ロマン主義アニメ研究会

感想、考察、等。ときどき同人誌も作ります。ネタバレ注意。

「ドキドキするとき無敵でしょ」──めがね・めがみ・かがみ(『プリパラ』)

Make it!」の歌詞を噛み締める。 

今ぐらいの時期って、すごく好きな季節なんだけど、どうも理由なく少しだけ暗い気持ちになってしまう。

そこで、「Make it!」を聞いたり、歌ったりする。この曲は不思議な、魔法のような曲で、ちょっと落ち込んだようなときでも、歌詞を噛み締めながら歌ってみると、いつのまにか元気になっている。

もくじ

ちょっと歌詞をかみしめる

オシャレなあの子マネするより

自分らしさが一番でしょ 

自分らしさが一番でしょ!っていう、ここ。元気づけられる。どうやったって、完璧に可愛くなれない自分がいるけれども、そうよね、らぁらちゃんたちもこう言ってるものね、と思える。

ハートの輝き感じたなら

理想探しに出掛けようよ 

理想を探しに出かけようよ!っていうのは、だから「自分の理想」っていうことですよね。自分らしい理想を探せばいいのです。めが姉ぇは、あなたに合ったコーデは?ブランドは?って、心の内奥を「めがね」で見透かして、提案してくれますよね。お仕着せられた理想なんかではないのです。 

ふえていく想い出ぜんぶ

バキンと半分こで

友達コンプリートしよ 

私は「ともチケ交換」は、結局そんなにたくさんできなかったけど、そういうことじゃないですよね。ふわりの「消えない友チケ」のことを思い出してみましょう。シーズン3の、「あいふれんどゆう」回の、アイドルたちの言葉を思い出してみましょう。さらにその次の最終回での「ファルルの法則」を思い出してみましょう。ファルルは「ドッジボール」がしたかった(結局できなかったけど…)。プリパラで遊ぶことだけを、言っているのではないのです。むしろ、プリパラで遊ぶことは、この世界で遊ぶことの「比喩」なのです。

ですから、ここの歌詞の部分では、いままでお世話になった人とか、仲良くしてくださった方とか、もう今は全くどこで何をしているかわからないけれども遠い昔一緒に過ごして楽しかった人たちとか(毎日のように登下校をともにした友達、帰りにケーキ屋さんに寄ったり、いろんなことをしたけれども、今ではすっかりどこで何をしているかわからない、そんな友達…とか──なぜかいま急に思い出されてきた)、そういう人たちとの思い出がよみがえる。そうだよね、消えない友チケ交換をしていたんだ、それは心のプリチケバッグの中にしまわれているんだ、って(=「友達コンプリート」)。

ドキドキするとき無敵でしょ!

そして、いよいよ、次の部分です。

Make it! ドキドキするとき無敵でしょ

ここです。この歌詞は、本当に、初めて聞いた時から、ず〜っと、私の心に鳴り響き続けています。一番最初にプリパラを見たときから、この短いフレーズには、そのときはまだはっきりとはわからないながらも、明らかに心に響くものがありました。

「無敵」という言葉。これは完全に主観的な意味なのです。「〜でしょ」っていう語尾が、それを表しています。そして、それでいいのです。まったく主観的に、けど完全に「無敵」で最強なんです。なぜなら「大好きが今の答えでしょ」と、2番のサビにあるように、「大好き」な自分になれているということが、一番大事なのだから。*1

私と女神 ──透明さ・プリズム

だから「無敵」になったらぁらは、神アイドルにだってなれちゃうのです。 

神アイドル誕生に関わる「女神」のシステムは、このあたりをうまく汲んでいるな、と思います。つまり、神アイドルになるためには、客観的な「いいね」の数が重要なようでいて、実のところそれほど決定的に重要なものではない、という点です。神アイドルは、それよりも「女神が認める」という、あいまいな基準に大きく依存しているのです。*2

では、「女神」が「認める」っていうのは、そもそもどういうことなんでしょう。──女神さまは、誰がなんと言おうと、きっと私のことを見てくれていて、私の魅力を分かってくれていて、認めてくれいる……そういう存在でした。そもそも女神は、神アイドルグランプリに限らず、それに出場していないアイドルたちも含めて、アイドルたちのことをいつも見ていてくれて、認めてくれていました(タウンカフェでの場面を思い出してみましょう[シーズン3、124話])。

また、天空の神殿?で、ガァルルは、女神の、心の奥まで見透かすような優しい言葉に思わず「甘噛み」を止めて、うるっと涙をこぼしてしまいました[シーズン3、130話]。

