miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄を中心に、私の個人的な雑記等も書き記しております。

萌えアニメの「壁」:『ごちうさ』、『うらら』、『ひなこのーと』

 

アニメ、特に一般に萌えアニメと言われているものが、基本的に、はっきり言えば、私は好きなんですけれども、
ただどのそういうアニメも、たいてい、最初の方は、「ちょっとこれは無理だ」と思ってしまいます。

だけれども、しばらく見ているうちに、その「壁」を乗り越えて、むしろ抜け出せなくなるっくらいハマる事があります。
そこまでいかなくても、なかなか良かったなあ、と思える事が多いです。

ただ、どういうわけか、最初は、ほぼ必ず、何か「壁」というか、乗り越えなければならないものにぶつかるのです。

 

つまり、萌え要素がきつすぎる、と感じるわけです。

 

ここにはおそらく何か、自分でも分析しきれていない、過剰な自意識とか、余計な自尊心のようなものが、関係しているのかもしれませんが、とにかく、
これはいくら何でも「要素」すぎるだろう、というように思ってしまい、ちょっとさすがにキツイ、というように思ってしまうのです。


◆『ごちうさ』の壁

今では考えられない事ですけれども、『ごちうさ』も、最初の第1羽の前半は、初めて見たときは、実はちょっときつかったです。

「うっさぎ〜うっさぎ〜♪ あれ、ウサギがいない!」とか(ココア)、
突然下着姿の女の子がクローゼットから出てくるとか(リゼ)、
「あぁ〜、こういうやつね〜」というように、思ってしまいました。
(チノちゃんについてすら、頭の上にウサギって、可愛い子にカワイイ動物載っけてどうすんだよ!可愛いに決まってるだろ!などと思っていました。)

だけれども『ごちうさ』は、第1羽を見終わる頃には、かなりその「壁」を乗り越えて、むしろ良さそうだな、というように思いましたし、2羽、3羽、と見ていくうちに、そして、最後まで見終わって作品を自分なりに反芻していくうちに、気がつけば後戻りできないほどにハマっていました。

もうこうなってくると、再び第1羽を見返しても、何とも(ネガティブには)思いません。ココアさんは初めからココアさんだったんだなあ〜とか、やっぱりリゼ先輩はかっこいい、などと思うだけです。


◆「萌えアニメの壁」

最初ちょっと、きついな、と思うくらいが、むしろ後からハマる傾向があるのかもしれません。

とにかく、「萌えアニメの壁」とでもいうべきようなものが、大体最初にあるものなのです。


おそらく内心では萌え要素を求めているくせに、萌え要素と思しきものがあまりに生々しく陳列されていると、さすがにこれはちょっと違う、と思ってしまう。単にへそ曲がり、妙な自意識が強いだけ、なのかもしれませんが、とにかくこういう傾向があるのです。
同じような人も、結構いるのではないかと思います。


◆『うらら』、『ひなこのーと

昨シーズンにやっていた『うらら迷路帖』も、実は最初の方は、やっぱりつらいと感じたところがありました(あまりにお腹を出しすぎだ、とか)。でもまあ、だんだんそれも普通に感じられてきて(それが普通に感じられるというのも変なのですけど)、それよりも話の内容や、キャラたちの関係などに馴染んでくると、それが気にかかるようになり、気がつけばそれなりに気に入っている、というような流れでした。


そういうことでいうならば、現在やっている『ひなこのーと』については、ただいま3話まで見ましたが、私はまだ「壁」を越える事ができていません。

演劇の話がもっと出てくると、違うかもしれません。
(第1話の、地元における主人公の「かかし」の話は、何だかかわいそう、というようにしか思えず、少し辛いです。)


◆(付記)『NEW GAME!』は最初から大丈夫だった

おそらく、こういう系統の作品には、もちろん、典型的な萌え要素以外の要素も、当然あるわけですが(なければ、たくさんある諸作品が、別の作品として成立していないはずですからね)、最初は、その典型的な萌え要素の方ばかりに目が行き、それぞれの作品独自の要素にあまり気がつかない、あるいは、心を動かされるほどに味わう余裕がない、ということなのかもしれません。そして、次第にその典型的な要素について把握ができるようになると、少し落ち着いてきて、それ以外の要素はこうであり、これらを追いかけていくとなかなか面白い事に気づく、ということなのかもしれないです。

つまり、
「典型的な〜」と思って最初は見ているが、次第に(その作品に詳しくなるうちに)、それほど「典型的」ではないぞ、と気がつく、という感じでしょうかね。

(ただ、そもそも「典型的」で何が悪いのか、という気はします。あまりに「典型的」なものは受け入れられない、という傾向の背景には、何か若干のスノビズムのようなものが、私などには、あるのかもしれません。)


