miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄を中心に、私の個人的な雑記等も書き記しております。

すべてが「日常」化される:『ガヴリールドロップアウト』感想【補足】

使命を失った天使。
使命がなく、行き場を失うのは、当然である。

 

(以下、前回記した「感想」への補足。

前回記した「感想」: 

miusow.hateblo.jp

[この記事を貼り付ける機能を初めて使ったので、うまくできるかな・・・]

これはさらにその補足で、もはや通常の意味での「感想」からは、だいぶ離れているような気もします。 )

 

 

「活きた自然」のない時代にあっては、

彼女たちは単なる概念としてのみ可能であって、健全な形で肉体を得ることは不可能であある。

(例えば、無機質な見滝原市においては、まどかは健全な仕方で、ほむらちゃんに会いに来ることができない、のと同じであろう。)

 

彼女たちの、悪魔的行為も、天使的な振る舞いも、

人間には理解されない。(大晦日の回・第9話など)

 

それは、何かの余興、コスプレ、といった形でしか、理解されない。

 

行事を好む悪魔(ヴィーネ)が、印象的である。
宗教的行事もまた、単なるイベントである。(第9話)
完全に現世的なものにすぎない。(クリスマス、お祭り、といった典型的な日常系作品的イベント)

 

全てが矮小化され、陳腐化される。現世的なものに変換されてしまう。聖なるものの、この無力さが描かれている。そしてその無力さすらも、彼女たち自身が、楽しんでしまっている。下界にいるうちに、彼女たち自身もまた、その使命を忘れかけて行く。(「本物の」天使姿は、いまやガヴにとって「仮装」である。〜ハロウィン回・第6話。)

 

というよりもむしろ、使命など、もうないのだ。何も彼女たちがすることなど、残されていない。

そもそも神が行うのは、現世的な救済ではなく、魂の救済であるが、もはや人々はそのようなことを求めていない。求める能力すらない。「社会」の中で完結してしまう、その程度の生である。

それゆえ、当然ながら彼女たちの現世における仕事など、いまやないのである。

天使や天使学校の校長は登場するものの、神が登場しない(ようにみえる)が、彼女たちが知らされていない、気がついていないだけで、もはや神はいないのではないか。

 

神の死亡宣告は有名であるが、正確には、最初から死んでいた、というよりそんなものなかった、というべきなのである。

 

天界の遊びが昭和で止まっている、古い、という描写がある(帰省の回・第10話)。そういうギャグなのだけれども、つまり、天界は、現実世界とずれているのだ。(実際には昭和どころか、500年以上、あるいは2000年ずれていると言ってもいい。)

もはや天使の居場所がない、ということに気がついていない。

それなのに毎年せっせと留学生を送り出している。それほどに、彼らは能天気なのだ。


おそらく、「つくった人たち」はそんなこと絶対に考えていない、という人がいるかもしれない。私もそう思う。作品の成立は、作品の理解と切り離せない。作品の理解は、著者の意図を超えることの方が、むしろ普通である。

 

 

 

 

天使の居場所がない時代に:『ガヴリールドロップアウト』感想

ガヴリールドロップアウト』。

 どうも、この春のアニメがあんまりしっくりこなくて、昔のものをいろいろ見てみたり、昨シーズンやっていたもので、まだ見ていなかったものなんかをゴソゴソと出してきて、いま見ている途中なのですけれども、これ、なかなかいいですね。

原作は知らず、何か紹介の文章のようなものを読んだときは、天使だとか悪魔だとかっていうように、どうにも込み入った設定のような気がして、実際どんな作品なのか、日常系な感じなのか、ピンとこずに、見ないでおりました。

が、配信サイトの「こちらもおすすめ」「他の人はこんなのを見ています」に出てきていたので、多分いいのではないか、と思い、見てみました。

 

なるほど、これはとてもおもしろかったです。非常に自分の好みにマッチしています。

 

善悪の彼岸

ガヴリールドロップアウト』というタイトルがそのままで、天使が堕落してしまう、それも現代的な意味で堕落してしまう(引きこもり、ネット中毒・・・)、というお話ですが、それだけでなく、逆に悪魔の方がまるで天使のようにいい人だったり、あるいは「人がいい」感じになっていたりする。また天使のような笑顔で、中身が悪魔のようなことをする、そういう天使も出てきます。──まさに「善悪の彼岸」。

 

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(オープニング。ジャージ姿の天使ガヴリール。)

 

オープニング曲も、気がふれる直前のような、ギリギリの感じが出ていていいです。(わざとらしい「神聖な」雰囲気の声・曲調で嫌味なことを言う、等。)

 

天使ガヴリールは、気軽に「世界が終わるラッパ」を取り出してしまいます。

「オワタ」が一時期流行りましたが、とても嫌なことがあると、割と簡単に「世界が終わった」みたいなことを言いがちな風潮があって、それで本当に世界が終わってくれるなら楽でいいのですが、実際には終わらず、むしろその嫌なことを抱えたまま世界は続いていってしまう。しかし彼女たちは本当にそれができてしまうのであり、そんなノリで、ラッパを取り出してくるあたりが、とても皮肉な感じで、ニヒリスティックで、ヒリヒリする。

 

マニエリスム(もはや天使の居場所はない)

・・・そうですね、ニヒリスティック、ニヒリズムがこの作品全体を支配しています。とても退廃的です。

それというのも現代がニヒリズムの時代であるから。

(正確に言えば、世界の「終末」ということすら、「オワタ」のノリでしかなく、リアリティがない。とすれば、なるほど我々は、真のニヒリズム「にすら」到達していない、ということになるかもしれません。)

 

