ロマン主義アニメ研究会

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コスプレにまつわる反省的思考(断章)

最近、

鮮烈!キュアモフルン!になりたい!

と思って、試行錯誤している際に、考えたこと。(特に髪型がとんでもないので、いろいろ悩んでしまう。その結果、キュアモフルンから離れてしまう

 

 

1、

 

髪の毛の表現。

特殊な髪型ほど難しくなるが、やはり基本的に、一本一本の繊維を生かした形で、再現しようとするのが普通だ、ということ。

 

アニメ的表現では、

髪の毛は、通常は一本一本描かれることはない。

 

そういう作風もあるかもしれないが、あまり見たことがない。

 

しかし、それをコスプレで再現するとき、一本一本の繊維を無視して、ヘルメットみたいな、何かかたまりのものをかぶって、「これを髪の毛とする」というような表現をしている人は、あまり見たことがない。

 

おそらくそうすると、当然だが、違和感が出るからだろう。

 

(実寸大のレゴブロックの人の髪パーツみたいなものをかぶる、というような)

 

 

 

現実の人間には、髪の毛の一本一本があって、実物を見たり、写真を見るときは、それが見えるからだ。

・・・しかしながら、さらに気がつくことがある。本当に、髪の毛の一本一本は見えているだろうか?

 

人と対面しているとき、写真を見ているとき、髪の毛の一本一本を、見ているだろうか。髪の毛の様子はどうですか?などという話をしているとき以外(「無料ヘアチェック」とか?)、むしろ、見ていない。見ているのは、「髪型」という「かたまり」だ。

 

 

だから、アニメ的表現は、髪の毛を「髪型」という「かたまり」で、ざくざく、と表現するけれども、かえってリアリティのある認識に基づいている、とも言える。

 

 

そして、そういうアニメ的表現を、更に再び、現実の髪の毛で表現しようとする、というのがコスプレで、かなり複雑な話になってくる。

 

このように、コスプレという行為には、二次元・アニメ的表現というのは何なのだろう、そもそも認識するとはどういうことなのだろう、というような事柄について考えさせられるきっかけが、至るところにある。

 

 

(これと関連しそうなのは、「図画工作」の時間に描かされたクラスメイトのスケッチ。髪の毛だとか、シワだとかを一切きちんと描けと言われるのだが、その結果、かえって全然本人と似なくなってしまう(何となく老ける)。普段クラスメイトを認識する際、そのようにスケッチするような仕方では認識していないからだろう。ある意味で、普段から、一度アニメ化されたクラスメイトを認識している、と言ってもいいだろう。)

 

 

 

2、

 

髪の毛だけでなく、そもそも、人の顔もそうだ。

 

コスプレにおいては、

二次元の顔を、メイクなどを使って少しでも表現しようとするのだが、もちろんなかなか難しい。

 

当然ながら、二次元キャラの顔を、原寸大に切り取って横に並べてみたらわかる通り、目の大きさから何から何まで、現実の人間の顔とは異なっているからだ。

 

だから難しいのよね・・・というところまでは、わかるのだが、

 

ここからさらに考えてみると不思議なのは、しかしそもそも、これほど異なっている、「全然違う」というように率直に思うようなものであるにもかかわらず、やはり私たちは、アニメキャラの顔を見て、それを「顔」だと思っているし、それも、基本的に人間の顔(人間じゃないキャラも沢山いるが)だと、認識しているということ。

 

 

もちろん、顔ではないものが、顔に見えてしまう、という現象はほかにもあって、水道の蛇口とか、新幹線の先頭とか、そういったものが顔に見えるということはある。

 

しかし、アニメキャラの顔は、そういう顔に見える顔じゃないもの、とは違って、それをはっきり顔だと思っているし、さらに、愛着を抱きすらする。(もっとも、車の顔に愛着を抱く人もいるだろうが。)場合によっては、現実の人間の顔以上に愛着を抱くことすらあるだろう(例えば私など)。

 

どうしてこんなことができるのだろう。・・・いや、そもそも逆であって、ふだん現実の人間の顔を愛好する際も、結局は、いわば頭の中でアニメ化したかれ・かのじょの顔を、愛好しているのではないだろうか。

 

 

 

3、

 

この話と関連するが、

 

二次元の顔とか、顔ではないものが、顔に見える、というのは、何かそういう認識の補正が働くからだ、というような説明が、おそらくできるのだろう。人間は、本能的に、顔に見えるものをパッと捉えるようにできているのだ、いわば顔認識機能があらかじめ埋め込まれているのだ、というように。

(たまに、カメラの顔認識機能でも、顔ではないものが顔だと認識される場合がありますよね。)

 

しかしこの逆に、コスプレをした(場合によってはしていない)、現実の人間の顔が、二次元キャラの顔に見える、ということが時々ある。

見比べると、当然、明らかに違うのにもかかわらず(根本的にあらゆるパーツの大きさなどが、二次元とは異なる)、この人は確かにあのキャラの顔をしている、と思われるようなコスプレの人がいる(あるいはコスプレをしていない人でもそういうことは稀にある気がする)。

 

ということは、人間には、

顔ではないもの(キャラの顔など)を顔だと認識する機能と同時に、

顔(現実の顔)を顔ではないもの(キャラの顔)だと認識する機能もあるのではないか。

 

もし仮にこのような機能があるとすると、

この機能について興味深いことがある。

 

例えば、

クオリティの高い、完成度の高いコスプレは、心から感心し、すごいなあ、と驚くのだけれども、同時に、かえって不思議な気持ちになることがある。あまりに近づきすぎてしまうと、今度は無意識のうちに、二次元の絵そのものと直接の比較を行ってしまうがために、かえって、似ていないところ、違うところが、単純な比較において浮かび上がってしまうのではないだろうか。

 

そしてこういう場合、先ほどの仮定したような機能(顔を、顔ではないものだと認識する機能)が、うまく作動しなくなっているのではないか、と思うのだ。

 

つまりこのことから推測されるのは、

例の認識機能というのは、絵から実物へという「移行」を行う際、絵を二つ並べて比較する、間違い探し的な単純比較とは全く質の異なるような、「比較」を行っているのだろう、ということだ。

 

類比、象徴、形象、どのような言葉がふさわしいのか、はっきりしないが、なにかこれらの類する事態だろう。

 

 

 

以上、参考のためにインターネットでハイクオリティなコスプレの人たちの写真を見ながら考えたことでした。