ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄、随想的なものを載せています。またここは評論・随想サークル「ロマン主義アニメ研究会」のHPでもあり、たまに告知等も載せます。

天使の居場所がない時代に:『ガヴリールドロップアウト』感想

ガヴリールドロップアウト』。

 どうも、この春のアニメがあんまりしっくりこなくて、昔のものをいろいろ見てみたり、昨シーズンやっていたもので、まだ見ていなかったものなんかをゴソゴソと出してきて、いま見ている途中なのですけれども、これ、なかなかいいですね。

原作は知らず、何か紹介の文章のようなものを読んだときは、天使だとか悪魔だとかっていうように、どうにも込み入った設定のような気がして、実際どんな作品なのか、日常系な感じなのか、ピンとこずに、見ないでおりました。

が、配信サイトの「こちらもおすすめ」「他の人はこんなのを見ています」に出てきていたので、多分いいのではないか、と思い、見てみました。

 

なるほど、これはとてもおもしろかったです。非常に自分の好みにマッチしています。

 

善悪の彼岸

ガヴリールドロップアウト』というタイトルがそのままで、天使が堕落してしまう、それも現代的な意味で堕落してしまう(引きこもり、ネット中毒・・・)、というお話ですが、それだけでなく、逆に悪魔の方がまるで天使のようにいい人だったり、あるいは「人がいい」感じになっていたりする。また天使のような笑顔で、中身が悪魔のようなことをする、そういう天使も出てきます。──まさに「善悪の彼岸」。

 

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(オープニング。ジャージ姿の天使ガヴリール。)

 

オープニング曲も、気がふれる直前のような、ギリギリの感じが出ていていいです。(わざとらしい「神聖な」雰囲気の声・曲調で嫌味なことを言う、等。)

 

天使ガヴリールは、気軽に「世界が終わるラッパ」を取り出してしまいます。

「オワタ」が一時期流行りましたが、とても嫌なことがあると、割と簡単に「世界が終わった」みたいなことを言いがちな風潮があって、それで本当に世界が終わってくれるなら楽でいいのですが、実際には終わらず、むしろその嫌なことを抱えたまま世界は続いていってしまう。しかし彼女たちは本当にそれができてしまうのであり、そんなノリで、ラッパを取り出してくるあたりが、とても皮肉な感じで、ニヒリスティックで、ヒリヒリする。

 

マニエリスム(もはや天使の居場所はない)

・・・そうですね、ニヒリスティック、ニヒリズムがこの作品全体を支配しています。とても退廃的です。

それというのも現代がニヒリズムの時代であるから。

(正確に言えば、世界の「終末」ということすら、「オワタ」のノリでしかなく、リアリティがない。とすれば、なるほど我々は、真のニヒリズム「にすら」到達していない、ということになるかもしれません。)

 

もはや天使も悪魔もいなくなったあとのマニエリスム以降の時代、「脱-魔術化」した世界に、本当の天使も悪魔もいるわけがないのです。いるとするならば、「不幸な意識」に分裂した理性が見る夢の中で、形而上学的概念としてのみ存立しうるであろう。いずれにしても概念としてであって、生き生きと自然に「内在」する魂としてではない。つまり、「自然」(フュシス)を「超えたもの」(メタ)=「形而上学的なもの」(メタフュジカル)として、彼岸においてのみ夢見ることが許されるものにすぎない。それは、直接に人間を助けに来てもくれないし、逆におびやかしもしない。

 

したがって、彼女たちが天使や悪魔であり得るのは、天上(あるいは魔界)においてのみであって、一度そこから出てしまうと、もはや何者でもなくなってしまう。

彼女たちは、「自然」(=下界、人間界)に降りてきていながら、人間たちとはほとんど交流せず、彼女たちの閉じられたサークルの中で、ダラダラと日常を過ごしていく。

そして、その閉じられたダラダラとした日常の中で、もはや普通の人間でも用いるであろうような日常会話程度のレトリックとして、申し訳程度に、天使や悪魔などという言葉を弄んでいる。彼らのなす善行も悪事(「デビルズアクション」とも言う・・・)も、とてつもなく小さなことに過ぎない。

 

この世界には、もう500年ほど前から彼女たちの「居場所」は失われており、無理にこの世界に降りてきても、引きこもるしかないのである(家に引きこもる天使、隠れて昼食を食べる悪魔、閉じられた交友関係のサークル)。

 

◆「否定の契機」に耐えられない人たちのために

では一方でこのような物語を思い描いてしまい、また共感してしまう我々人間の側から見れば、これはどういう事態なのであろうか。

 

一つには、主人公のガヴリールが手掛かりになる。

本当は(本気出せば)成績優秀で、髪もドライヤーで梳かせばサラサラで美しいんだけど、あえてここではだらしなく引きこもって、宿題なんか自分でやらず、周りを軽蔑して生きているんだ、という彼女の雰囲気は、この作品を受容する人たちの、少なくとも一部の雰囲気を反映しているのではないだろうか。本当は天使だし、頭がいい、ということを(それが妄想・虚構であるとしても)、心の中の密かな拠り所にしつつも、ダメな自分をいつまでもダメなままに甘やかしながら生きていきたい、といったような精神。

 

つまり、天使はいると思っていた、あるいは自分は天使だと思っていたが、気がつけばそんな時代はとっくに終わっていた、だからこんな薄汚れた世界を心の中で軽蔑しながら、バカにしながら、見下しながら、引きこもって生きていきたいのである。

 

まさに、他者・市民社会という、襲いかかってくる「否定の契機」に耐えられず、分裂した精神のまま、その分裂を大事に抱きかかえていたいと思うような、「不幸な意識」。彼岸に(形而上学的概念として)天使を夢見ながら、この此岸を見下し、軽蔑しながら生きていきたいのである。

 

◆でも『けもの』が流行る世界でよかった

同時期に放送していた『けものフレンズ』の大流行ぶりと比較したとき、この『ガヴリール』に共感してしまう私は、とてもホッとした気持ちになる。

 

『ガヴリール』ではなく『けもの』が流行する世界(此岸、この世)でよかった、と。

 

なぜなら、(例えば私のような)ガヴリールは、とても前向きで建設的なお話たる『けもの』を支持する人たちの、前向きで建設的で「脱魔術化」された市民生活を前提としてのみ(そこに寄生してのみ)、(精神的に)引きこもっていられるのだから。

 

◆日常系作品に共通するもの

しかし、『けいおん!』をはじめとするいわゆる日常系作品の多くは、その穏やかで暖かい雰囲気とは裏腹に、それがこの現代において制作され、共感されているということを踏まえると、実はどれも、皮肉で、ニヒリスティックで、退廃的で分裂したものである、ということが指摘できるのではないか。この『ガヴリール』のように、逆転した天使と悪魔が登場しても・していなくても、実は同じなのである(『けいおん!』にも、あずにゃんという「天使」は登場する。・・・つまりあずにゃんもまた日常系アニメの天使であるならば、それはまた現実の世界では存立しえず、分裂した意識の夢見る形而上学的概念としてのみ可能なのである)。

 

 

 

 

◆(メモ)

あとやっぱりこの作品で大事なことは、

サターニャちゃんがかわいいです!!

ということです。

(大室櫻子的な良さ。自分がガヴリールだったら、もうちょっとサターニャを可愛がってしまうだろうと思う。)