ロマン主義アニメ研究会

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『少女終末旅行』の私の理解──少女の、非生産的で、美しい世界(=日常系作品)

<※原作を読んでいません。まだよく理解できていないところが多くあります。>

 

◆動く、だけ

 終末後の世界で、僅かな希望を頼りに、明日に向かって前進する少女たちの物語──ではない、ですよね。

 

 絶望しつくすお話、と言ってもいいかもしれない。

 

 これは、過去から未来へ向けて前進していく、進歩していく、奮闘していく、「成長」していく、──というようなお話では、ありません。(「動く」お話ではあるが)

 

 「終末」とは歴史そのものの終わり、時間そのものの終わりであって、そこではもはや、前も後ろもないのです。ただ、《いま・ここ》しかない。

 

 これが明らかな事実なのです。

 

 この圧倒的な事実を前にして、どう生きるか、という問題です。

 

 そこで、再び自分のためだけに、新たな「歴史」を擬制的に再現するように作り出し、そのファンタジーの中で生きるか。

 

 あるいは、《いま・ここ》で、そのつどその場限りの小さなファンタジーを見つけ出し(作り出し)、そのつどそれを消費して、そのつど満足していくのか。(音楽、月明かり、共感すること、…等々)

 

 前者が、地図を作る男や、飛行機を作る女の生き方です。後者が、あの二人の生き方。──「生き方」などという言い方がすでにそぐわない気もしますが。

 

◆飛行機が分解するシーンを見て、ホッとした

 私は、飛行機が空中分解するシーンを見て、ホッとしました。あ、やっぱり私の見方は間違っていなかったし、こういうお話なら好きだから続きを見よう、と思いました。

(飛行機が飛びそうな瞬間、歴史が新たに作られるだとか、飽くなき挑戦、といったプロジェクトX的な感動を呼び起そうとしているのであろうか、もしそうだとすれば、ちょっと私の思っていたお話とは違ったのかな、と思いかけていましたが、ああよかった、と思いました。)

 

 このお話は、「プロジェクトX」でもないし、『けものフレンズ』でもないのです。

 

 戦後の荒廃から「技術」によって建設的に前へ進むお話と、ディストピア感ある世界でやはり工作人として「技術」によって前へと進むお話とは、共通するものがありました。

 

 しかし『少女終末旅行』においては、荒廃した世界から立ち上がったり蘇ったりしません。「ねえ…地球終わるんだって」、「うん」と受け止めます。

 

「すごーい」で知能指数が低下するなど大きく騒がれましたけれども、この「うん」という受け止め方も、かなりのインパクトがあると思います。

 (また、“あ、やっちゃたね“というような、“ちょっとしたミス”によって、すでに荒廃している世界が、さらに焼け野原になったりもしますが、これもインパクト大でした。)

 

 

◆怒る人もいるかもしれないが

 こういう感覚に対して、昔気質の真面目な人なら(「一本筋の通った」雰囲気の人、あるいは、まさにプロジェクトXで特集されていそうな戦後の技術者のような人なら)、怒り出すかもしれません。

 こういう作品をぼーっと深夜にソファで見ている視聴者に対しても、怒り出すかもしれません。

 けれども、もう決定的に、そういう人たちとは世界観そのものが違ってしまっているのだ、ということを、知る必要があるでしょう。

 

◆「世界が終わろうとも、どうでもいいことだろう」

 たとえ都市が、地球が、宇宙が、確実に終わりに近づいているとして、彼女たちに、私たちに、いったい何ができるというのでしょう。へ~、そうなんだ、と受け止める以外に、ないのではないでしょうか。

 子供が減り、人口が減り、産業が衰退し、地方に空き家が増え、大学全入時代に突入し(彼女たちの時代では「ひらがな」しか読めないというのは象徴的です)、地球規模で見れば人口が増えている地域もあるけれどもやっぱり全体の傾向としてはやがて人口は減少し、たとえこの作品が描くような大戦争がなかったとしても、やはりだんだんとあらゆるものが縮小していくでしょう。また、たとえそうはならなかったとしても、やはり太陽はゆっくりと地球に近づいてきて、いずれ一切がなくなるでしょう。「地球終わるんだって」、「うん」としか言いようがないのです。

 

 いやいや!何を言っているんだ、連帯して立ち上がろう、世界を変えよう!と、言う人もいるでしょう。私もそれには賛成だし、素晴らしいことだと思います。…けれども、やっぱり、どうにもならないんじゃないかなあ、という気持ちの方が勝ってしまいそうです。

 

◆非生産的なものの美 ──生み出さない、少女、ロボット

 あるいは人によっては、怒り出す前に、フィルターをかけてしまうかもしれません。つまり、自分が見たいお話として見ようとするのです。

 例えば、あの二人は歴史を記録しているのであり、歴史の担い手であるとか、新たな世界が生み出される何かのきっかけになりうるのだ、とか。

 