もはや天使も悪魔もいなくなったあとのマニエリスム以降の時代、「脱-魔術化」した世界に、本当の天使も悪魔もいるわけがないのです。いるとするならば、「不幸な意識」に分裂した理性が見る夢の中で、形而上学的概念としてのみ存立しうるであろう。いずれにしても概念としてであって、生き生きと自然に「内在」する魂としてではない。つまり、「自然」(フュシス)を「超えたもの」(メタ)=「形而上学的なもの」(メタフュジカル)として、彼岸においてのみ夢見ることが許されるものにすぎない。それは、直接に人間を助けに来てもくれないし、逆におびやかしもしない。

 

したがって、彼女たちが天使や悪魔であり得るのは、天上(あるいは魔界)においてのみであって、一度そこから出てしまうと、もはや何者でもなくなってしまう。

彼女たちは、「自然」(=下界、人間界)に降りてきていながら、人間たちとはほとんど交流せず、彼女たちの閉じられたサークルの中で、ダラダラと日常を過ごしていく。

そして、その閉じられたダラダラとした日常の中で、もはや普通の人間でも用いるであろうような日常会話程度のレトリックとして、申し訳程度に、天使や悪魔などという言葉を弄んでいる。彼らのなす善行も悪事(「デビルズアクション」とも言う・・・)も、とてつもなく小さなことに過ぎない。

 

この世界には、もう500年ほど前から彼女たちの「居場所」は失われており、無理にこの世界に降りてきても、引きこもるしかないのである(家に引きこもる天使、隠れて昼食を食べる悪魔、閉じられた交友関係のサークル)。

 

◆「否定の契機」に耐えられない人たちのために

では一方でこのような物語を思い描いてしまい、また共感してしまう我々人間の側から見れば、これはどういう事態なのであろうか。

 

一つには、主人公のガヴリールが手掛かりになる。

本当は(本気出せば)成績優秀で、髪もドライヤーで梳かせばサラサラで美しいんだけど、あえてここではだらしなく引きこもって、宿題なんか自分でやらず、周りを軽蔑して生きているんだ、という彼女の雰囲気は、この作品を受容する人たちの、少なくとも一部の雰囲気を反映しているのではないだろうか。本当は天使だし、頭がいい、ということを(それが妄想・虚構であるとしても)、心の中の密かな拠り所にしつつも、ダメな自分をいつまでもダメなままに甘やかしながら生きていきたい、といったような精神。

 

つまり、天使はいると思っていた、あるいは自分は天使だと思っていたが、気がつけばそんな時代はとっくに終わっていた、だからこんな薄汚れた世界を心の中で軽蔑しながら、バカにしながら、見下しながら、引きこもって生きていきたいのである。

 

まさに、他者・市民社会という、襲いかかってくる「否定の契機」に耐えられず、分裂した精神のまま、その分裂を大事に抱きかかえていたいと思うような、「不幸な意識」。彼岸に(形而上学的概念として)天使を夢見ながら、この此岸を見下し、軽蔑しながら生きていきたいのである。

 

◆でも『けもの』が流行る世界でよかった

同時期に放送していた『けものフレンズ』の大流行ぶりと比較したとき、この『ガヴリール』に共感してしまう私は、とてもホッとした気持ちになる。

 

『ガヴリール』ではなく『けもの』が流行する世界(此岸、この世)でよかった、と。

 

なぜなら、(例えば私のような)ガヴリールは、とても前向きで建設的なお話たる『けもの』を支持する人たちの、前向きで建設的で「脱魔術化」された市民生活を前提としてのみ(そこに寄生してのみ)、(精神的に)引きこもっていられるのだから。

 

◆日常系作品に共通するもの

しかし、『けいおん!』をはじめとするいわゆる日常系作品の多くは、その穏やかで暖かい雰囲気とは裏腹に、それがこの現代において制作され、共感されているということを踏まえると、実はどれも、皮肉で、ニヒリスティックで、退廃的で分裂したものである、ということが指摘できるのではないか。この『ガヴリール』のように、逆転した天使と悪魔が登場しても・していなくても、実は同じなのである(『けいおん!』にも、あずにゃんという「天使」は登場する。・・・つまりあずにゃんもまた日常系アニメの天使であるならば、それはまた現実の世界では存立しえず、分裂した意識の夢見る形而上学的概念としてのみ可能なのである)。

 

 

 

 

◆(メモ)

あとやっぱりこの作品で大事なことは、

サターニャちゃんがかわいいです!!

ということです。

(大室櫻子的な良さ。自分がガヴリールだったら、もうちょっとサターニャを可愛がってしまうだろうと思う。)

 

 

 

「きららフェスタ2017」メモ:ごちうさ関係中心

 「きららフェスタ2017」夜の部に参加しましたが、それに関する、とても簡潔なメモです。また、とても偏っています。

 

◆パンフ抜粋

──マヤと遊園地に行ったら、という話

マヤに手を引っ張ってもらいたいですね! あれに乗りたい、これに乗りたい、というマヤについて行くのが楽しいと思います♪ ソフトクリームとかポップコーンとか、マヤにおねだりされちゃったら絶対買っちゃうと思います(笑)。マヤを甘やかしたいですね…!・・・

徳井青空さん、『きららフェスタ2017パンフ』p.24)

なんとも微笑ましく読みました。

確かに、マヤを思いっきり甘やかしちゃいたいです。なんでも買ってあげちゃうし、お小遣いもあげちゃう。

 

◆告知類(一部)

 ・ごちうさ劇場公開の日が決定。2017/11/11

具体的に日付が示されたので、もう安心ですね。

待ち遠しい!!・・・けど、観たら終わってしまう、という複雑な気持ちが、今からすでに。

 

ごちうさキャラソンシリーズ2017

ごちうさの曲がどんどん充実していく。

 

