miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄を中心に、私の個人的な雑記等も書き記しております。

私をまっとうな道に連れ戻してくれるかもしれない爽やかさ:『NEW GAME!!』(2期)感想

 

◆爽やかさ

 

 大変よかった。とても前向きで爽やかな作品。──「さわやか」という表現が、本当にぴったり。

 

 確かに「萌え4コマ」原作ですから、フェチ的欲求を所々で満たしてくれるようにはもちろん作られているけれども(第1話の会社で起き抜けの八神さんのシーンは、しつこく股間アニメだった)、しかしきちんと見ていくうちに、そういう脂ぎったネチネチしたいやらしい目線や欲求などが、(しゃぶしゃぶのように)さっぱりと落ちていって、いつの間にやら、とても清々しい、爽やかな、非常に前向きな気持ちになっている。

 

 「涼風青葉」という名前そのもの。

 

 なんか、うまく誘導されたな、まっとうな道に連れ戻してもらったな、というように感じて、そのことについてこの作品に感謝すらしたくなる。 

 

 これは、本当に素晴らしい作品なのではなかろうか。この爽やかさ、前向きさ加減においては傑作と言えるのでは。それも全く押し付けがましくない、教訓くさくない、こんなにもナチュラルなやり方で、これほど前向きな気持ちにさせてくれる作品は滅多にない。

 

 全体を通じてとても軽やか、爽やかで、おしゃれに作られている。(エンディングも爽やかでとてもおしゃれ。2パターンありましたが、2つ目が特におしゃれ感あり。そういえば、劇伴音楽もさりげなくおしゃれ、と思っていたら、『けいおん!』の人だったんですね。サントラを聴いてみたいです。)

 

 

◆真剣さ、ある種の職業倫理

 

 「お別れ」が描かれているのだけれども、JKもののそれとは違う良さがあった。

 

 卒業したら・・・という感動要素は、『けいおん!』などがすぐに思い浮かぶように時々取り入れられるけれども、本作品のような「別れ」というのは、そういうのとも違って、さわやか。

 

 なんというか、「卒業」というものの哀しさというのは、実は、ある意味で、ちょっと誇大妄想というか、後から振り返ってよく考えてみればそんなに悲しむことでもなかったのではないかというような、そういうところがある。子供の楽園、子供としての最後の時間が終わってしまう、というようなことを、いまだ子どものままの状態で想像して、感傷に浸る、という側面がある。

 

 そして、JKものの日常系作品は、一方で、そういう失われた子供の時の感受性を思い出させてくれて、「そうそう、これくらいの年齢の時は、それが大変なことに思えるのだよね」というように、懐かしみつつ、可愛がりつつ、味わう、というようなスタイルになりがちで、それはそれで、とても良いものだ。もう大人になってしまった自分が巻き込まれている、この現実の諸々の面倒臭い事どもからほんのひととき離れ、そういうファンタジーに浸るというのは心地よく、必要なのことだろうと思う。

 

 しかしながら『NEW GAME!!』は、ちょっと違う。そういう子どもらしい過剰な感受性による、ぐーっと胸が苦しくなるような、青臭い別れの悲しみの表現はない。独立した立派な大人どうしの関係であって、プロの職業人どうしの関係という感じがする。

 

 八神さん・りんさんの関係、しばしのお別れに関するエピソードも、もちろん感動的で、ある程度の落ち着いた大人どうしのこういう百合関係というのもとてもいいものだなあ、と、心動かされるものがあったけれども、

やはりとりわけ重要なのは、青葉・八神の関係であろう。1期でも、特に最終話はこのような二人の関係が見られて大変良かったが、今回もまた最終回でのこの二人の関係がとても良かった。

 

──なんというか、浮ついた「関係」に関する、ちょっと脂ぎったような妄想が静かになって、もっと真剣な、ある種の職業倫理に基づく人間関係とでも言うべきものが、この作品の基礎にあると感じさせられた。・・・そういう真剣さが、中盤、ちょっと面倒だと感じることもなくにはなかったのだけれども、最後まで見ていて、こういうのはやっぱりいいものだと思わざるをえなかった。

 

 

◆うまいこと導かれたなあ

 

