ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄、随想的なものを載せています。またここは評論・随想サークル「ロマン主義アニメ研究会」のHPでもあり、たまに告知等も載せます。

作者・読者のきらら化──『きらりブックス迷走中』、『こみっくがーるず』

 『きららMAX』連載中の『きらりブックス迷走中』、『こみっくがーるず』が、面白いです。

 

○『きらりブックス迷走中』

  気がつけばあっという間に最後まで読んでしまうようなテンポというか勢いというか、そういう笑いの連続な作品なのだが、特にここで言及したいのは、『きらり』系作品にどハマりしているJKきらりんが主人公のお話だということ。要するにきらら読者を描いたものと言ってよい。

 「積みきらり」とか、連載とコミックスとの違いを発見する楽しみとか、『きらら』読者あるある的な面白さがある。また、作中作たる「ゆるふわ革命」を読んでみたくなる(でも、どうやらこの世界ではあんまり一般には人気があるというわけではなさそうだが)。

 

 ここで言えることは、きらら読者は、きらら漫画の中だけでなく、それを読んでいる自分自身もまた、(少なくとも読んでいる間だけは)きらら系の人でありたい、というような気持ちを持っているのではないかということである。私自身、そういうふしがある。

 

 日常系作品は、少なくともそれを楽しんでいるひとときだけは、その理想的な日常の中に自分も入っていきたい。そしてその時、リアルな(薄汚れた)自分の姿で入っていきたくない。そんなことをして、きらら的日常のきらきらした日常世界をぶち壊しにしたくない。きちんと「きらら化」していたい。きららJK、あるいは彼女たちを見守る大人の役でもいいけれども、きちんとその「きらら的秩序」に整合的な仕方で、入っていきたい。

 

 その点、『きらりブックス迷走中』は、登場する『きらり』読者が、まさにきらきらとした、きららJKであることによって、こうした気持ちに応えてくれている。特に雑誌で、本作と合わせて他の作品を読み進めていくと、『きらら』作品を読んでいる当の薄汚れた自分などというものを思い出さずに、あたかもJKきらりんになったつもりで、他の作品も含めて雑誌を読み進めることができる。

 

 

○『こみっくがーるず』

 

 こういうことでいうならば、『こみっくがーるず』もまた、似たようなところがある。漫画家が主に登場するお話であるが、その中には、かおすちゃんという萌え4コマ作家も登場する。背が小さく、可愛い。

 確かに、自分が好きな可愛い作品の、作者さん自身もまたどうやら可愛いらしい、というようなことが判明したりすると、いっそうその作品の可愛さに説得力が増す、ということは、ときどきある。そういう意味では、この作品は、かわいい萌え4コマの、作者さん自身も可愛かったらいいなあ、というような気持ちに、やはり応えてくれる。

 

 実際、私は個人的には、あまり、萌え4コマ作家の素顔とか、生々しい実生活とかを、あんまり知りたいという気がしない。好きな作品を生み出してくれているのだから、応援したいとは思うけれども。──そこで、「芳文社」に対する憧れを、冗談の一環として口にする人たちがいるけれども、実際の所、芳文社は、せいぜい電車から社屋の看板を眺める程度で十分であって(それはちょっと嬉しいが)、社内の様子などを見たいとは思わない(向こうも見せたくないだろうが)。

 

 

○きらら化願望

 

 要するに、これらの二つの作品は、作者~漫画~読者、の、このすべてが可愛いものであってほしくて、一切が、きらら化していてほしい、というような願望に、応えてくれるのである(※)。

 

 きらら作品におけるこういう自己言及は、きらら作品の内部と外部との分断、とりわけ、理想的きらら系日常世界と、その外部に位置するはずの読者・作者との分断を、和らげてくれる。

 

 それというのも、日常系作品は、日常が描かれるのであって──とはいえ、その日常はリアルな日常というよりもある種の理想的な日常であるが──、ともすると作品の外部にある日常(普通の意味での日常、薄汚れている場合もある)との対比が、容易になされがちである。したがって、日常系作品は、作品世界の日常がキラキラとしていればいるほど、通常の日常との断絶が目立ってしまう、という問題を抱えているのである。──もっとも、前者のキラキラ度合いが強すぎて、もう、後者との断絶がどうのこうのといったようなことは飛んでいってしまう、というようなことはまたあり得る。そういう力強さが作品にあるか、あるいは、自己言及的な要素を取り入れるか、といったような仕方で、日常系作品は、分断を和らげる仕組みを必要とする。