そのせいか、
NEW GAME!』は、お仕事ものというのが珍しい気がしたので、最初からあまり「壁」を感じませんでした。むしろ逆に、「会社」なんていう設定で、よく、こういうきらら作品的要素を盛り込んだなあ、というように感心して見ていたくらいです。

例えば、会社に泊まりで仕事、なんていう、聞くだけでもいかにも疲れそうな場面を(現代社会の生きづらさ、みたいな言葉が思い浮かびそうな場面を)、きらら的な「お泊まり会」ふうにしてしまうなどというのは、なるほど〜、というように思いました。

日常、非日常:ライブ「Chimame March」(東京公演)感想

ライブから帰ってきて、思いつくままにメモいたします。
(忘れないうちにとりあえず、です。ほかにももっと大事な、言及すべきことがあったと思うのですが、こういうライブみたいな体験というのは、一度にどっとやってくるので、とても印象深かったことでも、あっという間に押し流されてどこかに行ってしまいそうになります。)

 


◆衣装など(マーチの衣装、夏服、ライブTシャツ)

スタンド席で、後ろの方だったので、実際のところあまりよく見えなかった・・・。(指定席がよかったんですけど、席が少なそうで倍率が高いのでは?と思い、やめておいたのです。)

歌を聴きにきたんだから、まあいいか、という気もしますが、一方で、素敵な衣装や、振り付けをよく見たかった。
衣装自体は、登場の時点で高いところから出てこられるので、その時に見ることができたのですけれども。

最初の「マーチ」の衣装は、とても素敵でした。「あ、かわいい・・・」と思わず自然につぶやいてしまいました。アルバム紙ケースのKoi先生描き下ろしイラストで着ているものですね。
フラッグを使った振り付けもあったようなんですが(そしてそれはどうやらとても可愛いような感じがしたのですが)、しっかりと確認できず残念。

あとは、学校の夏服ですね。ぴょんぴょんと跳ねたりしながら踊っている様子は、とても可愛らしかった。

 


チマメ隊「てくてくマーチングマーチ」

今回の『パンフレット』(p.14)で、りえしょんさんが語っていた「てくてくマーチングマーチ」の曲のイメージがとても素敵で、そんな光景が見られたらなあ、と、ライブ前に読みながら妄想していました。

「みんながかわいい衣装を着て、シンデレラが乗っているようなキラッキラの馬車に乗って、お城でこの歌を歌っている…みたいな光景がすごく浮かんできて・・・[以下略]」

 実際には、これとは違ったのですけれども、先に述べたように、学校制服ではなくて、「マーチ」の衣装で、ちょっと普段の日常シーンとは違う特別な雰囲気の演出で、やっぱり素敵でした。

 

この作品の大きな魅力の一つとして、たくさんの素敵な衣装がカラーイラストで見られるということがあると思います。それは、私服でも学校や喫茶店の制服でもない場合が多くあり、たぶん彼女たちの夢の中での姿とか、あるいは空想の中での姿というように捉えることができると思います。

そういえば、今回も、「お菓子な夢をおひとつどうぞ♪」について、チノちゃんが夢の中で快活に振舞っている様子をイメージして歌った、というようなことをいのりさんが仰っていましたが、『ごちうさ』は、日常生活と、夢の中の世界とが、いつも行き来するようなところがあるのかもしれません。「まるで童話の中の街みたい」というココアのセリフがありますが(1巻p.32)、確かに、街(=日常生活)の全体を、童話(=夢、空想)が包んでいる、というようなところがあります。

 

 

◆メグ「すいーと・すきっぷ・すてっぷ」
メグの曲についての皆さんのお話は印象的でした。
たしかにこの曲は、従来のメグ曲ともまた違った、いい曲です。

メグにはいつも、大人への憧れというものが少しある。3人中では一番背が高いし、母親が本編に登場していることからも、なんとなく、メグはどんな大人になるのかな、ということが意識される。
と同時に、そういう大人に向かっていく必然的な時間の流れの中で、みんなといつまで一緒にこうしていられるのだろう、というような気持ちになることもあるのだろう。
そのようなメグの気持ちをうたった歌詞であり、メロディーも、楽しいと同時に少し寂しいような感じのものになっている。
(そらまるさんが、この曲は泣いてしまいそうになる、というように仰っていた。)

 

