ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄、随想的なものを載せています。またここは評論・随想サークル「ロマン主義アニメ研究会」のHPでもあり、たまに告知等も載せます。

双葉杏の「世界観」:「スローライフ・ファンタジー」を聞いて

シンデレラガールズのCD『BEYOND THE STARLIGHT』。

タイトル曲はもちろん良いけれど、それに収録されている双葉杏の新曲「スローライフ・ファンタジー」が、いろいろ考えさせれるものだった。

 

◆中毒性がある組み合わせ、あんきら

スローライフ・ファンタジー」は、解釈はいろいろあるだろうけれども、「ハッピーの魔法 それはキャンディだって」のあたりからして、杏きらりのことだろうと思った。

 (「魔法」というあたりから、プロデューサーという見方もできるが、「ハッピー」はきらり用語ではなかろうか。)

 

この「杏・きらり」の二人の組み合わせは、なんというか、中毒性がある。──一人一人の魅力もあるけれど、特にこの組み合わせが魅力的に感じる。

(食べ物とかでも中毒性があるものって、甘じょっぱいとか、サクッとしてふわっとしているとか、そういう微妙な組み合わせのものが多いけど、それに似ているのかもしれない。) 

 

 

◆杏の世界観

注目したいのは、次の歌詞。

 

「地球は回り続ける/ ハムスターの回し車/ 走りたければ走ろう/ 全部 おもちゃだ」

 

これは、現実の世界の動きというものは、しょせんはおもちゃである、そのような感覚で生きていっていい、というようなことだろうと思う。

 

ハムスターが回し車をぐるぐるすること、これは生物学的に(因果論的に)いろいろ説明ができるだろう。あるいは目的論的に、納得のいく説明をつけることもできるだろうし、いつの間にかそういうものを探してしまうという性向が我々にはあるだろう。

 

だけれども、根本的に、やはりそれは無意味なものだ。

ハムスターは、気まぐれに、走りたくなったら走っているだけだ。

特段の原因も、はっきりした目的も、ないだろう。そのほうが、自然に思える。

 

そして世界の全体もそうだ、ということである。

要するにここで披露されているのは、杏の「世界観」である。

 

 

◆「ファンタジー」という言葉の意味

タイトルに「ファンタジー」とあるけれども、ここで現実とファンタジーとを対立的なものとして捉えてはならない。

現実に対抗するものとして「ファンタジー」という言葉が使われているのではない。

 

むしろ、所詮、現実もファンタジーのようなものである、だから、気楽に、面白半分にやればいい、またやってよい、というようなことではないかと思う。

 

「全部 おもちゃ」なのだから。

「おもちゃ」とは、遊び(遊戯、戯れ)のことであって、遊びとは、一切の目的を離れた自由な運動である。

 

 

ここで興味深いのは、こうした「目的」というものを「放棄する」(「ホウリナゲ」る)ような世界観というのは、アイドルアニメ、特にそのスポ根的側面と相容れない、ということである。むしろこれは、日常系作品の世界観に近い。

 

「楽し」いこと、「君がい」ること、「君と一緒に」いること、これらのことが、何らかの「目的」の達成よりも、重視されているのである。

 

(少なくともこの歌に関してはそうである。・・・もっとも、アイドル作品としての本作全体における位置付けとしては、杏というキャラクターもまた、目的ヘ向けて精一杯走るというような、アイドル作品的世界観に回収されていくのかもしれないが。)

 

 

杏のことを擁護しようとして、杏は実際には怠け者ではない、杏だって頑張る時は頑張る、という方向の議論をする人が多いと思うが、もっと別の議論もできるのではないだろうか。──このタイプの擁護の仕方は、「働いたら負け」というTシャツを着ているけれども、実際には中身は違うのだ、という議論である。そしてその前提にあるのは、人間は本来働かなければならない、人間にとって労働は本質的である、という価値観・世界観ではないだろうか(ヘーゲルマルクス以来の、そして遡れば、初期近代・資本主義以来の人間観)。

 

それに対して、少なくとも前述の「スローライフ・ファンタジー」から読み取れる「世界観」は、これとは別のものではないだろうか。