 

 ちなみに『ごちうさ』などは、舞台設定そのものの特殊性が、おそらく、内部と外部との即座の比較を防いでいる。ココアが「童話の中の街みたい」(第1巻)と発言している通りである。

 

 ※こうしたある種のケッペキ症的な願望に対する批判はいくらでもあり得るだろう。とはいえ、たいていの場合、批判というのは、批判対象を極端に戯画化した上でなされる場合が多い。要するに、気合の入ったきらら読者といえども、24時間365日ケッペキ症的妄想に浸っているわけではなく、むしろほんのひと時の楽しみとして大事にしているだけの場合がほとんどであろう。

 

 

チノちゃんが好きというより、チノちゃんになる:ごちうさ「男の娘」もの二次創作から考えたこと

 ごちうさに「男の娘」ものの二次創作があるのは、ある意味で、必然的である。

 

 そもそも、女の子しか出てこないアニメ、漫画、とりわけきらら系作品というものは、もちろん性別関係なく、誰でも楽しめるものであるけれども、しかし基本的には、青年向け、とされるように、どちらかというと、もともとは男性向けである。

 

 もちろん、小・中学生の男女なども、特にごちうさなどは、再放送の影響もあって、ファンが多いようではある。ごちうさがらみの展示会などで、小学生くらいの女の子が母親と訪れて、チノちゃんのタペストリーを買っている様子などを見かけた(あんまりじっくり観察していると不審者になりかねないですけど。こういう客層がいるのだと思って驚いて、つい観察してしまいました。多数派ではないのだろうけれども、時々こういう人たちも見かけます)。

 

 とはいえ、一般的には、チノちゃん・ココアさんたちとは、ちょうど対照的な、つまり、もう少し年齢が上で、しかも、性別が逆の人たちが、一応、読者として、まず想定されていることであろう。(イベントBDなどで時々映る客席の様子、また、客席からあがる歓声の声質などを想起すればよい)

 

 さて、こういう、女の子しか出てこない作品に対して、しかし、主要な受け手たる成人男性というのは、どのような態度で、これらの作品を、見ているのであろうか。

 

 ハーレム的なアニメ、冴えない男性主人公(しかし、平凡なのに、ここぞという時に力を発揮して、女の子から感謝されるというような都合の良い妄想を具現化したような)が登場し、その視点で進んでいくものと違い、こうした女の子だけの作品というのは、日常系作品と言われるものを中心に増えつつあるが、これに対する見方・視点は、もちろん様々あり得る。

 男性主人公がいれば、非常にわかりやすい。間違いなく、自分とよく似たその「彼」の視点に立って見るのがもっともスムーズである。それ以外の視点を取ることのできる人もいるであろうが、それはけっこう高度なテクニックを要するだろう。

 

 では、女の子だけの作品、特に『ごちうさ』などの日常系・きらら系作品を、成人男性が楽しむ場合の見方として、どのようなものが考えられるであろうか。

 

(1)一つは、「見守る」というような態度。 ~強いて言えば、ティッピーの視点に立つような。 ~『ごちうさ』を好む人との会話で、ティッピーの気持ちになって微笑ましく見守る気持ちで見ている、というような意見は聞いたことがある。 cf.『メガミマガジン』2017/1月号付録小冊子。

 

(2)本編にいないはずの「お兄さん」になって、見ている。 ~二次創作ではこのタイプは見かけられる。また目覚まし時計とか、アラームアプリなどでは「お兄ちゃん」と呼びかけている(お姉ちゃんではなく)が、それはこうした見方を想定したものであろう。本編そのものより、その外側で、「男」として、この子たちにいつの日か会えるはずだ、という妄想を楽しむタイプ。 ~あるいは今はこの子たちの世界の中に「男」はいないけれど(ティッピー、タカヒロといった「見守る」家族を除いて)、いずれそこに、特別な男性登場人物として、入ることができるはずだ、という妄想。 ~あるいは、ずっと発言していないけれども、実はずっと、そばに自分のような男性登場人物がいる、というような見方を、無自覚的にもせよ、している場合もあるかもしれない。 ──こうしたタイプの見方も、かなりの多数派を占めるであろう。実際、上記(1)や、下記の(3)の見方をしていると自覚している人でも、男性であれば、同時にこの(2)の視点を完全に払拭しきれていない場合が多いのではないだろうか。