ちなみに、「ねえDreamin'」の曲(=「ナイショのはなしは夢の中で」、たぶんメグの最初のソロ曲)は、(出演者の)皆さんの間でも人気なんですね。おっとりしたメグらしい曲です。
そういえば、『リスアニ!』の「ごちうさ全曲解説」での、この曲を作った方のインタビューが印象に残っています。曲としてあまり派手ではないのですが、そこに意味があって、メグという子のことをこんなにも掘り下げているとは、と思った記憶があります。

(なお、今さら私などが言うまでもないのですが、この『リスアニ!ごちうさ別冊』はとてもいいので、読まれていない方は、是非、読んでみることをお勧めいたします。ーーそういうブログではないので、またやり方がわからないので、アマゾンへのリンク等は貼りませんが。ーー「ごちうさ音楽」というジャンルの豊かさがわかります。キャラソン等を作った方々のお話は、公式の二次創作とでも言うべきようなもので、作品体験を広げてくれます。)

 


◆チノ&マヤ「Sunshine Days」

この曲に表現されているチノとマヤとの関係が、とても微笑ましく思えます。「ほほえま〜」ですね。

特に良かったのが、『パンフ』でのコメント。

チノ役いのりさんは、「マヤに連れてきてもらった世界」が、「キラキラ」していて、この子と友達になってよかった、という気持ちが出ている、というように語っています(p.16)。(私も、うう〜、チノちゃん、本当によかったね、という気持ちになります。)

また、マヤ役そらまるさんは、おとなしいイメージのチノちゃんだけど、「チノちゃんなりに元気に楽しく歌っている」のでほっこりする、というように語っています(同前)。(マヤは無邪気だけれども、なんとなくチノが最近元気で楽しそうだからよかったな、などと思ってそうです。)

なんというか、それぞれ、チノ、マヤがお互いに対して感じているであろうことをとてもよく表現されていて、グッとくるものがあります。チノ・マヤ、かわいすぎるこの二人。



◆メドレー

大変贅沢なメドレーでした。

 

マヤの「わくわくDIARY」から始まりました。これはマヤらしくて、とても良い曲です。(結局、全部良い曲なんですけど・・・)

 

最後は「WELCOME【う・さ!】」のチマメ特別バージョン。

 


◆『chimame march』・キャラソンシリーズ(2016)以前の曲

「ぴょん'sぷりんぷるん」を聴けるとは!
この曲は全体的にとてもかわいいんですが、特に、メグの「なやむよ〜」のところがとてもとても、たいそう可愛くて、毎回聴くたびに、もうどうしたらいいの!となってしまう。(くるくるふさふさのおさげに埋もれて、ふしゅ〜となっているメグのイメージ。)

 

「きらきらエブリデイ」は、じんわりと感動してしまう曲。

 

こうやって、最新アルバムの曲だけに限定しない選曲がまたよかったでございます。

 

ぽっぴんジャンプ♪」も、「ときめきポポロン」も聴けて、大満足です。

 


◆その他

いろいろなサプライズもあって、びっくりしました。タカヒロさりげない・・・。

 

 

◆もう一度じっくり見たい

あまりこういったライブ、特に立つ形式のものには慣れていないというのもあり、また後ろの方で必死で首を伸ばしながら見ていたということもあって、結構疲れてしまいました。

 

うおーーっと盛り上がりたい、という気持ちもあるんですけれども、一方で、チマメの曲は、3人がそれぞれマイペースにゆっくり進んでいる、そういう「マーチ」のイメージでもあるので(木組みの街の時間の流れ方)、じっくり聴きたい・見たいという気持ちもあり、それは、いつか映像化?するのかな?そのときに家でそういう楽しみ方をしよう、と思います。
(はっぴとか一回では勿体無いので、その時は家でも着ようと思います。)

 

また、追加公演があるそうなので、うまくいったら次はもうちょっと前の方に行けるかもしれない。あるいは、二階席?なんかがとれたらいいなあ。

 

 

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けいおん!・日常系について考える文章を書きました@「桜高新歓7」新刊(2組14番)

けいおん!は優れた日常系作品である──「日常系」とは何かを考える」という文章を、『けいおん!再検証 Vol.2』という本(同人誌)に、載せてもらうことにしました。

 

【詳細】

三浦想「『けいおん!』は優れた日常系である──「日常系」とは何かを考える」

in: アニメ熟考委員会『けいおん!再検証 Vol.2』(http://jukkouiin.hateblo.jp/

けいおん!聖地オンリーイベント 桜高新入生歓迎会!!7じかんめ、2組14番

2017年5月4日(木・祝)、豊郷小学校旧校舎群

 

