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miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄を中心に、私の個人的な雑記等も書き記しております。

天上のパン職人ココア:ごちうさ『Rabbit House Tea Party 2016』(BD)感想(3)終幕部分

ごちうさ ご注文はうさぎですか?

 『Rabbit House Tea Party 2016』(BD)、 キャスト退場後の、ココチノ会話音声より。

 

チノ「またラビットハウスに遊びに来てくださいね」 

 

会場のお客さんたちが映る。

 

行くよー、という声が入る。

 

 

どうやって行けばいいんだろう。と、とっさに思ったが、

そうなのだ、ラビットハウスは、みんなの心の中にあるんだなあ。

 

そんな、あるはずもない喫茶店のことを、みんな心の中に思っているなんて、それも、いい大人たちが・・・、というような考えが一瞬よぎるが、

しかし、そうは言ってももう、我々は、引き返せない所まで来ている。ラビットハウスがどこにもないなんていうことは、信じられない、もう大切な場所になってしまっている。

 

ばかばかしいけど、なんと素敵なことだろうというように、やっぱり思った。

必死で声援を送り、サイリウムを振るお客さんたちが写っていたけれども、

さらにその映像を家で見ている自分も含めて、

ばかばかしいけど、やっぱり本当に素敵なことだ、と思う。

 

この作品に出会えてよかったなあ。

そうでなければ、こんな気持ちになることはなかった。

 

 

 ◆

「ラビットハウス」っていうのが、もう、心の聖地というかなんというか、合言葉のように、みんなの心の中にある、拠り所になっている。「約束の場所」になっている。

 

きっとどこかにあるから、それを信じて、生きていこう。

 

ーー「またくるから」といって、去っていった男の、その言葉を信じて2千年も経っているのが、キリスト教だ、という言い方を聞いたことがあるが、

 

我々は2千年も待たなくてもいい、来年春まで、待てばいい。そしたらまた、みんなに会えるわけだから。(というか、『きららMAX』を読めばいい。)

 

 

聖書を開くのと同じように、コミックスを開こう。(画集を開こう。BDを再生しよう。)

 

ミサに参加するように、このイベントBDを、繰り返し見よう、一緒に歌おう。(キャラソンCDを聞こう。)

 

人はパンのみによって生きるにあらず、魂の救済が必要だ。

 

 

ごちうさには、本当に、神々しさ、神聖さを感じる。

 

これは人によるんだろうけれども、私の場合、本当にごちうさに関しては、「聖」なるものを感じる。単なる「対象」として見ることができない。これは全く人によるので、それぞれの楽しみ方を否定しないけれども、私に関しては、本当にそう。

(欲求の主体としての自分を維持したまま、「対象」として見るというだけでなく、そのような主体としての自分が無に近づいていき、彼女たち(チノちゃんたち)に同化していく側面がある。)

ちなみに私は、ふだんは市民社会的主体として、欲にまみれた非常に下品な人間です。こんな下品な人間ですら、この作品に触れていると、そのような自分が馬鹿げて見えてくる。

 

 

パンのみによって生きるにあらず、世俗的な欲望などが、どうでもよくなってくる。

 

ココアはパン職人だが、それは、地上のパンではなく、天上のパンを作っているのだ。そうに違いない。なるほど。これはよくできた比喩なのだ。

 

まさに、生きる糧。そういえば、「生きる糧にして」、というようなことを、いのりさんは言っていたな、挨拶で。

 

それは、地上のパンだけでは生きられない人間にとっての、天上のパンという意味だろう。

 

 

つまり、チノちゃんにとって、ココアさんは、福音をもたらしてくれた。救世主なのである。

 

「チノちゃんがこんなに積極的になって嬉しいよ」ーーこれは、最後の会話でのココアさんのセリフ。

 

ココアさんのパンは、パン以上のものである。

 

辛いことがあったら、このBDを、特に「ときめきポポロン」を、また見るんだ、と心に決めた。忘れないように、メモしておこう。

 

 

◆(付記)「見上げる」スタイル

 

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図らずも、「メグマガジン」と、チノちゃんポスター(さらにゆゆ式ポスター)狙いで、『メガミマガジン』(2017.1月号)を買ったが、そこでの特集「萌えアニメの歴史」のような冊子をパラパラ見ていて、書いてあったことを思い出した。

 

ある時期から、男性主人公が登場するハーレム的なアニメから、女の子しか登場しない「見守るスタイルへの変化」というようなことが書いてあった。

 

ごちうさ』に関して、いまや、

「見守る」スタイル、さらに、「見上げる」スタイルになっていっている。

 

自分というものが、限りなく消えていく。無私。

 

この「無私」というスタイルが、癒しになる。

 

市民社会的な主体、世俗的欲求にまみれた日々の自分が、浄化されていく。それらは、他人よりも自分を苦しめるのだ。

 

 

こういった意味でも、まさに「聖」である。

 

一種の宗教的実践としての『ごちうさ』。