ロマン主義アニメ研究会

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「お母さん」ものについて思うこと──自由はどこまで可能か?

 (※以下は、『通常攻撃が全体攻撃で二回攻撃のお母さんは好きですか?』シリーズ[ファンタジア文庫, 2016〜]をきっかけに考えたことですが、まだ読んでおらず、全然中身に触れていないです。こういうものがあるのか、と知った段階での記述です。)

 

普段はほとんどラノベというものを読まないのだけれども、これはやはり読まねばならないという謎の使命感から、手に取ることにした。

しかもこういうのは、実際に読む読まないは別にして、もう既刊全てを同時に買うべきだと思ったので、一挙に買った。 

というのも、現代社会、現代日本の精神的状況に関する「研究」の目的で、あくまで資料として購入したんだから! ──ちなみに私は年にいくつも、このような「研究目的」で、コンテンツを購入している。(関係ないけど、国会図書館とかでコピーする時は常に「研究目的」じゃないとダメなんだよね。週刊誌とかコピーしてるおっさんとかいるけど、研究しているんだろう。「研究者」は、名乗るだけなら誰でも名乗れます。)

 

ロリコンとマザコン

まあ、当然こういうものは出るべくして出たのであろうと思う。

そもそも、ロリコンはマザコンでもある場合がよくあるだろう。特に私のようなロリコンは、ロリッ子の気持ちになりきり、むしろ自らロリになりたい、幼女になりたい、と真に願うタイプなのであるが、当然、幼女、幼児というのは、お母さん大好きで、お母さんお母さんといつもスカートの裾を引っ張ったりしていることだろう(あぁ可愛い)。 

だから、こういうロリ化願望、幼女願望の強いタイプのロリコン(こういうタイプがどれくらいいるのかわからないけど)は、当然マザコン要素を同時に併せ持っている可能性が高いだろう。 

けれどもたいていの場合このマザコン要素は、直球での行き場がないために(言い換えれば、お母さんが直接にはメインで登場しない場合が多いために)、そのロリっ子そのものへと投影されたり(幼妻的な。幼女に料理を作ってもらうというような願望を抱く人は多いようです・・・ちなみに申し訳ないけれど、って何に対して申し訳ないのかわからないけれど、私はそもそも手料理を作ってもらうということに興奮を覚えることができず、ましてや幼女に作ってもらうということに関しては、衛生面などが心配にすらなる。逆に作って食べさせてあげたい気持ちの方が強い。…まあ幼女も幼女で、このお兄さん衛生面が心配だと思う可能性もあるけれども。…大好きな薫のおにぎりですら、実はあんまり食べたくない、本当に申し訳ないのだけれども)、母性あふれるそれなりの歳の女性が登場する、ということになるであろう。

 

しかしながら本当に求めているのはやっぱり「お母さん」なのである。けれども、さすがにそれはマズイのではないか、そこはちょっとやめておいたほうがいい、という、なんとなくのガードが働いて、今まで直球でのお母さん表現は少なかった(目立たなかった)のであろう(あったとしても、もっとひっそりと、じっとりと、楽しまれていただろう)。しかし今やとうとうそのようなタガも外れるときがきた。振り返れば、実の妹とか、実の姉とか、こういったタガはすでにとうの昔に外されていた。そしてとうとう、実の母というタガも外されるときがきたというわけだ。しかしこれは遅かれ早かれ、こうなる運命にあった。ロリコンをはじめとして多くのオタクたちはマザコンを兼ね備えている場合が多々あるだろうから。

 

◆人間の自由(!)