 

(3)第三に、登場人物は女の子であるが、しかし、その女の子の登場人物の気持ちになりきって見てしまう、という見方。 ──上述の女子小学生ファンの場合、基本的にこの見方であろうが、今論じているのは、男性視聴者の見方の分類である。そして、男性視聴者の見方においても、こうした見方をしている人も、それなりの数がいるのではないかと推察されるのである。

 

 このことを考えるにあたって、少し話はそれるが、次のような事例を考えてみよう。

 いわゆる「女児向けアニメ」を好む一群の成人男性というものが存在するが、彼らのなかは、いわゆるロリコンというものを通り越して、むしろ「女児になりたい」という志向をもった人たちが多数いるように思われる。──いや、いわゆるロリコンも、そういう要素はあるのかもしれないが(ロリコンは未成熟の証拠だ、などと批判的に言われるのは、こういう側面があるからだろう)、しかしやはりいわゆるロリコンというのは、自分自身はあくまでも女児になるわけではなく、現状のまま(成人男性のまま)、ロリっ子たちとあんなことやこんなことをしたい、という妄想を抱くタイプが多いのではないであろうか(よく「犯罪的」などと言われるのはこういうタイプだろう。もちろん妄想するだけならば「犯罪」ではないが)。

 

 しかしそうではなく、自分自身が女児にになりたい、それどころか、気持ちの上ではもう、女児である、というようなタイプの楽しみ方。こういう楽しみ方も、結構あるような気がする。女児願望。──こうなるともはや、いわゆるロリコンというものにつきまとうネガティブなイメージは、あまり関係がなくなる(犯罪的、などの)。自分が女児になりたいのだから、女児に変なことをしたいなどという願望はない。むしろ逆で、もはや「自分が」女児なのだから、変なことなど「され」たくない。

 

 ちなみに、だからこっちのタイプの方が「健全」だ、と言いたいわけではなく、むしろどちらかといえば、年齢も性別もちょうど逆の人が女児になりきる妄想を抱くよりも、単なるロリコンの方が、よっぽど「健全」かもしれない(単に「比較的に」という意味に過ぎないけれども)。しかしながら、これ以上は話が広がるので控えるけれども、そもそも「健全さ」というもの自体が、大きな問題を抱えた概念であると私は思うので、別に多少「不健全」で結構ではないか、と私は思う。

  

 これと同じように、『ごちうさ』等の作品の楽しみ方においても、チノちゃんになりたい、ココアさんになりたい、むしろ、もうなっている(つもりである)というような楽しみ方というのも、かなり多数派を占める楽しみ方なのではないであろうか。

 

 例えば、チノちゃんが好きだという人と会話をしていて、「・・・でも他のキャラもみんなよくて、で、結局、ココアさんって、すごくいいんですよね~」みたいな話になることが、結構ある気がするが、要するにこういう人は、チノちゃん「が好き」というより、もう半分チノちゃん「になっている」のだろうと思う。

  

 要するに、男でも、女の子になりたいことだってあるのです。そういう願望は、人によるかもしれないが、それなりにあるわけです。

 

 これには、男としてのアイデンティティの維持に伴う抑圧、疲弊といったものが、背後にある。「男らしい状態」というのは、常に必死で維持しなければすぐに「萎えて」しまう訳だが、このことに象徴的に現れているように、男らしさというのは、それなりに無理のある要求である。

 そもそもアイデンティティを維持するということは、そのアイデンティティを脅かす「他者」(自己の中の、そして他の人間の中の)の抑圧と表裏一体である(『アイデンティティ\差異』)。──だから、男らしさを脅かすような言説は、人によっては「気持ちが悪い」。「男の娘」的なものは、人によっては嫌悪感を呼び起こす。気持ち悪い、見たくない、嫌悪感、といったような感情を引き起こすもののは、たいてい、その人が必死で抑圧しようとしている「他者」である。

 

 こうした抑圧に伴う無理、疲労、といったものに対して、女の子になってもいいんだよ、女の子の視点で、楽しんでいいんだよ、というような、女の子だけの日常系作品というものは、癒しになるのだろう。

