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miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄を中心に、私の個人的な雑記等も書き記しております。

チマメ隊が「示す」世界:ごちうさ・チマメ隊AL『chimame march』感想(3)「みえるよみえる」

ごちうさ ご注文はうさぎですか? ごちうさ音楽 日常系作品

 『chimame march』収録のチノ・メグ曲、「みえるよ みえる」。

 

みえないものが みえるよみえる

急いでいたら知らない世界 おとなの落とし物なのかもね

みえてるものは ちがってみえる

雲のかたちがゆっくり変わり 美味しそう

あれは…クロワッサン!

 

自然と涙が出てきそうに、静かな感動を呼ぶ曲だった。

 

この子達の新鮮な、世界を見る目。

 

「スニーキングストーキングストーカーストーリー」(原作第3巻p.67以下、アニメ2期第8羽後半)を思い出す。この二人の、ゆっくりゆっくり進む、木組みの町の探検の風景が浮かぶ。

 

「ときめきポポロン」もそうだけど、

この子達の新鮮な世界を見る目、というのが、ものすごく感動を呼ぶ。

 

日常系は世界を描かない、世界系との対比にある、狭い世界だけを描いている。

こんな風に言われる。

 

しかし、世界とはなんだろう。「私は私の世界である」(『論理哲学論考』5.63)。

 

大風呂敷を広げず、小さな目の前の出来事を丁寧に描くことによって、むしろ日常系は、丁寧に「世界」を描いているのではないだろうか。

 

それは例えば、このチノ・メグたちの視点が描く世界である。

 

「とりの羽」が、「空からのお手紙」。

「雲」は「クロワッサン」。

 

こんな話は、我々も、子供の頃は、よくしていたのではないであろうか。

 

「世界」とは、その全体を描くことはできない。なぜなら世界は全てだから。世界を、世界として見たことのある人はいないはずである(「みえないもの」)。

従って「世界」とは、「語る」ことはできず、「示される」だけである。

 

「これをそれとしてみる」という「言語ゲーム」を、「子ども」はする。

 

一つの「箱」を持ってきて、それを「家」としてみる、というゲームを、例えばする。

子供だけでなく、「おとな」でも、ただの「箱」を指し、

「特別の表情をして『今それは家である!』と叫ぶ人──その人は、アスペクトひらめきに表現を与えているのであろう」(『哲学探求』II, xi)。

 

この、「アスペクトの変移」の瞬間にこそ、世界は「示される」のではないだろうか。

 

アスペクト盲」の人には、「これをそれとしてみる」という言語ゲームができない。

チマメ隊には、それができる。