その文章の内容としては、

 

・「日常系」とは何か──『けいおん!』と、その他のきらら系諸作品(ごちうさ、ひだまり、ゆゆ式幸腹グラフィティ、・・・等)とから考える

・音楽、部活動の位置付け──『ラブライブ!』との比較、「ただの思い出」

 

というようなものになっており、

日常系作品の本質を、何を描いているかということよりも、その価値観という観点から理解しようと試みています。

 

  

◆内容、趣旨について

けいおん!』の同人誌ではありますが、実際のところ、私の文章は、『けいおん!』よりも、『けいおん!』以外の作品への言及のほうが明らかに長くなってしまいました。

 

ですから、『けいおん!』好きの方にしてみれば、『けいおん!』以外の話が長いな、と思うかもしれませんが、それ以外の作品との比較ということで受け取ってもらえればと思います。

 

また逆に、『けいおん!』についてはそれほど興味はないよ、というような方でも、日常系作品全般に興味がおありの方には、それなりに読むところがあるかもしれません。

 

特に、『けいおん!』をはじめとするいわゆる「日常系」作品を、素直に没入して楽しむことをせず、日常系作品ってなんなんだろう、どうして自分はこれにこんなに惹かれるんだろう、なんていうことを、「考え」てしまうような人(私がそうです)には、何かの参考になるのではないかと思います。

 

 

◆(付言)日常系を「考える」ということの奇妙さ

──ただ、一方で、「考える」という仕方は、本来、娯楽作品、特に日常系作品の受容の仕方として、あんまり相応しくないのかもしれない、とも思います。無反省に没入する方がよいのではないかと思います。「本質」について考えたり、それを筋道立てて人に伝えたり、といった活動が、そもそも余計なもので、純粋な感動、感性における受容を、曇らせるものなのではないか、という気がしています。だから、私(たち)のような、こういう受け取り方があんまり好きではないとか、合わないと思う人は多いでしょうし、真っ当であろうと思います。

 

しかしながらそのような「考える」やり方で受容することを、止めようにも止められない人も(私も含め)いるのではないかと思います(別に無理に止める必要もないとは思いますが)。そしてそのような人にとっては、少し参考になるのではないか、と思います。

 

だからついでに言えば、日常系を好きな人は何も考えていない、とかっていう批判は、的外れというか、逆に的に当たりすぎていて批判になっていないというか、そういうことだろうと思うわけです。というのも、人間というのは、四六時中考え事をしていなければならない、などということはないでしょう。仕事のとき、人生の決断のとき(あるいは「間違えずに電車に乗る」なんていうときも)などには、「考え」なければならないでしょうけれども、人間には、思考能力以外の精神的能力、性質も備わっています(感性、美的判断力など)。そして、そちらにも栄養を与えてあげる必要があるわけで、娯楽作品というのは、そういうものではないかと思います。

 

 

◆経緯など

 

話が逸れましたので、元に戻します。

 

さきほど『けいおん!』だけに関心があるわけではない方にも参考になるかもしれない、と申しましたが、考えてみれば、「桜高新歓7じかんめ」ですので、『けいおん!』に関心のない方はいらっしゃらないところだろうとは思います。

 

こちらのサークルさんの前回のけいおん!の本を、私はまったく偶然に手にしたのですが、そこで「けいおん!は日常系なのか否か」といったようなことが論じられていました。

 

そうした議論のなかで、気になることがありました。

それは、「〇〇は単なる日常系ではない」というような言い方によって、『けいおん!』やその他の日常系作品を評価することがときどきある、ということです。これの何が気になるかといえば、単なる日常系では何かいけないのか、そもそも単なる日常系とは何なのか、ということです。

 

そこで私もこの機会に、けいおん、日常系、というテーマで考えをまとめたいと思い、サークルの方に連絡したのでした。

 

なお、私は基本的に『けいおん!』や日常系作品のファンであり、この作品ジャンルについて根本的に批判的なことは書いていません。それは客観的な評論の態度を欠いていると思われるかもしれませんが、それは全くその通りです。それゆえ私の文章は「評論」と名乗るのも少し違うのではないかと思います。ファンによる随想のようなものと言うべきかもしれません(※注)。──先ほども述べたように、こういう仕方での作品の受容もあるのだという程度に受け取っていただければ、と思います。あるいは、私と同じような仕方で受容している方もある程度いるのではないかと思うので、そういう方は楽しめるのではないかと思っております。

 

(※注 通常は二次創作などで表現するようなことを、文章で説明してしまっている、と思っていただいてもいいと思います。)