 ああ、私はこういう立派でまともな人たち、前向きな職業人の世界、切磋琢磨しあう独立した人間たちの爽やかな関係といったようなものが、嫌いだ嫌いだ、といつも口先では言っていながら、一方で、この作品のように、こういうものをストレートに、爽やかに、押し付けがましくなく、ステキに見せつけられると、あきれるほど素直に、どうしようもなく感動してしまう。

 

 本当に私という人間は、一方ではいつもアウトローなへそ曲がりを気取っていながら、他方では完全にとてつもなくチョロいところがあって、こんな最終回を見せつけられたら、「プロとして前向きに仕事に打ち込むっていいなあ、素敵だなあ」、などとすぐ思ってしまう。

 

 そんなわけだから、今日はちょっと早めに寝て、本来やりたかったはずの今の自分の仕事に、明日はもう少し改めて真面目に取り組んでみよう、というような気になる。──う〜ん、本来こういう感想を言う人のことが苦手なはずなのに、どういうわけか自分自身がこんな事を素直に思ってしまっている。自分でも気持ちが悪いが、そうなってしまった。

 

 本当に、この作品にはうまいこと導かれてしまったなあ、という気がする。

イヤダイヤダ、まだまだ連れ戻されたくないよ〜、ふわふわしてたいよ〜、って人は、だから注意して観たほうがいいかもしれませんね。チョロさに自信アリの人は、あっという間に導かれてしまうだろう。)

 

 

リゼ曲の魅力:本気のグーパンが気持ち良いときもある(?)

 

チマメ大好き人間の私ですが、今回は、リゼ曲(キャラソン等。天々座理世、種田梨沙さんの歌う)の良さをお話ししたいと思います。いつも助けられているからです。

 

ちょっと元気のないときとかにリゼの曲を聴くと、本当に元気が出る。

 

リゼの、芯があって力強くてカッコよくて、しかも可愛い歌声は、カツを入れてもらいつつ癒されるという、肉体疲労時の栄養補給にもってこいの成分で満ち溢れています。

 

だから、ちょっと疲れたときなんかは、身体が自然とリゼ曲を欲しているのがわかる。というか、そういうときになると、いつのまにか頭の中でリゼ曲が流れてきて、自然と口ずさんでいたりするので、あ、自分で歌うくらいならちゃんと聴こう、と思ってパソコンとかiPadで再生する、ということが多い。 

 

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ごちうさ』のキャラクターの中で最も好きで感情移入しているのは何と言ってもチノちゃんで、さらにマヤメグもやっぱり大好きで愛している。だから当然この子たちの歌も大好きで、よく聴くし、聴いているとそのあまりの可愛さに悶え苦しむことがしばしばある。・・・しかし、悶え苦しむというのはけっこう体力を消耗するような気がするので、肉体疲労時には必ずしもチマメの曲を聴くとは限らない。

 

喩えるなら、

元気な子供達と遊ぶのは楽しくて大好きなのだけれども、ちょっとお兄ちゃん今疲れてるから後で遊ぼうね〜、と言いたい時もある、という感じだろうか。

 

ちなみに、私の肉体疲労時に脳内自動再生されがちなのは、「ミカヅキドロップ」とかが多い。あとは「Love & Gun」とか「Dear Me:」。

(・「冷静とモフモフの国境線」は、どっちかっていうと聴いているとリゼの可愛さに悶え苦しむ系なので体力を奪う系の曲。「ヤメ、ヤメ、ヤメロ!!」 ──BD特典のこの曲をiPhoneに入れて、さ〜て、早速聞きますか〜とわくわくしながら初めて聴いたのが混雑した電車の中で、ニヤニヤが止まらず、本当に困ってしまった記憶がある。最初は家で聴けばよかったよ〜、と後悔した。ずっと下を向きながら聴いていました。)

 

・「ミカヅキドロップ」は、とにかくカッコいい。月夜に銃を構えるリゼ、というイメージが浮かぶ*1

・「Love&Gun」は、「もしや、何かおかしいか? あくまでも普通の女の子だぞ!」の所が、しばしば頭の中で流れる。「〜だからな、〜してくれ」という男っぽい話し方で語りかけてくれるような感じの歌詞が、力強くて頼もしくて、しかも可愛くて癒される。