 

 もっとも、これは、積極的に女の子になるというよりも、男らしさを「否定する」(男らしさという重荷をおろす)という、消極的・否定的な側面が強いから、女の子としての積極的な側面については、あまり強調されていない場合も多いであろう(女の子の登場人物が、生理現象で苦しむ場面などは、見かけることがない。その他様々な、男らしさとは逆に「女らしさ」を求められることに伴う苦しみなどは、一般に描かれない)。 ・・・そのような意味で言えば、文字どおり女の子になりきる、というのとも、また、厳密に言えば少し違う。

 

 言うなれば、女の子でも男の子でもない、そういった、「~~らしさ」といったことを求められない世界が、欲しいのではないであろうか(このことは、先ほどの「健全さ」の要求の問題と通じるものがある)。

 

 このように、「女の子」(かなりファンタジックに彩られたそれではあるが)になりたい、特に、「男らしさ」を捨ててそうなりたい、というような願望に対応してくれるということが、こうした女の子だけの作品の楽しみ方の一つとして、あると思う。

 

 そして「男の娘」というものは、男であるが、男らしさはない(同時に、女であることの面倒な側面も引き受けない)という点で、このような願望に合致している。だから、『ごちうさ』などの女の子だけのアニメというものが、「男の娘」願望と親和的であるのは、根本的な理由があると思う。

 

 ただし、「男の娘もの」創作物として積極的に物語を展開しようとすると、「結局のところ中身は男性である」ということを性的興奮の要素を取り入れることになり、したがって最終的には、普通の意味での男性登場人物「お兄さん」が紛れ込んで登場するタイプ(2)の物語とあまり変わらない内容に移行してしまうであろうけれども。

 

C91アイドルアニメ同人感想(2)シンデレラガールズ

 

■「あんきら」二次創作

 

 「ラブライブ!」シリーズがけっこう楽しめるのなら、「シンデレラガールズ」というのも良いのではなかろうか、と、ほとんど何の予備知識も持たずに、なんとなく見た『シンデレラガールズ』のアニメでしたが、

 

 第18話で、杏・きらりの「膝枕」のシーン、特に2度目(杏の膝に、大きなきらりが頭を乗せる)を見たとき、これは非常に良さそうな、ピンとくるものを感じ、心に残りました。後日ネット検索をすると、案の定、とても好まれている組み合わせで、二次創作が盛り上がっているということを知りました。

 

 そこでこの二人をもっと掘り下げて知りたい・見てみたい、という思いが強まり、今回、試みに、数冊あんきらものを入手してみましたところ、本当にどれもこれも素晴らしく、非常に楽しませていただくことができました。感動するようなものも多数ありました。

 

 こうやって、あんまりよく知らなかったものを試みに読んでみるとたいそう良かった、というような経験ができるのも、コミケの良いところですね。

 

 このたび心に残った作品、ほんの一例、全く主観的な一例ですが:

 

Poppy Seed『Sweetie!』 ~ほんとうに、この二人は可愛らしい。並んで歩いているところなど。

 

asaba-Kan『Cinderella Collection: AN*KIRA ASSORTMENT』(総集編) ~深い。杏ちゃん目線できらりんを見ているお話、と思いきや、最終的に、杏ちゃんがきらりを通じて、杏ちゃん自身のことを知る、というような構図になっている。最初はそうでもなかったのに、次第にきらりが神秘的な存在にすら見えてくる。

──この本そのものと外れるかもしれませんが、きらりのあの大きさと雰囲気というのは、その文字通りの身長の大きさというだけにとどまらない、なんというか、神秘的なものがあります。

 

橘あゆん『ぜんぶ雪のせいだ』 ~全体としてコミカルな雰囲気の中、随所に見られる二人の関係の、独特の微笑ましさ。

 

julio『Dreaming Labyrinth』 ~独特の雰囲気。甘く優しいように見えて、ドキリとさせられました。二人の関係の深いところにあるものが見えるような気がしました。

 

 

 以上、このジャンルに関しては、今回初めて、しかも、なんとなく(表紙などから)自分が好きそうなものを幾つか選んだだけなので、きっと、過去にも、また今回見落としているものの中にも、優れた作品がたくさんあるのだろうと思います。

 

C91アイドルアニメ同人感想(1)ラブライブ

 