・『AチャンネルBlu-ray BoxのCM

ちょっと欲しいけど、どうしようか。やや高めか。新作OVA付きではある。劇中歌CDも付く(これが大きい)。9月発売なので、悩む時間はある。とりあえず「予約注文する」しておいてから悩むか(うまいこと忘れてしまったら、もうそれでいいわけだしね)。

 

・『こみっくがーるず』アニメ化(→別記)

 

・「きらら」のスマホRPG『きららファンタジア』

これは面白いのかな。気にならないわけがないけれども・・・。

ごちうさのエイプリルフール企画のRPGみたいなやつがあったが、こちらは本当の話なのです。むしろあれは伏線だったのか。(とはいえ、このゲームには、ひとまずはごちうさは不参加のようである。)

そんなにいくつもゲームができる自信がないし、どうしよう(『まどマギ』のも始まるようであるし)。とはいえ、始まったら、とりあえずログインはしてしまうのだろうな。それで、うっかりいろいろやりだしてしまう、ということもあるかもしれない。

 

ただちょっと思うのは、日常感を求めてのきらら作品だから、独自のファンタジー的設定でのゲームは、少し違うのではないかという感じもある。もちろん、きらら的日常感というのも、そういう一種のファンタジーなんですけどね。

 

ゲーム内で、ゆのっちが何かキーマン?のような感じだったけど、ゆのっち大丈夫なのか、という気もした(あっちの世界ではたくましくやってる、みたいな設定なんでしょうか・・・ひだまり荘でも全然たくましくないというわけじゃないですけど)。

 

◆『こみっくがーるず』アニメ化、ちょっとだけ映像

こみが。と勝手に呼んでますが(と思っていたら、アニメ公式サイトのドメインがコミガアニメでした)。 

漫画を読みながら、これアニメ化したりするのかなあ、アニメになったら、オープニングはどんな感じになるんだろう、とか、なにも決定していないうちから、いろいろ妄想を膨らませていましたが、きららフェスタで、ちょっとだけですが、動いている(ように見える)映像が見られて、おおおーーーー!となりました。 

早く見たいです。(放送時期は未定ですが、来年春くらいになるのではないか。なんとなく。) 

翼さんもかっこよかった。楽しみすぎる。

漫画は3巻がようやく出る、という段階だから、原作エピソードは全部アニメ化されてしまう感じでしょうかね。 

 

チマメ隊の様子

チマメの声優さん3人が、ずっとくっついたり、いろいろ話していたり。

だんだん、本当にチマメがそこにいるように思えてくる。本当にかわいいんですよ。

 

夏服を着ていらして、スカートのちょうどいい広がり具合。かわいい。

 

「ときめきポポロン」を今年に入ってからもう3回も生で聴いている。なんという幸せ。生きていてよかった。 

振り付けなんかも、今回ゆっくり見られました。いいです。振り付けを覚えてしまいたいです。

 

 

ごちうさのメンバーは、ゲームコーナーなどでも(途中で茅野さんもNEW GAME!から転籍?して参加)、細かいやりとりなんかを見ていて、本当に仲が良さそうで、楽しそうにしていて、幸せになりました。 

 

朗読劇も、非常に安定感のある、安心して楽しめる感じの内容でした。朗読劇っていうのは、毎回、一回きりだからもったいなよなあ、と思ってしまいます。映像はなくても台本などはどこかで読めたら、と思います。

 

◆『うらら迷路帖』の皆さん

『うらら』の出演者の方々のことはよく知らなかったのですが、全体的にまったりとした雰囲気でいらして、癒されました。千矢役の原田さんは、特にまったりとした雰囲気の方でした。

もう一回、『うらら』を見返してみたいと思いました。

 

また、ノノ(この子はとても可愛いです)役の佳村さんが、マツコさんの声を、本当に・・・と言って、疑っていたわけではないのですが、しかし実際に目の前で一人でされているのを見て、驚きました。朗読劇で、絶叫するマツコさん→優しく話すノノ、というように、切り替えて演じていました。

 

 

 

 

何か少しでも頼りになりそうなもの:ライブ、蘭子語、ロバ祭り

 ◆

まんがタイムきららフェスタ」に今年も行く。

 

この集まりでは、最後、みんなで声を合わせて、

 

まんがたいむ~~・・・[←出演者の方々]

きららーーー!! [←全員で]

と、叫ぶ。

 

「きらら」というワードをみんなで叫ぶという体験。

もちろん、いろいろなコーナーや歌が楽しみであるというのもあるのだけれども、私の場合かなりの割合で、最後のこれがやりたいがために行くのではないか、という気もしてきた。こういうのが好きなんだ、ということを、いっせいに盛大に「告白」する(=信仰告白)。なかなか日常生活ではできない。

 

なるほど、これは、まるで何か得体の知れない、宗教的な集まりのようだと、部外者には思われるかもしれない。

(昨年、隣で同じ日に行われていたジャニーズ系のコンサートの参加者が、「この列なに?」みたいな感じで通り過ぎて行っていたのを思い出す。)

 

しかし、これに限った事ではなく、いわゆる宗教的と言いうるような振る舞いは、こうした「現代視覚文化」コンテンツ界隈のファン行動では、しばしば見られるものである。(例えば、宗教的な比喩、語彙の使用。尊い、女神、天使、聖地、・・・。)

そしてこれらの現象に対して、ネガティブな意味合いをこめて、「まるで宗教であり、だから危ない・おかしい」というように言われる場合も多いように思われる。

しかしながら、これは「二重の意味で」宗教に失礼である。

第一に、それが宗教あるいは宗教的なものであるとして、何か問題があろうか。たいていの人間には、何か宗教(のようなもの)が必要なのではないか。

第二に、それは宗教「ですらない」。

 

◆(1)宗教、のようなもの

──そもそもキャラというものは、何か目に見えない精霊のようなものに似ている。だから、形のないものの空虚な中心に向かって、懸命に内実を与えていく作業というのが、こうしたコンテンツの界隈ではいつも行われるのである。