・「Dear Me:」は、古き良きJ−POPという感じのサビメロディがいい。歌詞は内省的だけど、あくまでも毅然とした歌い方で、全体としてはリゼの芯の強さと可愛らしさとが綺麗に調和している。

 

あと、共通曲のリゼ Ver. というのもいい(「Daydream café」、「ノーポイッ!」、「WELCOME【う・さ!】」)。

他キャラのVer.と比較して聴くことになるので、際立ってリゼらしい(カッコいい)歌声を堪能できる。

特に「Daydream café 〜ご注文はリゼですか? ver.〜」は、あのふんわりぴょんぴょんした可愛い歌詞を、リゼらしくハキハキ・朗々と歌うのでとてもステキです。「ふわふわどきどき」のあたりとか。

 

(リゼ関与曲で言えば、ココアとの曲、振り回され隊の曲があるが、特にリゼ・シャロデュエット曲「Eを探す日常」は、可愛さに悶え苦しむ系の曲。二人の掛け合いみたいな部分はとりわけ体力を奪われるので注意。「なんだろう?」「なんでしょう?」とか。)

 

また少し変化球として、シャロの「麗しのShooting star」。

シャロがリゼを想って歌う曲で、シャロと一緒に、美しくカッコいいリゼ先輩に思いを馳せることができる。リゼ曲を連続して聴くときなんかに途中でこの曲を挟むと、とてもいい塩梅です。「なにをしても優しすぎ そのうえカッコいいの」

 

以上、チマメ大好き人間の私ですが、「華やかで」、優しくてカッコいいリゼ先輩の歌声は、ちょっと弱っているときなんかに本当にうってつけですので、ぜび皆様にお勧めいたします。

 

(他にもソロ曲「夢見るアプレミディ」、「鏡合わせのアンビバレット」がある。これらは(特に前者は)「ロゼ曲」とでも呼ぶべき系譜に位置付けられるだろう。これらにおいては特にたおやかな彼女の様子がみられる。)

 

◆甘えるのとは違う

それにしても、どうしてこんなにリゼ曲には元気付けられるのだろう。

頼もしくてカッコいいので、弱っているときに頼れそう、というのはあるかもしれない。

 

だけれども、頼もしいリゼに「甘える」というのともちょっと違う。

リゼさんは、そんな安易な距離感を許す人ではない。

リゼ教官はいつも毅然としていて、けっこう厳しい。

 

だけれども、彼女自身もどこか弱い部分を抱えているせいもあって、いつもここぞというときに私たちに優しいのです。

 

・・・ああ、そうか、今気がついた。

なぜチマメ大好きな私が、こんなにもリゼの歌声に元気づけられるのか、ということに。

 

それは例えば、メグがうっかりリゼを「先生」と呼んでしまったのと同じようなことなのだろう。

 

つまり、私は軟弱なロリコンであって、幼女(風のキャラ)に過度に感情移入するような人ですので、チマメになった気持ちで、リゼ先生の歌声を聴いていたのかもしれないです。

 

甘えることはできないけれども、厳しく優しく導いてくれて、元気付けてくれそうな、素敵な体育の先生なのです。

 

 

 

*1: この曲については、種田さんはチマメ曲と対比して語られています。つまり「本気のグーパンが気持ち良いときもある」ということです(?)。
「今回[「ミカヅキドロップ」について]はかなりカッコ良いを推してるなと感じた・・・。チマメ隊の可愛いパンチで気持ち良くなった皆さんに、本気のグーパンが飛んでくるみたいな(笑)。・・・ちょっと痛いけど、気持ち良いというか(笑)。」
種田梨沙さん, 『まんがタイムきららフェスタ!2015:パンフレット』, p. 27.)

