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miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄を中心に、私の個人的な雑記等も書き記しております。

チノちゃんが好きというより、チノちゃんになる:ごちうさ「男の娘」もの二次創作から考えたこと

ごちうさ同人 日常系作品

 ごちうさに「男の娘」ものの二次創作があるのは、ある意味で、必然的である。

 

 そもそも、女の子しか出てこないアニメ、漫画、とりわけきらら系作品というものは、もちろん性別関係なく、誰でも楽しめるものであるけれども、しかし基本的には、青年向け、とされるように、どちらかというと、もともとは男性向けである。

 

 もちろん、小・中学生の男女なども、特にごちうさなどは、再放送の影響もあって、ファンが多いようではある。ごちうさがらみの展示会などで、小学生くらいの女の子が母親と訪れて、チノちゃんのタペストリーを買っている様子などを見かけた(あんまりじっくり観察していると不審者になりかねないですけど。こういう客層がいるのだと思って驚いて、つい観察してしまいました。多数派ではないのだろうけれども、時々こういう人たちも見かけます)。

 

 とはいえ、一般的には、チノちゃん・ココアさんたちとは、ちょうど対照的な、つまり、もう少し年齢が上で、しかも、性別が逆の人たちが、一応、読者として、まず想定されていることであろう。(イベントBDなどで時々映る客席の様子、また、客席からあがる歓声の声質などを想起すればよい)

 

 さて、こういう、女の子しか出てこない作品に対して、しかし、主要な受け手たる成人男性というのは、どのような態度で、これらの作品を、見ているのであろうか。

 

 ハーレム的なアニメ、冴えない男性主人公(しかし、平凡なのに、ここぞという時に力を発揮して、女の子から感謝されるというような都合の良い妄想を具現化したような)が登場し、その視点で進んでいくものと違い、こうした女の子だけの作品というのは、日常系作品と言われるものを中心に増えつつあるが、これに対する見方・視点は、もちろん様々あり得る。

 男性主人公がいれば、非常にわかりやすい。間違いなく、自分とよく似たその「彼」の視点に立って見るのがもっともスムーズである。それ以外の視点を取ることのできる人もいるであろうが、それはけっこう高度なテクニックを要するだろう。

 

 では、女の子だけの作品、特に『ごちうさ』などの日常系・きらら系作品を、成人男性が楽しむ場合の見方として、どのようなものが考えられるであろうか。

 

(1)一つは、「見守る」というような態度。 ~強いて言えば、ティッピーの視点に立つような。 ~『ごちうさ』を好む人との会話で、ティッピーの気持ちになって微笑ましく見守る気持ちで見ている、というような意見は聞いたことがある。 cf.『メガミマガジン』2017/1月号付録小冊子。

 

(2)本編にいないはずの「お兄さん」になって、見ている。 ~二次創作ではこのタイプは見かけられる。また目覚まし時計とか、アラームアプリなどでは「お兄ちゃん」と呼びかけている(お姉ちゃんではなく)が、それはこうした見方を想定したものであろう。本編そのものより、その外側で、「男」として、この子たちにいつの日か会えるはずだ、という妄想を楽しむタイプ。 ~あるいは今はこの子たちの世界の中に「男」はいないけれど(ティッピー、タカヒロといった「見守る」家族を除いて)、いずれそこに、特別な男性登場人物として、入ることができるはずだ、という妄想。 ~あるいは、ずっと発言していないけれども、実はずっと、そばに自分のような男性登場人物がいる、というような見方を、無自覚的にもせよ、している場合もあるかもしれない。 ──こうしたタイプの見方も、かなりの多数派を占めるであろう。実際、上記(1)や、下記の(3)の見方をしていると自覚している人でも、男性であれば、同時にこの(2)の視点を完全に払拭しきれていない場合が多いのではないだろうか。

 

(3)第三に、登場人物は女の子であるが、しかし、その女の子の登場人物の気持ちになりきって見てしまう、という見方。 ──上述の女子小学生ファンの場合、基本的にこの見方であろうが、今論じているのは、男性視聴者の見方の分類である。そして、男性視聴者の見方においても、こうした見方をしている人も、それなりの数がいるのではないかと推察されるのである。

 

 このことを考えるにあたって、少し話はそれるが、次のような事例を考えてみよう。

 いわゆる「女児向けアニメ」を好む一群の成人男性というものが存在するが、彼らのなかは、いわゆるロリコンというものを通り越して、むしろ「女児になりたい」という志向をもった人たちが多数いるように思われる。──いや、いわゆるロリコンも、そういう要素はあるのかもしれないが(ロリコンは未成熟の証拠だ、などと批判的に言われるのは、こういう側面があるからだろう)、しかしやはりいわゆるロリコンというのは、自分自身はあくまでも女児になるわけではなく、現状のまま(成人男性のまま)、ロリっ子たちとあんなことやこんなことをしたい、という妄想を抱くタイプが多いのではないであろうか(よく「犯罪的」などと言われるのはこういうタイプだろう。もちろん妄想するだけならば「犯罪」ではないが)。