自分にとって大事なもの・生き生きとして見えるもの(キャラクター、コンテンツ、等)が、形がなく空虚であるなどということは受け入れがたいことであって、そんはなずはない。そこで、さまざまな仕方で、その内実を充実させてしまわなければならない;

・フィギュア、グッズ等の「偶像」による具現化(=立体化)を通じて、執り行われる場合。 

・キャラクターソングなどのライブにおいて感じられることも、身体的な振る舞いによって、キャラの中身を実体として埋め合わせていくプロセスである。観客は中心のないものに向かって熱意・声援を送るという身体的な振る舞いを通じて、そこに本当にあるもの、具体的なものにしていくのである。

・しかしとりわけ重要なのは、ステージ上の出演者の振る舞い、とりわけ「声」というものを通じた、具現化である。 

それは、精霊のような存在に、その「声」を通じて肉体を与える存在である(=声優さん)。 

 

神崎蘭子のモチーフ

・・・と、このように言うと、なんだか蘭子語みたいだけれども、

「蘭子語」にみられるのも、宗教的なモチーフである。

もちろんそれは本当の宗教ではないし、単にそれらしい言葉を散りばめているだけ、なのであろうが、何かそのようなものへの憧れが背景にあるのは間違いない。

ゴスロリの「ゴシック」というのは言うまでもなくゴシック建築のゴシックであって、とうぜん宗教的な背景がある(高い天井・ステンドグラスの大きな窓・多声音楽による「崇高」な空間)。

歴史的背景、伝統、つまり、何か「重み」のあるもの、これらのものは、少しでも頼りになりそうであるから、そうしたものからモチーフだけでも借用するのである(あるいは、そうしたものへのロマン主義的憧れ)。 

神崎蘭子もまた、(何か少しでも頼りになりそうなものとしての)ゴシックに身を包み、それに支えられることで、どうにかここまでやってこれたのであろう(「私を守る繭であり鎧」)。

「現実の幼い私は、なにもできない、弱くて臆病な存在……。[・・・]

だから、いつしか、私は変わったの。

弱い自分を守るための、殻……それが、闇より生まれた、いまの私。[・・・以下略]」

(『デレステ』「ストーリーコミュ」第12話) 

「私を守る繭であり鎧……

漆黒の魔法衣(ゴシックドレス)をまとう場所よ……!」

(同前)

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◆否定の契機:市民的主体の浄化

また、このように蘭子が蘭子語を話し蘭子になりきること、あるいは現実の我々が蘭子などのキャラになろうとすること(コスプレ)、

あるいはまた、そこまでいかなくとも、キャラへと思い入れや感情移入を行うということ、

あるいはさらにまた、市民社会において(時に汚く)稼いだお金を崇高なキャラへと「お布施」すること、

これらの行為は、いまここにおける具体的な身体を備えた自分自身が、キャラへと同一化していくことで、その内実を充実させていこうとする営みであると言えるが、

同時にここには、自己犠牲、否定の契機が見出される。

 

この否定の契機を含む過程は、自分というものがキャラと同一化していき、やがて消滅していくような過程でもあって、それは、市民社会的主体としての、日常の馬鹿げた欲望や薄汚れたことでいっぱいになっている自分にとって、浄化作用のようなものをもたらすのではないかと思われる。

(例:多少汚く稼いだお金も、崇高なものへのお布施によって、手元から離れ、自分自身が浄化される。)

  

◆(2)「ロバ祭り」、あるいはそれ以下

とはいえもちろんこれらの宗教ふうの実践は、本当の宗教などではないであろう。

 

宗教的なものが何か必要だけれども、本当の宗教にも耐えられないような(私のような)「弱い人間」が、

ギリギリのところでなんとか見つけた、宗教に似た何かであろう。

 

しょせんは「ロバ祭り」*1、いや、ロバ祭り以下の何かだろう。

 

・・・とはいえ、それで今日もなんとか生きていけるのだから、そんなに馬鹿にしたものでもない。少なくとも「有益」なものであろう。

現代において、本当の宗教を信じることもできず、かと言って「超人」になることもできず、とはいえなにかそれらしいものを求めるひとにとって。

*1:Nietzsche, Zarathustra, 4.

あんきらについて、「可愛さに憧れる可愛さ」:CD『あんきら!?狂騒曲』を記念して

 今回CDになって、2番以降の歌詞が明らかになりました。

いつもキラキラだけど、ホントは繊細なとこも

照れ屋さんだけど、ホントはやさしいとこも

知ってるし

大好きだにぃ

(「あんきら!?狂騒曲」)

1番だけしか公開されていない段階では「なんだこの歌は!(とにかく楽しい歌ではあるけど)」という感想で終わりそうでしたが、このような2番が隠されていたんですね。

とはいえ、1番でも既に、「やっぱり一緒がいいよね?」「うん、いいんじゃない?」(この杏の答え方)という、少し抑制された表現が登場しており、ここから何かを感じ取っていた人たちも多かったのではないかと思います。

 

この機会に、「あんきら」というものについて、いろいろ推察(妄想)を重ねたことを、記してみたいと思います。特に今回は、二人の、「可愛さ」というものへの距離の取り方、その違いを軸にしてみようと思います。

 

◆小さいこと、子どもであること

双葉杏は可愛い。小さくて可愛い。妖精。

 

私はこの作品(デレステ及びアニメ *1)で、あんきらと、小さいアイドルたちが好きだが、

 

──つまり、それくらいの漠然とした楽しみ方をしていて、

特に、誰々Pなんです!などと名乗れるような、集中したのめり込み方をしていないのだけれども、

・・・だからその分、ガシャを引いたときの、自分的なヒットの確率は結構高いので(要するに、あんきら+小さいアイドルのいずれか(の何か)が出て来れば大喜びするから)、そこそこで楽しめているんだけど──、

