ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄、随想的なものを載せています。またここは評論・随想サークル「ロマン主義アニメ研究会」のHPでもあり、たまに告知等も載せます。

「人間らしさ」の称揚、動物キャラ化幻想の限界:『けものフレンズ』感想

(※以下は、この作品をすっかり気に入って、心から愛しているような人の文章ではないですので、この作品が大好きな方は、少し気を悪くされるかもしれません。また、私の理解不足も多いと思います。とはいえ、もちろん何か悪口のようなことを書くことが目的ではありません。) 

 

◆「にんげんっていいな」、技術、啓蒙主義(11話までを見たときの記述)

よくわかっていないながらも録画はしていて、数話溜まってから見ようと思っていたところ、どうやらこれが大変流行っていると知りました(あんまりそうした流行に疎いので、しばらくしてから)。

 

こうなってくると、へそ曲がりな私は、逆に、決して見るもんか、思うようになりました。

・・・でもやっぱり見たいから、

最終回まで終わって、皆がこれを忘れかけてきた頃、完全にネタバレした上で、客観的に見てやるんだ、と、謎の決意をしたのでした。

・・・決意したのでしたが、なんだかどうしても気になって、やっぱりつい見てしまいました。

 『うらら迷路帖』も終わってしまい(あ、もう最終回だ、というような最終回でした。いや、これこそ日常・きららの本来のあり方なのかも知れません)、まだもう少し何か見たい、と思っていたある夜、つい再生してしまいました。

  

結局、11話まで続けて見てしまったのですけれども、

なるほど、確かに面白い、素晴らしい、よく作られている、とは思いました。

 

これは、大変前向きで、建設的で、「プロジェクトX」のような、「技術」を賞賛し、人々を鼓舞するような、そういう作品だと思いました。人間が自らつくった「にんげんっていいな」というすごい歌詞の歌を思い出しました。

 

ですので、この作品に引き込まれ、鼓舞され、感動する人たちは、立派な人たちで、まっとうな、常識的な、健全な、近代的市民なのであろうと思います。こうした作品が流行るということは、そういう点で、安心できます。その意味で、こういうものが流行っているのは、いい事だ、助かる、という気がします。

(今後もしばらくは、橋が急に落下したりということが起きないで済みそうです。)

 

自然科学のドキュメンタリーとか、(自然科学系の)ノーベル賞の話に興奮したり、瀬戸大橋をかけるプロジェクトの裏に秘められたすごい技術の話などに惹かれるような人たちは、これが好きだろうな、と思いました。

 

人間って、頭いいね、賢いね、技術があるね。

 

まさに「にんげんっていいな」なのです。それを動物に言わせる、という仕組みです。

人間の人間らしさが発揮されてフレンズたちが喜ぶ、フレンズたち自身もみずから得た人間らしさについて戸惑いながら喜ぶ(料理がおいしいとか)、というような場面が多く、しきりに「人間らしさ」というものが強調される作品です。

 

そして確かに、「人間らしさ」というものは、現代でもやっぱりある、またあってよい、と私も信じていますが、・・・問題はその「人間らしさ」の内実を何に置くか、ということです。

 

その人間らしさの内実は、本作では基本的に、「技術」に限られている(ように見える・・・このあたりも、私の本作への思い入れが薄いせいかもしれませんが)。

 

人間の本質が、あらゆるものの存在が、「技術」に見出されています。
 

技術の問題を技術で乗り越えようとする、ひたすらな、永久機関的あこがれに裏打ちされた「前向きさ」が、ひしひしと感じられます。

 

・・・そして、こうしたことのすべてに、私自身は、特別に何か心を動かされるということはないのでした。すごく純粋に「建設的」であるなあ、と距離をおきながら、感心するばかりでした。(荒廃しているような舞台は、「建設」のためのよい背景となります。──繰り返しますが、「荒廃」の役割についても、私の見方が浅い可能性はあります。)

 

(・・・と言っても現実の私は、過度に技術的な、人工的な生き方をしていると思います(多分平均よりはるかにそうだと思います)。人工物がないと不安です。完全にそういう人です。といって、ここに永遠の安らぎを見出せているかと言えば全くそうでもなく、結局は、どこにも落ち着きどころがない訳です。「どこへでも此[この]世界の外へ」という言葉そのもので、典型的な「故郷喪失者」です。──だから、せめて娯楽の中では、もう少し違うものが見たい、という気がします。・・・そういえば、かばんちゃんの「故郷」はどんなところなんだろう。それを見たらまた感想が変わるかもしれない。)

 

一種が一フレンズ、という、大まかな原則というのも、まさしく百科全書的で、啓蒙主義的です。(そもそもジャパリパークのような「動物園」というものが、そのようなものです。動物園=生ける標本を展示する博物館 〜博物学・誌[自然誌・史]  〜典型的に啓蒙主義的なもの)

 

こうした価値観を11回まで称揚しつつ、最後にそれをひっくり返すという、大きな皮肉なのだろうかとも思ってみていましたが、たぶんそんなひねくれたものではないでしょう。


 

◆(追記)12話を見て。

 

もちろん、感動しました。

(もう、そういうやせ我慢はしないことにしています。)

 

それから、そういえば、木登りを教えてもらったりというのは、最終回で目立ってましたが、そのような、人間が動物化するという方向(動物の人間化だけではなく)は、それ以前にもありましたね。

それほど単純ではなかったみたいです。

 

 

◆「人間が動物を見る仕方」をそのまま表現しているとも言える


また、動物とお話ししたい、とか、動物の行動を人間のそれに見立てて面白がるとか、そういったことは昔からよくあることではある。だいたい私は、猫とか犬とかうさぎとか、そういう動物が可愛くて好きだけれども、たぶん勝手にそこに人間的なものを見出して可愛がっているだけだろうと思う。人間的なものを見出せなくなると、可愛くなくなり、むしろ気持ち悪くなる。虫とか爬虫類は基本的に私は苦手である。

 

動物園でも、「クマ」の檻の前で、くまさんかわいい〜と思ってぼんやり眺めていると、ある瞬間、ちょっと立ち上がったりして、あれ、クマ、さん・・・、けっこう大きいな、これにやられたらひとたまりもないな・・・、というようなことを思い出して、「キャラ化」フィルターの限界がときどき露呈することがある。と思ったら、また寝床でゴロンとしたりして、あ、やっぱりクマさんかわいい〜と、キャラ化ファンタジー気分に戻ったりする。

 

深読みすれば、動物園でのキャラ化幻想の途切れかける瞬間に、セルリアン関係の危機の場面は似ている。あれは不気味であるし、かわいくない。またあれに食われるとただの動物に戻る(らしい)。

 

こうした動物園などで動物を見るときの、キャラ化フィルターというべきものは現実にもあるが、フレンズ(化)とは、これをそのまま表現しているものと見ることもできる。

 

なんにせよ(私自身が、熱心に見ている人たちに比べるとそれほどでもないということもあり)、わからないことが多すぎて、何かはっきりとした感想を持つことも難しい状態ではあります。

 

また、12話のああいう話は、やっぱり感動してしまいます。