こうして次々とタガが外れていき、この先もきっとどんどん、新しいタガが外れていくのだろう。何か今は想像もつかないようなタガが、外されていくであろう。(いや、私が知らないだけでもうとっくに外されているのかも。)

こうやって、二次元というだけでもすでに生物学的な合理性から逸脱しつつある人間は、いっそうそこから逸脱を深めていくであろう。そしてそれで良い。遅かれ早かれその異常によって滅びゆくものだろうから。それだから今は、滅び際の美しい時期にあるのだろう。生物としての合理性と引き換えに、自由というものを手に入れ、いっそうそれを発現させようとしている。自由は、世界が滅びようとも守られる。

 

そういうわけで、二次元の近親相姦は、人間の自由の証なのです(!?)──いまや「自然」はオイディプス王にしたのと同じような戒めを与える力を持たない・・・次元が違うしね。

・・・ちなみに誤解されてしまっては迷惑がかかるかもしれませんのでハッキリ注意しておきますと、少なくともこの作品では、近親相姦表現など全くありません(と思います)。(そういう意図も、おそらくないでしょう。)

 

私が言いたいのは、堂々と「お母さん」をタイトルに付するコンテンツが登場したということの、歴史的な意義についてです。実の妹や実の姉といったものも、最初はソフトな表現のものからタガが外され、最終的にはディープなコンテンツにまでたどり着いたのでしょう(実証したわけじゃないですが)。こうしてどんどんタガが外れていく、と言って、現代日本を憂いているわけではありません。こういう同じ分析から、ちょうど逆の感想を持つ人がいるかもしれませんが、私はむしろ、ああよかった、と言っているのです。こうやってどんどんタガが外れていき、自由が増す一方で、全体として滅びに向かっているなあ、それは美しくて良いことだなあ、と思っているのです。

 

こういうわけで、昨年の夏コミの駅のエスカレーターのところでこの作品のポスターを目にして以来、何となく気になっていました(あそこの宣伝効果はかなり高そう)。「とうとうここまで来たか」と。これは「研究」しなければ、という知的好奇心を掻き立てられたからなのです!・・・などと言いつつ、実際は単にマザコン的性質が掻き立てられただけなのだろうけれども、少なくとも建前上は、これは「研究目的」で購入したということにしておきたいです。

 

「母」の難易度──「妹」の場合との比較

それというのも、やっぱりついうっかりするとチラついてきてしまい、萎えてしまいかねないのが、本当の実の母。これはもう、ここでこうして言及することすら危険ですね。かなりヤバイので、言及しないほうがいいと思っていたんだけれども、やっぱり、誰もが一瞬は思うことだろうから、言っておかざるをえない。いくらマザコン性質があるからと言って、本当の現実の母親に対するという意味での、生々しいマザコンの人は、かなり少数なのではないかと思います(そういう人がいないとは言っていないし、別にいたとしても何も構いはしません、だいたい構うとか構わないとかを私が判断する立場にない・・・ただ、私自身は全然そういう趣向がなく、むしろ、一瞬でも想定するだけで吐き気が催されます)。

 

これは私の場合、「妹」という設定においても、最初乗り越えねばならない壁だった。というのも実の妹がいるから。妹のいない人は妹コンテンツを気軽に楽しめて羨ましい、妹幻想に浸れて羨ましい、こんなことなら実の妹などいなければよかったのに、などというとんでもないことすら考えていました。けれども「修行」の結果、実の妹というものを完全に切り離して「二次元の妹」というものを確立することができて以来、まったく苦にならなくなった。これは言うまでもなく、「二次元の実の妹」でも同じことです(最初は手始めに「義理の妹」のステップを踏む必要はあるでしょうけれども)。まあ、考えてみれば、そりゃそうです。全然別物ですから。けれども、入り口の段階ではどうしても、いきなりすっぱりと切り離すことが難しかった・難しそうに感じた、ということです(例えば、「お兄ちゃん」という幼少の頃から聞き慣れた文字の上では完全に同一の呼称を、全く別のものとして切り離すという訓練、などが必要だった)。

 

そしてこれは「お母さん」でも同じだろうと思います。ただし、「妹」よりちょっと難易度が高いかもしれません。特に、自分自身がまだ未成年で、実際に現実の母親に依存(精神的・経済的、等)している場合などは、危険度が増すかもしれない。

 

まあしかしそういうスリルも含めて、これは楽しむ甲斐のある・・・というか「研究」しがいのあるジャンルではないでしょうか。(自分はどこまでやれるのか、どこまでいけるのか、という探求なども含めて。まさに『自由はどこまで可能か』ですね・・・ほぼ関係ないですけど、これはこれで良い本でした。)

 

以上、何も読まないうちから考えたこと、でした。