 

まあ要するにあんきら好きも、「小さいアイドル好き」の延長であろうし、くだけた言い方をすれば、私がロリコンだからだろうと思います・・・。

 

 ◆「小さい」きらり

 きらりんは大きいじゃないか、と思われるかもしれないけれども、必ずしもそうではなくて、というのも、

きらりんは確かに小さくない、大きいアイドルですけれども、雰囲気も、中身も、多分に「子ども」の要素を持っている。

 

あんきらの良さは、まず見た目という点では、まちがいなく、杏が子どもできらりんが母親のような関係に見えるところで、二人が手をつないで歩いている様子(イラストなど)は、本当にそれだけでキュンとしてしまうのだけれども、それは、そのような親子的な微笑ましさがあるからだ。

 

そして、やっぱりきらりんは、そういう外面的・表面的なレベルで言えば、確かに保護者役のようなものを買って出ているところがあって(「甘やかしている」感じもあるが)、杏の自宅マンションにまで行って寝坊している杏を起こそうとしたり(その様子を見ていたい)、サボタージュする杏を探して追いかけたり、レストランであんずの口の周りに付いたケチャップを拭いてあげたり、といったような場面が見られる。

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(『アニメ』エンディング[この絵を飾りたい])

   

だけれども、それは外面的・役割的な振る舞いであって、まさにそのような外見に基づく関係、つまり両者の外見から暗黙のうちに社会的に期待されがちな役割に従っての振舞いにすぎない。*2

 

それに対して、そのような外面的な規定を超えた、二人の内面的なつながり方においては、この二人の関係は、必ずしも保護者・子どもというようなものではなく、どちらがどちらであるとも言えないような関係、むしろ場合によっては逆に、杏の方が大人びていて、きらりんの子供っぽさをわかった上で受け止めてあげている、というような側面がある。

 このようなあんきら関係の特質について、今回は、それぞれの「可愛さ」への距離の置き方の相違を手掛かりに、考えてみることにする。

 

◆きらりにとっての「可愛さ」

 きらりんは、そのままでは自分は可愛くないはずだと思っていて、いかに自分自身を可愛く「デコる」かということに熱心である。かわいさというものへの憧れ、幻想、ファンタジーを信じていて、人からもそう言われたいし、自分でも自分のことをそう思いたい。 

(確かに、可愛いもの好きではあっても「自分がなりたいとは思ってなかった」とPに語っている場面があるが(R特訓エピソード)、これを文字どおり受け取っていいのかどうか。オーディション直後に杏に語っているところによると、「きれいな衣装、すてきな歌、キラキラのステージ」の「アイドルにな」ることは「憧れ、だった」(「ストーリーコミュ」第10話)。)

 

また、先日のイベントで獲得されるSRのコミュも参照しよう。

「きらりん、きゃわゆい女の子になれたかなぁ?

・・・

きらりんは、背がちょっぴり高くて……

普通の女の子みたいにできないことは、いろいろあって。

でも、きゃわゆくなりたくて……。」

(「[With Love]諸星きらりの特訓エピソード」)

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◆杏にとっての「可愛さ」

その反対に、杏は、自分が生まれつきすでに可愛いということがわかっている。

 

小さい頃から、杏ちゃんは可愛い可愛いと言われて育ったから、アイドルならやれるかな〜と思った、などと、淡々と語っている。(こういうところがまたいい。「双葉杏とのメモリアル4」)

あるいは、自分は「誰もが認める美少女妖精キャラ」なのだから、努力する必要はない、とも言っている。(「双葉杏とのメモリアル2」)

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杏は自分がそのままで可愛いということを自覚していて、それを必要に応じて活用しつつ、普段はよれよれのTシャツを着て過ごしているのである。

 つまり、可愛さというものに客観的な距離をとった上で、必要に応じてそれを利用して(楽して)稼ごうとしている。自分の可愛さに対して冷静で、他人事のようである。

 

◆きらり→杏(1):「可愛さ」

つまり杏にとって可愛さは、デフォルトの状態、当たり前の状態であって、憧れるべき理想ではないのはもちろんのこと、本人も見たところそれを重視していないし、他人事のようである。親から受け継いだ資産の一環として、収入源として使えればいいという程度のものである。 

その逆に、きらりにとって可愛さとは、目指すべき理想であり、絶えずそのために実践することが彼女が生きるということですらある。

したがって「初めから可愛い杏」は、その意味できらりにとっては憧れでもあり、尊い存在でもあるのだろう。

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 (「シンデレラガールズ劇場」)

 

杏の髪を結ってあげている「一コマ劇場」がある。 

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 杏は無関心、というより、結ってもらわなくていいという感じだが、きらりんがそうしたがっている様子である。ここには、可愛い杏をもっとかわいくしてあげたい、という気持ちが読み取れる。 また、ゲームに没頭する杏の姿からは、彼女の自分の可愛さへの価値の置き方、距離感が読み取れる。 

 

◆杏の目指すもの?

