ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄、随想的なものを載せています。またここは評論・随想サークル「ロマン主義アニメ研究会」のHPでもあり、たまに告知等も載せます。

作者・読者のきらら化──『きらりブックス迷走中』、『こみっくがーるず』

 『きららMAX』連載中の『きらりブックス迷走中』、『こみっくがーるず』が、面白いです。

 

○『きらりブックス迷走中』

  気がつけばあっという間に最後まで読んでしまうようなテンポというか勢いというか、そういう笑いの連続な作品なのだが、特にここで言及したいのは、『きらり』系作品にどハマりしているJKきらりんが主人公のお話だということ。要するにきらら読者を描いたものと言ってよい。

 「積みきらり」とか、連載とコミックスとの違いを発見する楽しみとか、『きらら』読者あるある的な面白さがある。また、作中作たる「ゆるふわ革命」を読んでみたくなる(でも、どうやらこの世界ではあんまり一般には人気があるというわけではなさそうだが)。

 

 ここで言えることは、きらら読者は、きらら漫画の中だけでなく、それを読んでいる自分自身もまた、(少なくとも読んでいる間だけは)きらら系の人でありたい、というような気持ちを持っているのではないかということである。私自身、そういうふしがある。

 

 日常系作品は、少なくともそれを楽しんでいるひとときだけは、その理想的な日常の中に自分も入っていきたい。そしてその時、リアルな(薄汚れた)自分の姿で入っていきたくない。そんなことをして、きらら的日常のきらきらした日常世界をぶち壊しにしたくない。きちんと「きらら化」していたい。きららJK、あるいは彼女たちを見守る大人の役でもいいけれども、きちんとその「きらら的秩序」に整合的な仕方で、入っていきたい。

 

 その点、『きらりブックス迷走中』は、登場する『きらり』読者が、まさにきらきらとした、きららJKであることによって、こうした気持ちに応えてくれている。特に雑誌で、本作と合わせて他の作品を読み進めていくと、『きらら』作品を読んでいる当の薄汚れた自分などというものを思い出さずに、あたかもJKきらりんになったつもりで、他の作品も含めて雑誌を読み進めることができる。

 

 

○『こみっくがーるず』

 

 こういうことでいうならば、『こみっくがーるず』もまた、似たようなところがある。漫画家が主に登場するお話であるが、その中には、かおすちゃんという萌え4コマ作家も登場する。背が小さく、可愛い。

 確かに、自分が好きな可愛い作品の、作者さん自身もまたどうやら可愛いらしい、というようなことが判明したりすると、いっそうその作品の可愛さに説得力が増す、ということは、ときどきある。そういう意味では、この作品は、かわいい萌え4コマの、作者さん自身も可愛かったらいいなあ、というような気持ちに、やはり応えてくれる。

 

 実際、私は個人的には、あまり、萌え4コマ作家の素顔とか、生々しい実生活とかを、あんまり知りたいという気がしない。好きな作品を生み出してくれているのだから、応援したいとは思うけれども。──そこで、「芳文社」に対する憧れを、冗談の一環として口にする人たちがいるけれども、実際の所、芳文社は、せいぜい電車から社屋の看板を眺める程度で十分であって(それはちょっと嬉しいが)、社内の様子などを見たいとは思わない(向こうも見せたくないだろうが)。

 

 

○きらら化願望

 

 要するに、これらの二つの作品は、作者~漫画~読者、の、このすべてが可愛いものであってほしくて、一切が、きらら化していてほしい、というような願望に、応えてくれるのである(※)。

 

 きらら作品におけるこういう自己言及は、きらら作品の内部と外部との分断、とりわけ、理想的きらら系日常世界と、その外部に位置するはずの読者・作者との分断を、和らげてくれる。

 

 それというのも、日常系作品は、日常が描かれるのであって──とはいえ、その日常はリアルな日常というよりもある種の理想的な日常であるが──、ともすると作品の外部にある日常(普通の意味での日常、薄汚れている場合もある)との対比が、容易になされがちである。したがって、日常系作品は、作品世界の日常がキラキラとしていればいるほど、通常の日常との断絶が目立ってしまう、という問題を抱えているのである。──もっとも、前者のキラキラ度合いが強すぎて、もう、後者との断絶がどうのこうのといったようなことは飛んでいってしまう、というようなことはまたあり得る。そういう力強さが作品にあるか、あるいは、自己言及的な要素を取り入れるか、といったような仕方で、日常系作品は、分断を和らげる仕組みを必要とする。

 

 ちなみに『ごちうさ』などは、舞台設定そのものの特殊性が、おそらく、内部と外部との即座の比較を防いでいる。ココアが「童話の中の街みたい」(第1巻)と発言している通りである。

 

 ※こうしたある種のケッペキ症的な願望に対する批判はいくらでもあり得るだろう。とはいえ、たいていの場合、批判というのは、批判対象を極端に戯画化した上でなされる場合が多い。要するに、気合の入ったきらら読者といえども、24時間365日ケッペキ症的妄想に浸っているわけではなく、むしろほんのひと時の楽しみとして大事にしているだけの場合がほとんどであろう。