 私はそもそも、アイドルアニメというものを長らく敬遠してきて、最近ようやく、その面白さが少しわかってきた、というくらいなのですが。

 アイドルアニメは、日常系作品と違って、ある目標に向かってぽんぽんとストーリーを進めていかないといけないので、もう少しこの子たちの気持ちを丁寧に描いて欲しかった、というような欲求不満が残りがちな気がしますので、二次創作でその辺りを補いたいと思い、最近少しずつこのジャンルも探求しつつあります。

 (というより結局、私は、アイドルアニメを見ていながらも、アイドルアニメの本質的な部分よりも、その中にある日常系作品的な要素を求めているだけなのかもしれませんが。・・・ラブライブシンデレラガールズも、「ストーリー」読みたさに、ゲームを始めました。)

 

 このたび出会った、心に残った作品について、感想を記しておきます。

 

 

 

開花宣言『シスターと天使』[ラブライブ!

 

ことり・うみ。

 

絵が柔らかく、温かい気持ちになる。と、同時に少し悲しい気持ちにもなる。

本の装丁や形状も、こだわって、考えられて作られている。

 

かなり独特の世界観。

隠喩、象徴的な表現が多く取り入れられている。

作品全体が、何かの象徴のようでもある。

 

しかしながら、むしろこうした象徴的表現を通じてこそ、ことりちゃんという子の本質が見えてくる(私はことりちゃんが好きです)。

 

アイドル=天使。

そして特に、ことりちゃんが天使。

 

──「ことりちゃん天使」、とか、比喩ともなんとも意識せずに、しょっちゅう使うような言葉になっていますけど(それでその意味がずいぶん希釈されてきてしまっている気もしますけど)、

これを比喩として、象徴として、きちんと掘り下げて、作品にしたら、こうなる、という感じがしました。

 

(だいたい、「表現」というのは、使われていけばいくほど、意味が軽く、薄くなっていくものですね。だから「そういう言葉は滅多に口にするものではない」などというような迷信のようなものは、事実としても当てはまると思います。)

 

──なお、「象徴的表現」というのも、読んだ私の勝手な解釈であって、芸術的構想力のある人というのは、そもそも象徴なのか、直示的描出なのか、という区別を特に意識せずに、一気に作品を練り上げる場合が多いようにも思います。あくまで私がそう捉えただけです。

 

 

 

■超あるまじろくらぶ『くるりんHANAMARU』[サンシャイン!!]

 

 まさに。アニメ「ルビまる」回の、ルビまるの良さを描いています。あとがきにもあるように。

 私も「ルビまる」回が好き、というか、もうほとんど、『〜サンシャイン!!』に関しては、ここのみに着目して楽しんでいるとすら言ってもいいくらいなので、大変、私にマッチした同人誌でした。

 

 要するに、まるは「凛ちゃん」(そしてルビィちゃん)のおかげで、一歩を踏み出せた。そして、ひるがえって、ルビィちゃんにとってのそのような意味での「凛ちゃん」は、まるなのだ、と。

 

 美しい。反復される関係。伝説(μ’s・りんぱな)と、今(ルビまる)とが、ここにおいて交差する。

 

 伝統の(再)解釈=適用、という「解釈学的循環」のなかで、アクアは「実践」している。

 

 そういう意味で、「ルビまる」周辺には、「サンシャイン!!」らしさの本質が凝縮されているとも言える。

 

 

■しとらすいーと。『ふたりのプリズム』[サンシャイン!!]

 

 こちらも、ルビまる本であり、こういうところを掘り下げて欲しかった、と私が思っていたことを描いて下さっていました。

 

 

 

C91ごちうさ同人感想(4)文章系

 

■きらきらアラモード『木組みの街の歩き方』

 

 ごちうさ舞台探訪の本です。

 ぜひとも現地を「みっしょんこんぷりーと」したくなる内容でした。

 

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 私が興味深かった点を列挙します:

 

・甘兎庵(のモデル)の隣の建物は、慎ましやかではなかった(立派だった)、というのに、笑った。

 

・「スクリーンショットを持参すると良い」というアドバイスが随所にあるあたり、通常の旅行ガイドと異なった趣きがあって面白い。(でもあくまでも文体は旅行ガイド風のものであるというのもまた。)

 