 

(・・・ですので、本自体は「評論」ジャンルになると思いますが、私の文章は評論と呼べるようなものではなく、単なる随想のようなものです、ということです。)

 

 

 

「人間らしさ」の称揚、動物キャラ化幻想の限界:『けものフレンズ』感想

(※以下は、この作品をすっかり気に入って、心から愛しているような人の文章ではないですので、この作品が大好きな方は、少し気を悪くされるかもしれません。また、私の理解不足も多いと思います。とはいえ、もちろん何か悪口のようなことを書くことが目的ではありません。) 

 

◆「にんげんっていいな」、技術、啓蒙主義(11話までを見たときの記述)

よくわかっていないながらも録画はしていて、数話溜まってから見ようと思っていたところ、どうやらこれが大変流行っていると知りました(あんまりそうした流行に疎いので、しばらくしてから)。

 

こうなってくると、へそ曲がりな私は、逆に、決して見るもんか、思うようになりました。

・・・でもやっぱり見たいから、

最終回まで終わって、皆がこれを忘れかけてきた頃、完全にネタバレした上で、客観的に見てやるんだ、と、謎の決意をしたのでした。

・・・決意したのでしたが、なんだかどうしても気になって、やっぱりつい見てしまいました。

 『うらら迷路帖』も終わってしまい(あ、もう最終回だ、というような最終回でした。いや、これこそ日常・きららの本来のあり方なのかも知れません)、まだもう少し何か見たい、と思っていたある夜、つい再生してしまいました。

  

結局、11話まで続けて見てしまったのですけれども、

なるほど、確かに面白い、素晴らしい、よく作られている、とは思いました。

 

これは、大変前向きで、建設的で、「プロジェクトX」のような、「技術」を賞賛し、人々を鼓舞するような、そういう作品だと思いました。人間が自らつくった「にんげんっていいな」というすごい歌詞の歌を思い出しました。

 

ですので、この作品に引き込まれ、鼓舞され、感動する人たちは、立派な人たちで、まっとうな、常識的な、健全な、近代的市民なのであろうと思います。こうした作品が流行るということは、そういう点で、安心できます。その意味で、こういうものが流行っているのは、いい事だ、助かる、という気がします。

(今後もしばらくは、橋が急に落下したりということが起きないで済みそうです。)

 

自然科学のドキュメンタリーとか、(自然科学系の)ノーベル賞の話に興奮したり、瀬戸大橋をかけるプロジェクトの裏に秘められたすごい技術の話などに惹かれるような人たちは、これが好きだろうな、と思いました。

 

人間って、頭いいね、賢いね、技術があるね。

 

まさに「にんげんっていいな」なのです。それを動物に言わせる、という仕組みです。

人間の人間らしさが発揮されてフレンズたちが喜ぶ、フレンズたち自身もみずから得た人間らしさについて戸惑いながら喜ぶ(料理がおいしいとか)、というような場面が多く、しきりに「人間らしさ」というものが強調される作品です。

 

そして確かに、「人間らしさ」というものは、現代でもやっぱりある、またあってよい、と私も信じていますが、・・・問題はその「人間らしさ」の内実を何に置くか、ということです。

 

その人間らしさの内実は、本作では基本的に、「技術」に限られている(ように見える・・・このあたりも、私の本作への思い入れが薄いせいかもしれませんが)。

 

人間の本質が、あらゆるものの存在が、「技術」に見出されています。
 

技術の問題を技術で乗り越えようとする、ひたすらな、永久機関的あこがれに裏打ちされた「前向きさ」が、ひしひしと感じられます。

 

・・・そして、こうしたことのすべてに、私自身は、特別に何か心を動かされるということはないのでした。すごく純粋に「建設的」であるなあ、と距離をおきながら、感心するばかりでした。(荒廃しているような舞台は、「建設」のためのよい背景となります。──繰り返しますが、「荒廃」の役割についても、私の見方が浅い可能性はあります。)

 

(・・・と言っても現実の私は、過度に技術的な、人工的な生き方をしていると思います(多分平均よりはるかにそうだと思います)。人工物がないと不安です。完全にそういう人です。といって、ここに永遠の安らぎを見出せているかと言えば全くそうでもなく、結局は、どこにも落ち着きどころがない訳です。「どこへでも此[この]世界の外へ」という言葉そのもので、典型的な「故郷喪失者」です。──だから、せめて娯楽の中では、もう少し違うものが見たい、という気がします。・・・そういえば、かばんちゃんの「故郷」はどんなところなんだろう。それを見たらまた感想が変わるかもしれない。)