こういう「私と女神」の「対峙する関係」においては、完全に純粋で・透明な関係が成立しています。つまり私たちは、女神の前では嘘をつけない。女神の前では、本当はこうなりたい、といったような私たちの「ハートの輝き」は、いくら隠そうとしても隠しきれない。女神はまるで、純粋で透明な「鏡」のような存在なのです。 (あるいは、小さくて細い「ハートの輝き」を、キラキラと「分散」させていっそう大きく広く輝かせてくれる「プリズム」のような存在。)

私とめが姉ぇ ──メガネのレンズ

ところでこのような「私と女神」という純粋な「対峙する関係」は、すでに見覚えのあるものに感じます。つまり、「私とめが姉ぇ」の関係です。プリパラデビューの場面で、めが姉ぇの「レンズ」は、私の心の奥を見透かし(=「心の輝き感じたなら」)、あなたにあったコーデは?ブランドは?と、提案してくれます(=「理想探しに出かけようよ!」)。らぁらがプリズムストーンに初めて入ってみたとき、ちょっと強引なくらいグイグイとめが姉ぇはらぁらを「プリパラ」へと導いていましたが、本当のところらぁら自身がそうしたくて仕方がないという心の奥底にある気持ちを見抜いていたのだと思います(それだからこの同じシステムは、みちるの中にミーチルをも見つけるのです)。

女神、そしてめが姉ぇは、私の「ハートの輝き」をきちんと見つけだしてくれて、救い出してくれて、温めてくれるのです。──めが姉ぇも女神も、結局のところ、同じ「システム」の別の現れ方ですよね。 

私と私(マイキャラ) ──筐体=鏡台

そしてさらにさらに、この「私と女神」・「私とめが姉ぇ」という「対峙する関係」は、結局のところ、「私と私」という最も純粋な関係に還元できるのではないかと思います。

プリパラデビューのとき、「これが私……」と鏡越しに対峙する「らぁらとらぁら」。つまり、私と、鏡の向こうの私=プリパラ内の私(=マイキャラ、アイドルらぁら)との関係。──結局のところ、「私」のことをいつも見ていて、心の奥底の輝きを認めてくれる、システムも、女神も、めが姉ぇも、つまるところ「筐体」(=「鏡台」を模した形をしている)の向こう側の、「私」(=マイキャラ)だったのではないでしょうか。

私は、私の「心の輝き」を、本当は知っている。それを見つけ出し、救い出し、大事にしてあげて、理想を叶えてあげる。それは全部「私」のため。コーデを考えながら、「私」というお人形さんを私のためだけに飾り付けていく私。この過程が、プリパラでは、女神や、めが姉ぇという姿を借りて、現れてくるのです。

私は私に嘘をつけないですよね。女神にもめが姉ぇにも嘘をつけないのは、このことを反映しているのだろうと思います。

ですから、よく言う「自分のためにするおしゃれ」──そして多分おしゃれの本質──というのも、こういうことだろうと思います。 *3

思いっきり…許されている…

で、「Make it!」の「ドキドキするとき無敵でしょ」という歌詞は、こういう意味なのだと私は受け止めています。 

ここの歌詞のところは、本当に、初めて聞いた時から、ず〜っと私の心に鳴り響き続けています。……一番最初にプリパラを見たとき、この歌詞には、まだはっきりとはわからないながらも、何か心に響くものがありました。あ、わかる!プリパラが言いたいことは、多分ここにある!と思いました。そして、この「わかる」という感覚は、どんどんエピソードを追いかけるにつれて、ますます確信を深めました。繰り返し繰り返し、形を変えて、この同じことが描かれているのだな、と思うようになりました。

つまりそれは、このような少女趣味*4に不可欠と思われる、「無敵」な構造、ある種の(こういってよければ)ナルシシズム的な構造を、的確に表しているし、またそれを「許し」てくれて、温めてくれるからなのです。

「ここではすべての女の子にそれが許されているぷり」

「思いっきり…許されている…」

(シーズン1、1話) 

私の中の少女は、ついに「許された…」という気になりました。おそらく私が最初に聞いたとき、なんだかすごく心に響いて、安心したような気持ちになったのは、なんだか「許された」というような感覚もあったんじゃないかと思います(ゆるされてあること=パラダイス)。「ドキドキするとき無敵でしょ」の「でしょ」っていう語尾も、だってそうでしょ? 別にそれでいいでしょ? っていうような「許し」を感じます。  