・「木組みの街」の部分は、言うまでもなく感心するばかりでした。

でも、特にプラスアルファで驚いたのは、温泉プール部分。温泉チェスの写真には感動した。また、リゼ・チマメの水鉄砲のシーン、確かにそのまんまだ!!(チノちゃんが隠れていた「柱」とか)

 

・「木組みの街」という言葉にかなり近いドイツ語が存在することも驚き。 Fachwerkstraße(木組み街道)

 

 

・たぶん、カットした写真なんかもたくさんあるでしょうし、大判で、写真を増量したバージョンもあったらよいな、などと夢想しました(現地に持参するのはこちら、現地に行けない場合はこちら、というように)。

 

 

ここあのたからもの/ココアのまね──C91ごちうさ同人感想(3)雑貨等

 

 ■蒼月の夜想曲「ココア、モカ、幼少期ココアの『髪飾り』」

 

   手作りのもので、頒布されておられるその「手」が、まさに手作りをされていらっしゃることを物語っていました。こういうことがわかるのも、こういう場の意味ですね。(「カートに入れる」の世界では見えてこないものです。) 

 

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 「ここあのたからもの~」から始まって、「ココアのまねー」で終わる、あの一連のモカさんエピソードは本当に大好き、というか、自分にとって大切なものなので、──といって、『ごちうさ』の中で、大好きでも大切でもない回なんてあるのかというと、なさそうですけれども──とても嬉しいです。

 

 深く心に残っているあのお話を、少しでも手元に置いておきたくて、欲張りかとは思いましたが、ココアさん、モカさん、そして「ここあのたからもの」の幼少期のもの、それぞれを、頂きました。

 

 なんというか、お金と交換するのが即売会ではありますが、一生懸命作られたであろうものを、こうして数百円のお金と、ポンポンと交換していることが、なんとなく罪のような気すらしてきました。かといって、それはじゃあ、数百円でなければ「いくら」なのかというと、どういう値段をつけたら良いかわかりません。

 

 ともかく、あとはそれを大切にする、精一杯楽しむということしか、私にはできません。

 

 こういう値段の付けられなさ、「価値」というのは、「ここあのたからもの」に通じるものがあります。

 

 あと、これは実際に「使用」できるものとのことですので、折を見て、ぜひ「使用」していくつもりです。

(モカさんも、ココアちゃんも、使いながら、ずっと大切にしているわけですからね。しまっておくのではなく。)

 

 

 

C91ごちうさ同人感想(2)成人向け

  このたび心に残った作品の列挙(基本的にココチノ、チマメばかりです)、成人向け編です。

 私は基本的にあまり成人向けを、特にごちうさでは、あまり好まない傾向がありますので、他にも優れた作品はたくさんあるはずです。

 

 

■あめうさぎ『甘やかにとろけて』(R18)

 

 可愛くて、優しい。裏表紙に描かれている、ラッピングされてしまっているココチノが可愛い、愛おしい。

 

 この方の作品は、絵が繊細でふんわりしていて、セリフなども細かく、エロい展開でも、なんというか、ネチネチしてない。チノちゃんが可愛い。ココアさんが、今にも良い匂いがしてきそう。

 

 エッチなのに、優しくて可愛い。これは、成年向けごちうさ本がたくさんある中で、大変貴重であると思う。優しくて可愛いというところが抜け落ちると、(少なくとも私にとっては)『ごちうさ』じゃなくなる(別の独立した作品として楽しめる、というものもあるとは思いますが)。成年向けごちうさ本は、だから、私は、基本的に避ける傾向にあるけれども、「あめうさぎ」さんの作品は、受け入れられる・・・どころか、むしろ、もっと読みたいと思います。

 

 おまけの年賀状チノちゃん可愛い。

 

 

■鯰の生け簀『Down The Rabbit-Hole』(R18, 男の娘)

 

 ココア君本。これはひどいと思って見てみたら(・・・実際ひどいわけですが、しかしそれにもかかわらず)、なかなかどうして、けっこういい話でした。(万人に勧められるわけではありませんが。)

 本編とはもちろん切り離して読むべきものでありながら、なんというか逆説的に、『ごちうさ』のある側面に光を当てているような気も・・・します。(ですが、やはり万人に勧められるわけではありません、繰り返しになりますが。作者の方もことわっておられるように。)