 

一種が一フレンズ、という、大まかな原則というのも、まさしく百科全書的で、啓蒙主義的です。(そもそもジャパリパークのような「動物園」というものが、そのようなものです。動物園=生ける標本を展示する博物館 〜博物学・誌[自然誌・史]  〜典型的に啓蒙主義的なもの)

 

こうした価値観を11回まで称揚しつつ、最後にそれをひっくり返すという、大きな皮肉なのだろうかとも思ってみていましたが、たぶんそんなひねくれたものではないでしょう。


 

◆(追記)12話を見て。

 

もちろん、感動しました。

(もう、そういうやせ我慢はしないことにしています。)

 

それから、そういえば、木登りを教えてもらったりというのは、最終回で目立ってましたが、そのような、人間が動物化するという方向(動物の人間化だけではなく)は、それ以前にもありましたね。

それほど単純ではなかったみたいです。

 

 

◆「人間が動物を見る仕方」をそのまま表現しているとも言える


また、動物とお話ししたい、とか、動物の行動を人間のそれに見立てて面白がるとか、そういったことは昔からよくあることではある。だいたい私は、猫とか犬とかうさぎとか、そういう動物が可愛くて好きだけれども、たぶん勝手にそこに人間的なものを見出して可愛がっているだけだろうと思う。人間的なものを見出せなくなると、可愛くなくなり、むしろ気持ち悪くなる。虫とか爬虫類は基本的に私は苦手である。

 

動物園でも、「クマ」の檻の前で、くまさんかわいい〜と思ってぼんやり眺めていると、ある瞬間、ちょっと立ち上がったりして、あれ、クマ、さん・・・、けっこう大きいな、これにやられたらひとたまりもないな・・・、というようなことを思い出して、「キャラ化」フィルターの限界がときどき露呈することがある。と思ったら、また寝床でゴロンとしたりして、あ、やっぱりクマさんかわいい〜と、キャラ化ファンタジー気分に戻ったりする。

 

深読みすれば、動物園でのキャラ化幻想の途切れかける瞬間に、セルリアン関係の危機の場面は似ている。あれは不気味であるし、かわいくない。またあれに食われるとただの動物に戻る(らしい)。

 

こうした動物園などで動物を見るときの、キャラ化フィルターというべきものは現実にもあるが、フレンズ(化)とは、これをそのまま表現しているものと見ることもできる。

 

なんにせよ(私自身が、熱心に見ている人たちに比べるとそれほどでもないということもあり)、わからないことが多すぎて、何かはっきりとした感想を持つことも難しい状態ではあります。

 

また、12話のああいう話は、やっぱり感動してしまいます。
 

 

「ときめきポポロン」の感動:ごちうさステージ@AJ2017での体験から

「アニメジャパン2017」で、ごちうさステージを観覧してまいりました。

  

今回、私の時間の見通しがいろいろ甘かったせいで、ステージ観覧に遅れて入ってしまいました。

 

すると、いのりさんが、遅れて入ってきたチノちゃんがすごく気になるんだけど、と仰りました。(その日私はチノちゃんになってました。)

 

チノちゃーん、などと、皆さん(そらまるさん、りえしょんさん)が呼びかけてくださり、

またいのりさんは、おじいちゃんここにいるよー、とも仰りました。なんと可愛らしい。

 

ですけれどもこのときは、

遅れて入って話を中断させてしまって申し訳ない、という気持ちと、

話しかけてもらえて嬉しい、という気持ち、

だけれども急のことで気が動転してドキドキしてしまう状態、

というのとが、ごちゃごちゃに混ざり合って、

ぼんやりと、話が頭に入ってこなくなりました。

そうこうするうち、あ、もう終わってしまう、と思っていたら、

なんとここで「歌う」というサプライズがあり、また気が動転、

ポポロンパーカーが登場し、私はBDでしか見たことのないこの場面が、ついに目の前で見られるという事態が急に生じて、ちょっとしばらく現実を受け止めきれなかったのでした。

(まだ頭がぼんやりしていたせいか、自分もポポロンパーカーを着てくればよかった、という、よくわからない、関係のないことを考えたりしました。)

 

 

◆「ときめきポポロン」がついに目の前で

そらまるさんのイベント「青空ナイト」では、同曲をそらまるさん単独で歌っているのを聴けて、感激しておりました。

それは、マヤバージョン(シングルに収録)ではなくて、3人バージョンだったのでした(記憶)。つまり、メグ、チノの、合いの手というか、セリフが、音声で入っていた[ように聞こえた]のでした(例:メグの「くるくるりん♪」)。

