見えて、しかしそれはいつも同時に、宇宙論的な視点から捉えられている。生と死とか、そういう宇宙論的な真理や法則が、日常のど真ん中を貫いて、いつも回っている、というような……そういうことなんじゃないか、って。
生と死。日常は「生」ですが、このドラマはその日常の中に潜む「死」を、随所で描いています。基本的に、穏やかな、レトロな下宿での日常を描いているのですが、それを見ていると、どういうわけか私は、なんとなく、主な登場人物がみんな、もしかして、ふとした瞬間に死んでしまうんじゃないか……などと、つい思ってしまうときがあるのです。もちろん、これは私の思い過ごしなのかもしれません。実際、サスペンス的な要素などはほぼ全くありません。みんなが見るからに憂鬱そうに暮らしているわけでもありません。基本的にとてもコミカルな雰囲気で、みんな楽しそうに暮らしています。けれども……。
絆さんは、黒い喪服を着て屋根の上でケーキ(?サンドイッチかも)を食べたあの日から、「滅亡しちゃったみたい」に生きていると言います(ハルマゲドンは、本当にやってきてしまったのです)。基子さんは──基子さんのもう一つの可能性、いわばパラレルワールドの基子さんのような存在が馬場ちゃんだと思うのですが、その馬場ちゃんは、半ば「死者」のように描かれています*3。教授も、同窓生のご病気などを通じて、死が身近であることを意識させられますし、また最終話での「旅」というものが、なんとなくそれを予感させるもののように感じます。
さらに、脇役についてもそうで、綱吉も、基子さんのお母さんも、あの大学生も……。みんな、「死」が目の前をかすめ通るのです。
私たちが、死なないで生きていくためには、どうしたらいいか? / 「いてよし」の連鎖
そういうことを考えると、強いて言えば、このドラマの一つのテーマは、「私たちが、死なないで生きていくためには、どうしたらいいか?」っていうようなことが描かれている、と言ってもいいのかもしれません。
例えば、教授が基子さんに言う「[この世に]いてよし」(第1話)というセリフは、その答えの一つなのかな、と思います。
というのも、その少し前には、基子さんが絆さんに「そんなこと[死ねばよかった]言うもんじゃありません。誰が死んだって同じくらい悲しいに決まってるでしょ」(≒「いてよし」)と言っていました。
基子さんは、自分がいま一番言って欲しかった言葉を、自分に対しては言うことはできなかった。けれども、絆さんには言うことができていたのです。
そう、不思議なことに、私たちは、自分で自分にそれを──「いてよし」を、言ってあげられない……けれども、他の人に言うことはできるし、また、他の人から言われると(ほとんど初対面の人からであっても)救われる(かもしれない)──つまり、そういうことなのかもしれません。ひとが、他の人たちと一緒に生きることや、その理由っていうのは。
最終話では絆さんが、ある人物を抱きしめるのですが……これも「いてよし」という意味だと思います。絆さんもまた、自分で自分に、ずっと言ってあげられなかったメッセージです。
この世界そのもののような……
とはいえ、こんなふうにさっくりまとめきれるような単純なドラマではありません。もっともっと、たくさんのことが詰め込まれていて、しかも、詰め込まれているという感じがしない、そんな作品なのです。
だから私は、これからも、時々思い出しては、このドラマを再生すると思います。数年に一度くらいの頻度かもしれないけれど。それでも、そのたびに私は、また別の新しいものをここから取り出すのだろうと思います。そういう複雑な、この世界そのもののような……そんな作品、それが『すいか』です。
*1:ドラマ『すいか』(2003年放送) 出演:小林聡美、ともさかりえ、市川実日子、高橋克実、金子貴俊、片桐はいり、小泉今日子、もたいまさこ、白石加代子、浅丘ルリ子、他。(豪華よねえ…) 脚本:木皿泉 製作:日本テレビ
*2:無知の知から探求が始まる……っていうのはよく知られていますけれど、それは単に、抽象的な、距離をとった、「対象」への問いかけが始まるというよりも、いま・ここにいる、他でもない「私」自身の生への問いかけ、それも、身をえぐられるような、逃げ道がふさがれていくような……そういう、目をそらすことのできない、目の前の、「この私」の存在=生きることそのものへの問いかけなのだと思います。ソクラテスが言っているのは。
*3:馬場ちゃんのお母さんがすでに死んでいることも、さりげなく描かれています(墓参りのシーン)。もしかして、基子さんは、馬場ちゃんと違って、お母さんが生きていたから──あの鬱陶しい、どうにかして逃れたいと願うような束縛する係累があったから……だからこそ、馬場ちゃんにならずに済んだ、ということなのかもしれません。