 しかしながら、少女が2人、という状況には、意味があるでしょう。端的に言って、子供が生まれません。ここから脈々と新たな人類が続いていく、というようなことにはならないのです。そういう可能性が最初から封じられている。(もちろん、このお話は、その世界観に忠実であるならば、たとえこれが男女ペアだったとしても、子供は出てこないだろうと思います。)

 

 将来世代へと脈々と受け継いでいき、世界を継承していく、というような歴史観がない──というより、「歴史」が「ない」のです。繰り返しますが、終末とは、歴史そのものの終末だからです。

 

 非生産的である…ということは、非難の言葉ではないのです。むしろ、「生産」などというくびきから解放されていて、自由なのです。

 

 生産活動から遊離して、意味のない建設を続けるロボットが登場しましたが、「彼」もまた自由だったでしょう。

 

 こういう自由な戯れにおいてのみ、美がある──もちろんこれは美の観念にもよりますが、少なくとも、この作品は、そのような美の観念に与するような思潮と連続的でしょう。この作品の美しさはここにあります。

 

(「歴史」への言及はしばしばあり、人によっては、ここを意図的に誤読することができるでしょう。つまり、デジカメに象徴されるように、脈々と語り継がれてきた記憶や伝統があり、それをいま、彼女たちが受け継いで、さらに新たな歴史を作ろうとしているのだ、と。…しかし、これはやはり、この作品そのものの趣旨とは逆の読み取り方でしょう。結局あのカメラも、撮影できる枚数は限られていますし、壊れてしまう日が来るのです。エンディング映像では、カメラが砕け散ってバラバラになる描写がありました。)

 

◆要するに、日常系作品

 しかしそもそも、少女だけの、非生産的で、美しい世界を描く(あるいは少年だけの世界を描くのでもいい)ということは、実はこの作品に限ったことではありません。

 私たちの大好きな、男禁止!恋愛禁止!全力投球の部活も禁止!の、いわゆる「日常系作品」たちがそうです。(皮肉にも、同時期に放送していたきらら原作アニメでは、男女の恋愛が描かれていましたが…割と例外的な作品だと思います)

 

 もちろん日常系作品との共通点は、このような表面的なことにとどまりません。──と言いつつ、ついでに表面的なことを申し上げれば、チトおよびおじいさんの中の人は、チノおよび「おじいちゃん」のそれと一致していましたが、あえてここに象徴的な意味を読み込むならば、やはり終末後の世界は、ラビットハウスであり木組みの街なのでしょう(≒「セカイがカフェに…」)。(あるいは逆に、木組みの街は、先ほど言及したような意味での終末後の世界なのだ、とも言えそうです。)

 

 実際『~終末旅行』には、温泉回、プール回、写真を撮りあう、お菓子作り(レーション)、さらにお寺の見物に行く回(≒「修学旅行!」)もありました。

 また、荒廃している世界と言いながらも、けっこう都合がいい世界でもあります。電気、水道、火力、温水、電車まで走っていて、食料も見つかります(勿論このことについては、つじつまが合うように組み立てられてはいるでしょうが)。こういう大人たち、あるいは過去の大人たちが構築した(ある意味で、プロジェクトX的に構築された)、インフラの整った心地よい世界の中で、まったりと日常を過ごしたい、という願望を満たしてくれるという点でも、日常系なのです。

──ただし、まったり過ごしているうちに、そのインフラは徐々に停止に近づいていくことでしょう。そして、そのことについては、ただ、そうなんだ、と受け止める(ほかない)のです。

 

 

 

 

◆(補足)手をつなぐ二人はプリキュアではない

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二人で手をつなぐ。

 

けれども、プリキュアみたいに、そこから世界が救われる、ということにはならない。

プリキュアは、手をつなぐところから、世界の救済にまで至る。)

 

 

二人の友情が深まる、二人の世界が豊かになる。

そのことが、一足飛びに、全人類を含む、全世界の救済に繋がる。

 

というのは、理想です。

理想ですが、ここには特に、何か論理的なつながりはないのです。

 

例えば、テロリスト二人組がいたとして、かのじょら/かれらの友情は硬いかもしれません。

 

 

つながりがあるとすれば、二人の世界を肯定することから、世界そのものの肯定へとつながっていく、という「精神の」成長はありえることでしょう(『精神現象学』的に)。プリキュアは女児向けで、女児向けには「成長」が念頭におかれている。それだから、二人の世界の肯定が、世界そのものの肯定にスムーズに繋がるようなお話を見せる必要があります。

 

 

しかし、この作品は、女児向け、とは言い難いですね。むしろどちらかといえば、もうそのような精神の運動を無邪気に信じられなくなり、世界と対立し、分裂してしまっている、不幸な意識に向けたものでしょう。 ──少なくともその一人である私にはそのように見え、それだからまた響きました。