ロマン主義アニメ研究会

感想、考察、等。ときどき同人誌も作ります。ネタバレ注意。

『プリチャン』、アイドル「脱-魔術化」のぱらどっくす ──「魔法より素敵なライブがはじまるよ」?

 『キラッとプリチャン』のアニメ・筐体ゲームで少し遊んだ今の時点で思うことです。

 

 やっぱり何と言っても「ライブ」の部分は、「そうそう、こういうのが見たくて見たの」と思わされるような、キラキラ感がありました。

 けれども、かえってその分、「ライブ」部分と、それ以外の部分とに感じられる、ちょっとしたズレ、齟齬が、どうしても気になってしまいました。何となくつながりが悪いような気がしてしまっております。この違和感を手掛かりに、少し考えたことを述べたいと思います。

もくじ

疑問:そもそも「プリチャン」において「ライブ」はどういう位置付けなのか

 それはつまり、「プリチャン」という仕組みの全体が、一体どうなっているのかがよくわからないからなのですが、特にわからないのは、「プリチャン」という仕組み全体における「ライブ」の位置付けです。

  

「ライブ」と、それ以外の「番組」との関係がよくわからない

 確かに、「番組」を頑張ると(「いいね」が集まると)→「ライブ」ができる、という仕組みは、前作『アイドルタイムプリパラ』における、「アイドルタイムがたまる」→「ライブができる」、というような仕組みと同じもののようにも思われます。

 しかしながら、やはり『プリチャン』の場合、「ライブ」して「コーデがもらえる」という要素と、そのライブ以外の「番組」との関係が、どうもよくわからないところが多いのです。

 

 もちろん、『プリパラ』でも、『プリリズ』でも、ライブ(or プリズムショー)とライブまでのアニメのストーリーとは、いつもそんなに深いつながりがあったわけではありません(こじつけ的に急に出てくる「そうか、ライブをすればいいんだ!」という発想などは、かえって面白い部分でもありました)。

 けれども、『プリチャン』の場合、特にそれが気になってしまうのは、『プリチャン』においては、ライブの前までのストーリー部分は、ほぼニアリーイコールで、「プリチャン」の「番組」づくりになっている、ということがあります。つまり、「ライブ」とそれ以外の部分とは、一つの仕組みとしての「プリチャン」の中においてどういう関係になっているのかが、どうしても余計に気になってしまいます。

 

 これに関して特に思うのは、「プリチャン」の番組配信者は、老若男女、あらゆる人たちであり得る(ようである)、ということがあるからです。

 確かにプリパラでも、女子プリ、ダンプリ、といったようなものはあったけれども、「プリチャン」の場合は、もっと自由度が高い(ようです)。まさに現実の動画配信サービスの配信者と同じくらいに。

 しかしそうなると、コーデとか、ライブとかっていうものは、「プリチャン」というシステムにとって、どういう位置付けになるのだろう、ということが気になってきます。例えば、コーデもライブもいらないけどプリチャン番組配信だけをします、という人がいてもいいのだろうか(これらに関心のなさそうな?プリチャン配信者が、アニメ内では映ったりしている)。その場合、番組が盛り上がった結果、「ライブができますよ」と言われても、「あ、私はやらないです」と断ったりもしていいのでしょうか。

 

「めが姉ぇ」、「プリズムストーンショップ」、の位置付けは?

 さらに気になるのは、めが姉ぇやプリズムストーンショップの位置付けです。例えばユーチューブの場合、グーグルに相当するような立場なのでしょうか。しかしめが姉ぇは「店長」と呼ばれていて、そんな大規模なものを統括している人には見えません。

 また、みらい、えもたち以外では、プリズムストーンに通っている風の人があまり出てこないので、一体プリズムストーンというのは、「プリチャン」という仕組みや、プリチャン配信者にとって、どんな位置付けなのかが、よくわからないところがあります。

 例えば、プリズムストーンに関与しなくても、プリチャン配信はできる、ということでしょうか(プリズムショーはプリズムストーンショップに関与しなくてもできるのと同じように)。つまり、プリズムストーンは、「プリチャン」というグローバルな?仕組みにおいて、一つのプロバイダとか、なにか代理店的な位置付けなのだろうか。あるいは、「プリチャン」という仕組みにおいて何かを成し遂げたいと思う人のための、コンサルタントのような感じなのだろうか。