では、杏は何を目指しているのか。

特に何も目指していない、ということになるのかもしれない。

 

まず、小さいのだから大きくなりたいと思っているのではないか、ということが考えられるかもしれない。例えば「ルーム」にいる杏が、「コドモっぽい衣装だけど…飴くれるなら、ま、いっか♪」と話すことがある。ここから「子どもっぽい衣装」が、やっぱり嫌だ、大人っぽい衣装を着たい、という気持ちを読み取ることもできなくもない。

(実際、身長だけでなく実際に小さい年齢のアイドルは、佐々木千枝のように、大人のアイドルになりたいな、というような憧れを口にすることがある。可愛い。)

 

しかしながら、杏は「飴をくれるならまあいいか」と言っており、それほど嫌なわけでもなさそうである。

というよりも、子供らしくて可愛い外見というものが、飴玉=収入を生むのであれば、利用したらいいじゃないか、というような、やはり前述した通り、杏らしい冷静で他人事のような「可愛さへの距離」がうかがえるのではないだろうか。

 

むしろこうだろう。杏の目指すところとは、何かを目指すということをしない、ということ、言い換えれば、何か特定の目的を目指さないという生き方、目的に拘束されない生き方なのではないか。そこに自由があり、戯れること、楽しさがある。このことを杏は知っている。──こうした杏の世界観については、「スローライフ・ファンタジー」においてよく表現されており、別途記したことがある。

 

(要するに、杏は大人である、というより、大人すらも超えてしまっている。大人になりたいという気持ちは、子どもが持つものである。大人などというものに、無邪気に価値を見いだすことも、もはやできないのである。)

 

◆杏→きらり:「可愛さに憧れることのできる可愛さ」

では、杏はきらりの何に惹かれているのか。

「やっぱり一緒がいいよね?」「うん、いいんじゃない?」という杏は、なぜそう答えるのか。

 

もちろん色々あると思うが、一つには、思うに、少し屈折しているが、「可愛さに憧れることのできる可愛さ」があるのではないか。

 

生まれつきカワイイカワイイと言われて育った杏にとって、可愛さは憧れでもなんでもなくただの事実であって、選択の余地なく親から引き継いだ資産のようなものにすぎない。したがって、「かわいくない私が、かわいくなる」というまさに「シンデレラストーリー」が、あらかじめ絶たれているのである。*3

 

そして、そんな「かわいくなりたい」シンデレラストーリーを素朴に信じ、大切にしている女の子は、本人の自覚とは裏腹に、「すでに十分かわいい」。

 

だから、まだそういうシンデレラの階段をのぼる楽しみが残されているきらりんのことが、かえって杏にとっては一種の憧れの対象でもあり、その夢中になっている姿はほほえましくもあり、また、子どものようでかわいくも思えるのである。

  

◆きらり→杏(2):見守ってくれること

そして、きらりが杏に惹かれる理由が、ここでもう一つ見つかる。

すなわち、そのように杏が微笑ましく見守る気持ち、である。

小さな杏から、微笑ましい眼差しで見守られると、きらりんは、その杏よりももっと小さくなった気持ちになるであろう。

自分を子どものように可愛がってくれる人がいるということ。これはきらりんにとってとても嬉しいことなのではないだろうか。

再度引用。

いつもキラキラだけど、ホントは繊細なとこも

照れ屋さんだけど、ホントはやさしいとこも

知ってるし

大好きだにぃ

(「あんきら!?狂騒曲」)

 

要するに、あんきらという組み合わせの絶妙さというのは、いわゆるギャップの良さというものが、あんず・きらりのそれぞれにおいて見られるのみならず、相互の関係においてもそれが入れ子状に働くことによって、何重ものギャップがそこに見られる事態となっている。その結果、なんとも言えない、中毒性すらあるような絶妙な味わいが、そこに生まれているのである。

 

 

 

*1:私のこの作品の体験は、デレステとアニメ、あとは関連CD、コミックス等だけです。 

*2:

おそらくきらりんは、普通に考えると、成長期を境に急に背が伸びたものと思われるが、要するにそれくらいの年齢からつねに暗黙のうちに、周りから、その身長に応じた振る舞いを求められてきたに違いない。知らない人からは実際よりも学年が上に見られてしまっていたであろうし、年齢を知っているはずの友人・教師なども、無意識的に、頭が一つも二つも飛び抜けている彼女のことを、お姉さんであるというように錯覚してしまうようなことがあったのではないだろうか。──そのようにしていつも暗黙裡に期待される振る舞いのコードは、彼女の、少なくとも表面的な振る舞いを規定してしまうのである。

逆に杏は実際よりも低い年齢に見られてきて、そのような振る舞いを期待されてきたのではないだろうか。飴玉が好きというのは、単に好みかもしれないが、小さい子どもに飴玉をあげれば喜ぶだろうという安易な考えから、周りの人がよく飴玉をくれたのではないだろうか。[子供らしいわがままを言い、飴玉をあげると喜んで素直になる、という振る舞い方を周りの人は杏に期待し、その通りになると周りの人は安心する。]

*3:正確には、自分はかわいくないと思い込んでいた私が、実は可愛かったと気がつくまでのストーリー、と言うべきだろう。

 

萌えアニメの「壁」:『ごちうさ』、『うらら』、『ひなこのーと』

 

アニメ、特に一般に萌えアニメと言われているものが、基本的に、はっきり言えば、私は好きなんですけれども、
ただどのそういうアニメも、たいてい、最初の方は、「ちょっとこれは無理だ」と思ってしまいます。

だけれども、しばらく見ているうちに、その「壁」を乗り越えて、むしろ抜け出せなくなるっくらいハマる事があります。
そこまでいかなくても、なかなか良かったなあ、と思える事が多いです。

ただ、どういうわけか、最初は、ほぼ必ず、何か「壁」というか、乗り越えなければならないものにぶつかるのです。

 

つまり、萌え要素がきつすぎる、と感じるわけです。

 

ここにはおそらく何か、自分でも分析しきれていない、過剰な自意識とか、余計な自尊心のようなものが、関係しているのかもしれませんが、とにかく、
これはいくら何でも「要素」すぎるだろう、というように思ってしまい、ちょっとさすがにキツイ、というように思ってしまうのです。