鏡の中の自分に「ドキドキ」できる。これすなわち、最強で「無敵」で「神」なのです。ここにはもう誰もいません、……究極的には私のほかにだれもいなくてもいいのです。*5

もちろん、言うまでもなく「友達」、つまり「私」以外の人たちだってとても大切です(むしろそれがプリパラのメインのテーマです)。けれども、こうした「友達」たちのパラダイスが成り立つためにも、まず何よりも「自分らしさが一番でしょ」なのです。「一番」めにくるのは、「自分らしさ」。そしてその「自分らし」い「私」たちが「友達」になることができるのです。プリパラにおける「友達」は、一人では立っていられないような人たちどうしが依存するような関係ではない。お互いの思惑を気にし合って、遠慮し合うような関係でもない。……そうですね、「切磋琢磨」はしても、「付和雷同」はしない、ということになるでしょうか(「ねえねえ、今のちょっとシオンっぽくなかった?」ドロシー)。

そういえば、ちりやみちるのような、プリパラの外→内での性格の変化(はわわ、むりむり[依存心の現れ?]→できるできる)はあっても、その「逆」の変化はないですよね。

 

・・・こんなふうに私は今でも、『プリパラ』を、味のなくならないガムのように、ときどき何度も噛み締めたりしては、勝手に元気になったりしています。

 

*1:(蛇足です。)それゆえ、SNS的な「人気者になりたいときめき」は、こうした鏡、レンズ、プリズム、の構造とは異なるものかもしれません。そこでは、「自分」が「ドキドキする」だけで「無敵」になることはできません。人気、評判、空気を読んでいること、などを通じて、観衆たちの快の総量を最大化することが必要でしょう。

*2:神アイドルグランプリのトーナメントは、投票数で決まります。けれども、そもそもトーナメントに参加するためには、女神にSCRをもらわないといけない。そしてこれは、女神が「認める」か否か、という一点にかかっている……いかに観客の声援を得ても(ドロシーのことを思い出してみよう)。また、トーナメントに参加して得票数を得たとしても、ダイヤモンドに包まれた神ドレス・シューズが解放されなければ、結局は神アイドルになれない。

さらにさらに、たとえドレスが解放されたとしても、続けてのライブで女神に「勝たないと」神アイドルになれない。──しかも、この女神との「勝負」は、得票数を争うというようなことはしない。……そんなことはしてはいけないのでしょう。女神と、ソラミスマイルと、どちらが得票数が多いか?なんていうような勝負の地平にまで、女神と、神アイドル一歩手前のアイドルたちとを、引きずり下ろしてきてはいけないのだと思います。

では、どうやって「勝負」するのか。──これが実はよくわからないのです。女神に「勝つ」の意味が曖昧なまま、みんな動揺し、「女神になんて勝てっこないよ〜」とドロシーはわめいていたのです(なぜかドロシーへの言及が多くなってますが…)。でも、それでいいのです。これは究極的には謎に包まれたままでいい、要するに女神が「認める」か否かっていうようなことに、すべてがかかっているのです。

これはつまり、こういうことです。今のわたし「神」ってる!と言える瞬間=「ドキドキするとき」というのは、得票数などのような、他人からの客観的な物差しでは決まらないのです。むしろ、得票数などというものは、単なる添え物のようなものでしかないとすら言ってもいいかもしれない。 

「神アイドル」を決める方法──まさにらぁらたちが、一番初めからずっと目指してきた「神アイドル」を決める方法が、「女神」という(ちょっと曖昧な)システムに依存しているのは、まさにこのあたりをうまく表現しています。

*3:余談ですが、私の愛好するロリィタ・ファッションもまさにこれです。靴下やヘッドドレスのリボンを結びながら、「マイキャラ」を着飾っていく気分になる。ロリィタでプリパラ筐体を遊ぶ、という行為は、しばしばしていた。

*4:……と言っておきます、他にいい言い方があればいいのですが。ファッション、おしゃれ……等々と言ってもいいかもしれません。ひとまず、次のみれぃの「すべての女の子に」という言葉に合わせて、こう言っておきます。

*5:そういえば、心の底かららぁらちゃんになりきって、よその人がいても恥ずかしいなどとつゆも思わず、満面の笑顔でかしこまポーズを決めている子どもたち[=プリパラの本来の対象年齢くらいの]を、プリズムストーンなどで見かけることがありました。これこそまさに、正しく・適切な「ドキドキするとき無敵でしょ!」なのだと思いました。