それで何が言いたいかというと、この歌はあえて3人バージョンで、というところに、本当は3人で歌いたいという意志のようなものを、勝手ながら推測したのでした。

それで私も、いつかそれを聴ける機会があればいいなあ、と思っていたら、今回の、全く思わぬサプライズが生じたのでした。

 

あんまりネットなどの情報収集なんかをしていないのであれなんですが、これって、皆さん予測ついていたんでしょうか。私は、ラジオ、とあるし、これは歌わないという意味だろうと、結構、普通に思っていましたので、本当にサプライズでした。(昨年のきんモザ、ゆゆ式のステージでは歌はありませんでした。)

 

ともかく、BD(『Tea Party』)で感涙にむせびながら見たあの光景が、ここで!!というのは、インパクトが大きすぎました。

 

でも、ここからが戦いでした。我慢大会とはこのことだ、と。

ついさっきメイクしたばかりの状態で、泣くわけにはいかなかったのです。

まだ、化粧を直すという技術が身についていない。(まずはメイクを「する」技術を身につける方が優先だと思い、まだなのでした。私はマニュアル人間なので、「自分マニュアル」にないことに対応できないのです。)

 

崩れたら一からやらないといけない。

一からやっていたら、アニメジャパンが終わってしまう。

 

というわけで、泣くわけにいかない。

 

しかしながら、私は──また、私と同じような方もいるかと思いますが──、「ときめきポポロン」は、ほんとうに、泣かずにいられない曲なのです。悲しいからではありません。

 

アニメのEDで流れたとき、感涙を抑えきれませんでした。

あのチノちゃんが、お友達と一緒に、元気に踊っている!!・・・という感動です。

(恥ずかしいです、運動は苦手です、踊ったりしません、とかって言いそうなのに!)

この二人と仲良くなって、本当によかったね、チノちゃん、という感動があふれてしまいました。

 

ただでさえこうなのに、その上、歌詞が。

この子たちのみずみずしい世界を見る目が、とても透き通っていて、感動してしまいます。

 

そういう歌だったので、これを、チマメのポポロンパーカーで、声優さんお三方が歌っているのをBDで見たときは、この場にいられたらどんなによかったか、と思ったものでした。

 

それが、なんと今日。この大好きな歌が、なんと目の前で。

 

なんとか涙が出ずに済みましたが、なるほど、心の中でだけ泣くっていうことは、頑張ったらできるんだと、気がつきました(今度、映画館とか、電車の中でとか、そういう必要が生じたら、今回の技術を応用しよう)。・・・とはいえ、かなり頑張りました。

 

サプライズということもあって、座ってしっとりと聞くことができて、それも大変よかったです。

 

 

また、さらに「チマメマーチ」のライブがあるというサプライズが追加されました。

こちらも大変楽しみですが、果たして予定が合うのかどうか、チケットは入手できるだろうか、ということが早速気になりました。

 

 

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化粧から垣間見る世界の半分:『ハチクロ』山田さんを思い出して

化粧をする。だけれどもそれは、1日、半日、数時間で落としてしまう。

 

数時間後にはすっかり消してしまわなければならない絵を、毎日のように描く。これが、化粧をして生きるという事である。

[今日はアイラインがうまく引けた!とかって思っても、その成功を保存しておいてまた使う、という事はできない。もちろん技術としては蓄積されるかもしれないが、肌の状態やその他の条件で、最適なメイクは変わっていくだろう。いずれにしても「全く同じ」メイクは、二度と再現できない。]

 

従来、一般に女性がする事、とされてきた事柄というのは、こういう事が多いような気がする。──断っておくと、女性の役割とはこうだとか、そういう事を言いたいわけでは全くないし、そこにある様々な問題を無視したいわけではない。ただ事実として(一昔前までの事に過ぎないかもしれないが、いずれにしてもある時期まで)、女性はある一定の活動をする傾向が多かったかもしれず、その要因はいろいろあり、そこには問題があるかもしれないが、ともかく事実としてはそうだったかもしれない、そしてそれに対応して、ある種の生き方や人生観、または文化のようなものが生み出されてきたのではないか、ということを言いたいだけである。

 

母親がよく言っていた言葉を思い出す。洗っても洗っても、また汚いお皿が増える。やってもまた元に戻る事の繰り返しだ。──家事というのは、確かにそういう営みだ。料理というのも、そのようなところがある。食べたらあっという間に消えてしまう。もちろんだからと言って、無意味ではない。すぐ消えてしまうはかないものだが、無意味ではないものが、この世にはたくさんある。