◆『ごちうさ』の壁

今では考えられない事ですけれども、『ごちうさ』も、最初の第1羽の前半は、初めて見たときは、実はちょっときつかったです。

「うっさぎ〜うっさぎ〜♪ あれ、ウサギがいない!」とか(ココア)、
突然下着姿の女の子がクローゼットから出てくるとか(リゼ)、
「あぁ〜、こういうやつね〜」というように、思ってしまいました。
(チノちゃんについてすら、頭の上にウサギって、可愛い子にカワイイ動物載っけてどうすんだよ!可愛いに決まってるだろ!などと思っていました。)

だけれども『ごちうさ』は、第1羽を見終わる頃には、かなりその「壁」を乗り越えて、むしろ良さそうだな、というように思いましたし、2羽、3羽、と見ていくうちに、そして、最後まで見終わって作品を自分なりに反芻していくうちに、気がつけば後戻りできないほどにハマっていました。

もうこうなってくると、再び第1羽を見返しても、何とも(ネガティブには)思いません。ココアさんは初めからココアさんだったんだなあ〜とか、やっぱりリゼ先輩はかっこいい、などと思うだけです。


◆「萌えアニメの壁」

最初ちょっと、きついな、と思うくらいが、むしろ後からハマる傾向があるのかもしれません。

とにかく、「萌えアニメの壁」とでもいうべきようなものが、大体最初にあるものなのです。


おそらく内心では萌え要素を求めているくせに、萌え要素と思しきものがあまりに生々しく陳列されていると、さすがにこれはちょっと違う、と思ってしまう。単にへそ曲がり、妙な自意識が強いだけ、なのかもしれませんが、とにかくこういう傾向があるのです。
同じような人も、結構いるのではないかと思います。


◆『うらら』、『ひなこのーと

昨シーズンにやっていた『うらら迷路帖』も、実は最初の方は、やっぱりつらいと感じたところがありました(あまりにお腹を出しすぎだ、とか)。でもまあ、だんだんそれも普通に感じられてきて(それが普通に感じられるというのも変なのですけど)、それよりも話の内容や、キャラたちの関係などに馴染んでくると、それが気にかかるようになり、気がつけばそれなりに気に入っている、というような流れでした。


そういうことでいうならば、現在やっている『ひなこのーと』については、ただいま3話まで見ましたが、私はまだ「壁」を越える事ができていません。

演劇の話がもっと出てくると、違うかもしれません。
(第1話の、地元における主人公の「かかし」の話は、何だかかわいそう、というようにしか思えず、少し辛いです。)


◆(付記)『NEW GAME!』は最初から大丈夫だった

おそらく、こういう系統の作品には、もちろん、典型的な萌え要素以外の要素も、当然あるわけですが(なければ、たくさんある諸作品が、別の作品として成立していないはずですからね)、最初は、その典型的な萌え要素の方ばかりに目が行き、それぞれの作品独自の要素にあまり気がつかない、あるいは、心を動かされるほどに味わう余裕がない、ということなのかもしれません。そして、次第にその典型的な要素について把握ができるようになると、少し落ち着いてきて、それ以外の要素はこうであり、これらを追いかけていくとなかなか面白い事に気づく、ということなのかもしれないです。

つまり、
「典型的な〜」と思って最初は見ているが、次第に(その作品に詳しくなるうちに)、それほど「典型的」ではないぞ、と気がつく、という感じでしょうかね。

(ただ、そもそも「典型的」で何が悪いのか、という気はします。あまりに「典型的」なものは受け入れられない、という傾向の背景には、何か若干のスノビズムのようなものが、私などには、あるのかもしれません。)


そのせいか、
NEW GAME!』は、お仕事ものというのが珍しい気がしたので、最初からあまり「壁」を感じませんでした。むしろ逆に、「会社」なんていう設定で、よく、こういうきらら作品的要素を盛り込んだなあ、というように感心して見ていたくらいです。

例えば、会社に泊まりで仕事、なんていう、聞くだけでもいかにも疲れそうな場面を(現代社会の生きづらさ、みたいな言葉が思い浮かびそうな場面を)、きらら的な「お泊まり会」ふうにしてしまうなどというのは、なるほど〜、というように思いました。

日常、非日常:ライブ「Chimame March」(東京公演)感想

ライブから帰ってきて、思いつくままにメモいたします。
(忘れないうちにとりあえず、です。ほかにももっと大事な、言及すべきことがあったと思うのですが、こういうライブみたいな体験というのは、一度にどっとやってくるので、とても印象深かったことでも、あっという間に押し流されてどこかに行ってしまいそうになります。)

 


◆衣装など(マーチの衣装、夏服、ライブTシャツ)

スタンド席で、後ろの方だったので、実際のところあまりよく見えなかった・・・。(指定席がよかったんですけど、席が少なそうで倍率が高いのでは?と思い、やめておいたのです。)

歌を聴きにきたんだから、まあいいか、という気もしますが、一方で、素敵な衣装や、振り付けをよく見たかった。
衣装自体は、登場の時点で高いところから出てこられるので、その時に見ることができたのですけれども。

最初の「マーチ」の衣装は、とても素敵でした。「あ、かわいい・・・」と思わず自然につぶやいてしまいました。アルバム紙ケースのKoi先生描き下ろしイラストで着ているものですね。
フラッグを使った振り付けもあったようなんですが(そしてそれはどうやらとても可愛いような感じがしたのですが)、しっかりと確認できず残念。

あとは、学校の夏服ですね。ぴょんぴょんと跳ねたりしながら踊っている様子は、とても可愛らしかった。

 


チマメ隊「てくてくマーチングマーチ」

今回の『パンフレット』(p.14)で、りえしょんさんが語っていた「てくてくマーチングマーチ」の曲のイメージがとても素敵で、そんな光景が見られたらなあ、と、ライブ前に読みながら妄想していました。