 

 しかしそうではなく、自分自身が女児にになりたい、それどころか、気持ちの上ではもう、女児である、というようなタイプの楽しみ方。こういう楽しみ方も、結構あるような気がする。女児願望。──こうなるともはや、いわゆるロリコンというものにつきまとうネガティブなイメージは、あまり関係がなくなる(犯罪的、などの)。自分が女児になりたいのだから、女児に変なことをしたいなどという願望はない。むしろ逆で、もはや「自分が」女児なのだから、変なことなど「され」たくない。

 

 ちなみに、だからこっちのタイプの方が「健全」だ、と言いたいわけではなく、むしろどちらかといえば、年齢も性別もちょうど逆の人が女児になりきる妄想を抱くよりも、単なるロリコンの方が、よっぽど「健全」かもしれない(単に「比較的に」という意味に過ぎないけれども)。しかしながら、これ以上は話が広がるので控えるけれども、そもそも「健全さ」というもの自体が、大きな問題を抱えた概念であると私は思うので、別に多少「不健全」で結構ではないか、と私は思う。

  

 これと同じように、『ごちうさ』等の作品の楽しみ方においても、チノちゃんになりたい、ココアさんになりたい、むしろ、もうなっている(つもりである)というような楽しみ方というのも、かなり多数派を占める楽しみ方なのではないであろうか。

 

 例えば、チノちゃんが好きだという人と会話をしていて、「・・・でも他のキャラもみんなよくて、で、結局、ココアさんって、すごくいいんですよね~」みたいな話になることが、結構ある気がするが、要するにこういう人は、チノちゃん「が好き」というより、もう半分チノちゃん「になっている」のだろうと思う。

  

 要するに、男でも、女の子になりたいことだってあるのです。そういう願望は、人によるかもしれないが、それなりにあるわけです。

 

 これには、男としてのアイデンティティの維持に伴う抑圧、疲弊といったものが、背後にある。「男らしい状態」というのは、常に必死で維持しなければすぐに「萎えて」しまう訳だが、このことに象徴的に現れているように、男らしさというのは、それなりに無理のある要求である。

 そもそもアイデンティティを維持するということは、そのアイデンティティを脅かす「他者」(自己の中の、そして他の人間の中の)の抑圧と表裏一体である(『アイデンティティ\差異』)。──だから、男らしさを脅かすような言説は、人によっては「気持ちが悪い」。「男の娘」的なものは、人によっては嫌悪感を呼び起こす。気持ち悪い、見たくない、嫌悪感、といったような感情を引き起こすもののは、たいてい、その人が必死で抑圧しようとしている「他者」である。

 

 こうした抑圧に伴う無理、疲労、といったものに対して、女の子になってもいいんだよ、女の子の視点で、楽しんでいいんだよ、というような、女の子だけの日常系作品というものは、癒しになるのだろう。

 

 もっとも、これは、積極的に女の子になるというよりも、男らしさを「否定する」(男らしさという重荷をおろす)という、消極的・否定的な側面が強いから、女の子としての積極的な側面については、あまり強調されていない場合も多いであろう(女の子の登場人物が、生理現象で苦しむ場面などは、見かけることがない。その他様々な、男らしさとは逆に「女らしさ」を求められることに伴う苦しみなどは、一般に描かれない)。 ・・・そのような意味で言えば、文字どおり女の子になりきる、というのとも、また、厳密に言えば少し違う。

 

 言うなれば、女の子でも男の子でもない、そういった、「~~らしさ」といったことを求められない世界が、欲しいのではないであろうか(このことは、先ほどの「健全さ」の要求の問題と通じるものがある)。

 

 このように、「女の子」(かなりファンタジックに彩られたそれではあるが)になりたい、特に、「男らしさ」を捨ててそうなりたい、というような願望に対応してくれるということが、こうした女の子だけの作品の楽しみ方の一つとして、あると思う。

 

 そして「男の娘」というものは、男であるが、男らしさはない(同時に、女であることの面倒な側面も引き受けない)という点で、このような願望に合致している。だから、『ごちうさ』などの女の子だけのアニメというものが、「男の娘」願望と親和的であるのは、根本的な理由があると思う。

 

 ただし、「男の娘もの」創作物として積極的に物語を展開しようとすると、「結局のところ中身は男性である」ということを性的興奮の要素を取り入れることになり、したがって最終的には、普通の意味での男性登場人物「お兄さん」が紛れ込んで登場するタイプ(2)の物語とあまり変わらない内容に移行してしまうであろうけれども。