miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄を中心に、私の個人的な雑記等も書き記しております。

少女の自由

成人男性から、幼女へ。(その絶望的で倒錯的な変身願望について。)

 

これは、十字に軸をとれば、ちょうど「表」tableau, table の逆サイドにあたるものへの移行、変身を願うものである。

成人女性 成人男性

幼女   幼児(男児) 

なるほど、幼女というものが特別に持ち上げられる状況は、何か異常であって、差別的だ、というような意見もあるかもしれない。

そしてそれは、実際、もっともであると思うが、それは、そもそもこの「表」の存在そのものが、差別的だからである。すなわち、幼女のみならず、成人男性もまた成人男性という枠の中に閉じ込められているわけである。動物園などという言葉で揶揄することもあるが、逆に彼らもまた、成人男性という檻の中に閉じ込められている。

──「動物園」の檻は、成人男性中心型社会における成人男性の檻の裏返しにすぎない。わかりやすく言えば、「檻」は、向こうとこちらを隔てているのであり、どちらも「閉じ込められている」。

 

近代市民社会は、特に成人男性中心主義かもしれないが、そのような近代市民は、中心に位置付けられ、規律され、訓練され、逃れられないものにがんじがらめにされているということである。

むしろ、このヒエラルヒーの中で「周縁」に位置付けられ、追いやられた者たちのほうにこそ、かえって、自由があるとすら言えるかもしれない。もちろんそれは、「おめこぼし」的な自由であって、健全ではないのだろう。しかしそもそも、健全さというものが抑圧である。健全さの枠組みを逸脱し、横断できるものには自由がある。

 

これこそが、「幼女」の「自由」である。

この自由を求めて、一部の成人男性は、横断、越境を試みる。幼女になろうとする。もちろん、それは永遠に叶わない願いであろう。だが、ほんの一ミリでも近づこうと努力をする。空想の世界、心の中の世界だけでも、幼女になりたい。でも、その合間にふと鏡に映った自分に絶望する。薄汚い、汚れた欲求の主体(市民社会的「自由」の主体)としての「成人男性」(市民)がそこに映っている。そこで、外見もまた、ほんの一ミリでも「幼女」に近づきたいと思うようになる。ここから、幼女コス・女装コスプレに足を踏み入れる「成人男性」もいるだろう。これらの試みは、永遠にむなしいままの試みであるかもしれない。完全にかなうことはないものを追い求めている(のかもしれない)。しかしながら、不毛かもしれないこうした越境、横断を、不断に試み続けること、このことの中にだけ、この「表」、近代市民社会の秩序を前提にした上で、わずかに許された自由が手に入る・・・、かもしれない。「どこへでもこの世界の外へ」という絶望的な願望においてしか、今や自由は許されないのであるとすれば。

 

それだから、幼女になりたい願望、幼女への憧れとは、成人男性の/からの「逃走」なのである(また「闘争」でもあるかもしれない)。自由を求める逃走(闘争)である。

(同時に、自由「からの」逃走とも言えるだろう。近代市民社会的な市民の自由からの、である。)