「みんながかわいい衣装を着て、シンデレラが乗っているようなキラッキラの馬車に乗って、お城でこの歌を歌っている…みたいな光景がすごく浮かんできて・・・[以下略]」

 実際には、これとは違ったのですけれども、先に述べたように、学校制服ではなくて、「マーチ」の衣装で、ちょっと普段の日常シーンとは違う特別な雰囲気の演出で、やっぱり素敵でした。

 

この作品の大きな魅力の一つとして、たくさんの素敵な衣装がカラーイラストで見られるということがあると思います。それは、私服でも学校や喫茶店の制服でもない場合が多くあり、たぶん彼女たちの夢の中での姿とか、あるいは空想の中での姿というように捉えることができると思います。

そういえば、今回も、「お菓子な夢をおひとつどうぞ♪」について、チノちゃんが夢の中で快活に振舞っている様子をイメージして歌った、というようなことをいのりさんが仰っていましたが、『ごちうさ』は、日常生活と、夢の中の世界とが、いつも行き来するようなところがあるのかもしれません。「まるで童話の中の街みたい」というココアのセリフがありますが(1巻p.32)、確かに、街(=日常生活)の全体を、童話(=夢、空想)が包んでいる、というようなところがあります。

 

 

◆メグ「すいーと・すきっぷ・すてっぷ」
メグの曲についての皆さんのお話は印象的でした。
たしかにこの曲は、従来のメグ曲ともまた違った、いい曲です。

メグにはいつも、大人への憧れというものが少しある。3人中では一番背が高いし、母親が本編に登場していることからも、なんとなく、メグはどんな大人になるのかな、ということが意識される。
と同時に、そういう大人に向かっていく必然的な時間の流れの中で、みんなといつまで一緒にこうしていられるのだろう、というような気持ちになることもあるのだろう。
そのようなメグの気持ちをうたった歌詞であり、メロディーも、楽しいと同時に少し寂しいような感じのものになっている。
(そらまるさんが、この曲は泣いてしまいそうになる、というように仰っていた。)

 

ちなみに、「ねえDreamin'」の曲(=「ナイショのはなしは夢の中で」、たぶんメグの最初のソロ曲)は、(出演者の)皆さんの間でも人気なんですね。おっとりしたメグらしい曲です。
そういえば、『リスアニ!』の「ごちうさ全曲解説」での、この曲を作った方のインタビューが印象に残っています。曲としてあまり派手ではないのですが、そこに意味があって、メグという子のことをこんなにも掘り下げているとは、と思った記憶があります。

(なお、今さら私などが言うまでもないのですが、この『リスアニ!ごちうさ別冊』はとてもいいので、読まれていない方は、是非、読んでみることをお勧めいたします。ーーそういうブログではないので、またやり方がわからないので、アマゾンへのリンク等は貼りませんが。ーー「ごちうさ音楽」というジャンルの豊かさがわかります。キャラソン等を作った方々のお話は、公式の二次創作とでも言うべきようなもので、作品体験を広げてくれます。)

 


◆チノ&マヤ「Sunshine Days」

この曲に表現されているチノとマヤとの関係が、とても微笑ましく思えます。「ほほえま〜」ですね。

特に良かったのが、『パンフ』でのコメント。

チノ役いのりさんは、「マヤに連れてきてもらった世界」が、「キラキラ」していて、この子と友達になってよかった、という気持ちが出ている、というように語っています(p.16)。(私も、うう〜、チノちゃん、本当によかったね、という気持ちになります。)

また、マヤ役そらまるさんは、おとなしいイメージのチノちゃんだけど、「チノちゃんなりに元気に楽しく歌っている」のでほっこりする、というように語っています(同前)。(マヤは無邪気だけれども、なんとなくチノが最近元気で楽しそうだからよかったな、などと思ってそうです。)

なんというか、それぞれ、チノ、マヤがお互いに対して感じているであろうことをとてもよく表現されていて、グッとくるものがあります。チノ・マヤ、かわいすぎるこの二人。



◆メドレー

大変贅沢なメドレーでした。

 

マヤの「わくわくDIARY」から始まりました。これはマヤらしくて、とても良い曲です。(結局、全部良い曲なんですけど・・・)

 

最後は「WELCOME【う・さ!】」のチマメ特別バージョン。

 


◆『chimame march』・キャラソンシリーズ(2016)以前の曲

「ぴょん'sぷりんぷるん」を聴けるとは!
この曲は全体的にとてもかわいいんですが、特に、メグの「なやむよ〜」のところがとてもとても、たいそう可愛くて、毎回聴くたびに、もうどうしたらいいの!となってしまう。(くるくるふさふさのおさげに埋もれて、ふしゅ〜となっているメグのイメージ。)

 

「きらきらエブリデイ」は、じんわりと感動してしまう曲。

 

こうやって、最新アルバムの曲だけに限定しない選曲がまたよかったでございます。

 

ぽっぴんジャンプ♪」も、「ときめきポポロン」も聴けて、大満足です。

 


◆その他

いろいろなサプライズもあって、びっくりしました。タカヒロさりげない・・・。

 

 

◆もう一度じっくり見たい

あまりこういったライブ、特に立つ形式のものには慣れていないというのもあり、また後ろの方で必死で首を伸ばしながら見ていたということもあって、結構疲れてしまいました。

 

うおーーっと盛り上がりたい、という気持ちもあるんですけれども、一方で、チマメの曲は、3人がそれぞれマイペースにゆっくり進んでいる、そういう「マーチ」のイメージでもあるので(木組みの街の時間の流れ方)、じっくり聴きたい・見たいという気持ちもあり、それは、いつか映像化?するのかな?そのときに家でそういう楽しみ方をしよう、と思います。
(はっぴとか一回では勿体無いので、その時は家でも着ようと思います。)

 

また、追加公演があるそうなので、うまくいったら次はもうちょっと前の方に行けるかもしれない。あるいは、二階席?なんかがとれたらいいなあ。

 

 

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