 

 ・・・いやまあ、キッズ向けなんだから、こんなことはどうでもいいんだよ、と言われればそれまでなのだけど、前作の『プリパラ』は、ああ見えて案外、いろいろ仕組みについてはそれなりに(無理やりにでも)説明がされていたように思うので、どうしても、プリチャンではいろいろと気になってしまう。

 

「フォロチケ(交換)」の位置付けは?

 また筐体ゲームで、2回目に遊んだ時、まだ誰ともフォロチケ交換していないし、1回しか遊んでいないのに、すでに「フォロワー」が増えていたが、あれはなんなのだろう(誰なのだろう)。

 「フォロワー」とは、フォロチケ交換とは直接には関係がないのだろうか。となると、フォロチケ交換とはどういう意味を持つのだろう。

 アニメでは、フォロチケ交換するシーンで、「特別な意味でのフォロワーだよ」みたいなことが言われていたが、となると、「フォロワー」という同じ言葉を使っていながら、二つの別のものを指している場合があるということだろうか。複雑である。

 

以上の疑問の根底にある事柄 〜脱魔術化されたアイドルは成り立つのか?

  要するに、こういうことではないでしょうか?

・コーデが「もらえる」、ライブが「できる(させてもらえる)」、というような、何か上位の権威によって、──プリパラ的に言えば「システム」の判断によって、何かをようやくもらえたりもらえなかったりする、といった(垂直型の?というべきかわかりませんが)仕組みと、

・ネットの動画配信のような、好き勝手に何かを配信して、見ている人が好き勝手にいいねを送って評価する、というような(デモクラティック?SNS的?な)仕組みとが、

互いにマッチしていない、というのが、根本の要因としてあるように思います。

 

 もちろん、グーグルなどにおいても、特定の配信者をピックアップして何かの援助を行うということは、行っているであろうけれども、しかし、ちょっとこの「プリチャン」の場合はそういうもの以上であって、「ライブ」は、その「与えられる」特殊な空間でのみ可能なものとされているし、またそこで何らかの判断によってコーデが「与えられる」。

 

 『プリパラ』の場合は、「アイドル」とは、まさに従来型の意味のそれであって(昭和のアイドルどころか、古代にまでさかのぼるくらい、伝統的な意味でのそれ)、モデルとしては、旧来型の芸能界とか、テレビ業界、といったものが念頭にあるだろう。私は実際のこういう業界のことは知らないが、確かにそこでは、なんらかの形で、権威を持っている層、決定権を持った人たちがいて、チャンスが与えられたり、与えられなかったり、するであろう。それは、「運営」「プロデューサー」などと呼ばれることもあるだろう。もちろんその判断は、必ずしも恣意的なものとは限らず、卓越した能力や、従来の慣習、つまり、ある種の伝統に基づく権威のようなものがものを言っている場合も多いであろう。そしてそれは(大げさに言えば)芸術的な価値に関する判断においては、必ずしも間違っていないとも思われる。

 

 もちろん、『プリパラ』でも、「いいね」を集めるという仕組みがあり、その意味ではすでにSNS的ではあったかもしれないが(とはいえ、実際に観客が「いいね」を送るというのはアニメでの表現であって、筐体ゲームではプレイヤー同士が互いに「いいね」を送り合うような仕組みは、原則としてなかったと言えるだろう。・・・トモチケを通じた「ボーナス」などの仕方で、微妙にそういう要素があったと言えなくもないだろうけれども。)、しかし、神アイドルグランプリなどに見られるように、必ずしも、すべてがSNS的に、デモクラティックに事が進んでいたわけではない。つまり「いいね」の数によらず、「システム」、ないしはシステムの権化たる「女神」などが「判断」し、「与える」、というような仕組みが、いたるところに存在した(直近では「古代メガネ」(笑)が判断したりしてましたね)。

 