 

なんというか、そういうことに多く従事するという事は、人生観や生き方、あるいは文化のようなものに、大きな影響を与えるだろうと思う。一つ一つ崩れないレンガのようなものを積み上げていって、何か巨大な「体系」=「大伽藍」のようなものを構築しようとする、それを生涯の仕事にする、というような生き方とは全く違う人生観、文化が、そこにはあるだろうと思う。どちらの生き方が優れているとかいないとかを言いたいわけではない。むしろ、どちらかといえば、「大伽藍」方式の生き方で見落とされてきた大切なものも多いんじゃないかと思う。

 

 

ハチクロ』の「山田さん」の事を思い出す。

みんなで花火に行くという事で、山田さんという女の子は、友達(はぐちゃん)と、親戚のおばさんのところに浴衣を借りに行く。こういう柄がいいんじゃないかとか、こういう着方をしたほうがいいとか、こんな髪型にしようとか、何時間もかけて、あれこれ悩んで、考えて、工夫して、浴衣を着る。そしてようやく夕方になって、仲間たちと、花火大会に行く。

そこへ、真山という男が、仕事か何かで、少し遅れて、花火大会にやってくる。山田さんは、真山の事が好きで、それは片思いである。到着した真山は、山田さんを見て、ほんの一言、こういう。「山田 ユカタ似合うな」と。──真山としては、どれくらい深い意味でこう言っているかわからない。軽い挨拶のようなことで言っているだけかもしれない。山田さんの気持ちを知っているから、気を遣って言っているのかもしれないし、恋愛感情ではなく山田さんの事は大切だと別の場面で彼は言っているので、そういう気持ちの表現かもしれない。どういう心理がそこにあるのかわからないが、ともかく、一言、到着後の挨拶のように、真山はそう言う。そして、山田さんの浴衣について、真山はそれ以上、特に何も話さない。花火を見上げているばかりである。

 

そして山田さんは、心の中で、こう言う。

 

「そのたったひと言がききたくて/ 髪を結って キモノを選んで 大さわぎして着付けして 慣れない下駄を履いて ………」

羽海野チカハチミツとクローバー』4巻, 集英社, 2003, 74頁.)

 

浴衣を選んで、あれこれ悩んで、髪型を考えて・・・、あれもこれも、すべて、この一言のため、たったこの一言のためなんだ、と。

 

 

ここから読み取れることがある。(この作品自体の趣旨、意図とは少し外れるかもしれないが。)

 

真山は、山田さんが、あれこれ悩んで、着付けをしてもらって、(直接見えない)下着はこういうのにしたほうがいいとか、そういう細かい工夫、努力、思案の事を、ほぼ何も知らない。知る事はない。そして、今後もおそらく永久に知らないままだろう。

 

もちろん真山だって、何も知らないわけじゃないだろうが、どういう詳細な努力があったかは、やはり知らないままである。

 

とはいえ、もちろん、山田さんも、真山に、こういう努力の詳細を知ってほしいわけじゃない。むしろ逆に、知って欲しくないだろう。あたかもナチュラルに、そこに、その可愛い姿で、初めから存在していたかのように、見てほしいだろうと思う。

 

ただ、ここに決定的なズレがある。男と女との間にあるズレ、大げさに言えば、世界の半分がすっぽり見えていないというような事態が、ここにある。

 

 

ごちうさ寝そべりぬいぐるみ

ごちうさ寝そべりぬいぐるみ。

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かわいいです。

結局、ぜんぶ揃ってしまいました。

 

いろいろ遊べます、楽しいです。

 

けっこうよくできてます。

ごちうさグッズならなんでもというようなひいき目もあるかもしれませんが、それにしても)

 

 

シャロちゃんだけ、ちょっと違和感があるかな。おかっぱ風になってしまっている。

くせっ毛の表現が難しかったのでしょう。 

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ポポロンパーカー高校生組の構図。

リゼが押しつぶされそうになってます。 

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三姉妹。ジャケット絵でもこういう組み合わせがありました。

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モカさん「この子たちも、私へのプレゼントかな?」

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モカさんにもふもふされるリゼ。「や、やめろ~~」

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ココアさんの髪飾り、花びらが半分なのが正式なのではないかとも思いますけど、いいんです。メグメグまるのリボンも、本当はシュシュではないだろうか、とも思うけど、そういう細かいところはいいのです。(今日はちょっと違うおしゃれをしているのです。)

  

よいです、かわいいです。

テレビの横とか、そんなようなところに、コロコロと積み重ねておいておきたいですね。