 そしてこの「システム」、「女神」とは、結局のところ、「タカラトミーアーツシンソフィア」等の権化なわけであるが、それはまさに、百円を入れて遊ぶ、ガチャ要素のあるゲーム、というものをベースにして全体が組み立てられている以上、「運営」が「判断する」「与える」といった要素が避けられず、一切がSNS的に、デモクラティックに、決定していくような仕様には、当然できないのである。

 

 で、『プリチャン』も、基本的には『プリパラ』からほぼ同じフォーマットを引き継いで設計されている。(アーケードのプリパラ最後の日には、お店で作業する人を見かけましたよね? 上からシールや厚紙を貼り付け、画面には「アップデート」という文字が出ていましたが、つまり「アップデート」なんですよね) ──だから、ぼんやり遊んでたら、『プリパラ』と同じような気持ちでゲームし終わることだってできます。(おひっこシステムで、今までのマイキャラの容姿を捨てて[気に入っていたけど、それはマイキャラグッズに固定化しておくことでよしとした]、レオナきゅんそっくりマイキャラちゃんにしてしまった私など、まさにプリパラのつもりで遊んでいる。) 

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 ところが、『プリパラ』から引き継いだ、こういう垂直統合型モデル──というと大げさですが、そういった、上位の判断者がいる、というような仕組みと、新たに加わった、SNS的な、デモクラティックな評価・判断の仕組みとが、どうも、齟齬をきたしているというか、つまり、論理的なレベルで噛み合わないのではないだろうか、と思うわけです。

 

 思い返せば、プリティシリーズでは、『プリパラ』(「古代プリパラ」だとか)だけでなく、『プリリズ』でも(遺跡みたいなステージなんかが出てきましたよね)、何らかの神話的なもの、伝統的な権威、つまり上位の判断者が、つねに重要さを持っていました。

 それに対して『プリチャン』の場合(今後の展開を見なければ何とも言えない部分もありますが)、「プリティシリーズ」にこれまで見られた、そういった神話的な要素、伝統や権威といった要素が、今のところかなり排除されているように思われます。

 

 それは、大げさに言えば、近代化、脱魔術化ということであって──OP曲の歌詞にある「魔法より素敵な ライブがはじまるよ」は、なんとなくそれの表れとして読めなくもない。また、まさに魔法少女に定番の「マスコット」的存在が今のところ見当たりません──、それはそれでいいのではありますが、他方で、キラキラ輝くコーデがなぜか運良く与えられるとか、そういった要素も残っています。

 実際、少女趣味的な憧れとか、うっとり感、といったものは、一切のこうした魔法的な・神話的な要素を排除して、成り立つのであろうか、ということが疑問です(少女趣味的憧れには、常に貴族主義的な価値観が根底にあると思います)。

 実際、『プリチャン』でも、ライブの空間が突如現れるとか、キラッとボタン、コーデがもらえる、といった部分は、魔法的な力によるキラキラさがあり、脱魔術化していません。〜そしてこの部分は、プリパラからほぼそのまま受け継がれている要素である、ということはすでに述べた通りです。

 

要するに

 要するにまとめるならば、プリパラ的なものと、プリチャン独自の要素との齟齬、これは言い換えれば、権威的・神話的・魔法的なものと、SNS的・デモクラティックなもの(=脱魔術化した近代的なもの)との齟齬が、何かあるのではないか?

 それが、「プリチャン」という全体の仕組みのブレというか、つかみどころのなさに、つながっているのではないか──というようなことが、今の所、感じていることであります。

(特に、ライブのキラキラ感はやっぱり素晴らしく、こういうのが大好きな私などは、やっぱりどうしても、何回見ても、ほぼ反射的に、ついウットリと没入してしまうのですが、そのせいかより一層、ライブ以外の部分との齟齬が気になってしまいます。)

 

 ──とはいえ、これは今日まで(2018年6月初旬現在)、アニメと、筐体で少し遊んだ時点での、私の思うところであって・・・、今後を追いかけていかないとわからないところもたくさんあります。もしかすると半年後あたりにこの記事を自分で見て、ああ〜、あの頃は何にもわかっていなかったな〜、などと思う日が来るかもしれません。