抑制と緊張:佐々木千枝ちゃんの見守り方

 「シンデレラガールズ」には、素敵なお子様アイドルがたくさんいらっしゃるのだけれども、その理由というか、なるほど、この作品と「ちびっ子愛好の精神」とはよくマッチするのだな、と思ったので、少し記してみたいと思う。

 

◆恋愛禁止なアイドルのプロデューサー

恋愛禁止、という決まりは、やっぱりこのアイドルの世界でもあるようだ。

 アイドルも一人の人間として、それについて何も思わないわけでないけれども、それでもなお、アイドルの仕事の方をあえて選んでいるのだ、というような意志が、例えばきらりんの言葉から読み取れる。

「アイドルは、普通の女の子が出来ないこと いっぱいできるけど……。普通の女の子にできて、アイドルにできないこともあるよね。

/それは……恋。でも、きらりんはアイドルになったから、大切に出逢えて、人を幸せにしたいって気持ち、いっぱい知ったんだぁ。

/だから、しばらくは、恋よりもお仕事!・・・」

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(「[With Love]諸星きらり+」親愛度MAX演出)

 そして、その選択のために、Pちゃんよろしくね、ありがとう、というような言葉を述べてくれるのである。

「Pちゃんと出会って、・・・[中略、お仕事をする中で]・・・きらりん、どんどん可愛くなれてる気がするの。」

(「同上、諸星きらり」親愛度MAX演出)

 だから、当然ながら、Pちゃんもまた、きらりんと恋愛関係になってはならない。どんなに可愛くても、それは妄想の中だけに留めておかねばならない(あるいは、そんなPちゃんの眠れぬ夜の妄想を表現する同人誌の中だけに留めておかねばならない)。*1

 

シンデレラガールズにおける「抑制」の意義

 そしてこの特徴は、「ちびっ子」愛好の精神と、非常によくマッチする。

 シンデレラガールズの世界に足を踏み入れたとき、まさかこんなにたくさんの素敵なお子様アイドルがいらっしゃるとは、思いもしなかった。しかも、見た目は幼いがそれなりの年齢である、という安全性に配慮した設定なのかと思いきや、まったくの公式の設定においても、「9歳」となっていたりするのである。

これは(はっきり言えば)嬉しいけれども、しかしいいのか!?というような気にならなくもなかったが、よく考えたら、別にいいのだ。二次元だからいいのだ、ということのみならず、設定上も問題ない。というのも、Pちゃんはプロデューサーさんであって、あくまで一会社員として、業務に専念しているだけ、だからである。だいたい、もしからしたら、この会社の他の部門に行きたかったのに、アイドル部門なんていうところに回されてしまった、今はとりあえずこれを頑張るけど、いつかはあっちの部門に・・・なんて思っているかもしれない。とにかくお仕事なのだから、成績を上げるためにも、がんばって、幅広いアイドルをスカウトして、ファンを増やさないといけないのである。

ちびっ子アイドルのスカウト場面はよくネタになるけれども、あくまでも仕事だから、しょうがないんですよ。

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 (龍崎薫(9)のスカウト場面。『デレステ』「アイドルコミュ」「龍崎薫とのメモリアル1」)

・・・というような、あくまでもお仕事なので、ましてや、そのお仕事で大事なアイドルと個人的な関係を持つなどということは決してあってはならないのであって、という、「抑制」された関係の持ち方。

 

アイドルたちは、「親愛度」をときどきストレートに伝えてくれることがあるけど、あくまでも「親愛」の印であって、「性愛」の表現ではないのです。

もちろん、うっかりしていると、親愛度の表現も、「え?どういうこと?それって・・・ああ、そういうことね、アイドルのお仕事頑張るってお話ね、そうだね・・・」と勘違いしそうになってぐらつきかけるけれども(もちろんそういうセリフが巧妙に練られているのだけれども)、あくまでも、お仕事、それを支えてくれるPへの感謝、なのです。

(男なら誰でも、いや女でも、そんな風にキラキラした目で言われると、そりゃ誤解しちゃうよ、しょうがないよ・・・というような「演出」が、よく練られているなあ、と思います。)

 

とはいえもちろん、これもPの誤解、勘違い、にまったくすぎないのかといえば、そうとも限らず、当然、アイドルの側も、このPとアイドルとの「適切な関係」を分かった上で、振舞っていると見ることもできるわけです。つまりアイドルも「親愛度」表現に乗せて、何かそれ以外のことを伝えようとしている、という可能性もあります。

 

でもそれは最後まで「可能性がある」というだけであって、はっきり言葉では表現されることがない。

この、Pとアイドルとの「抑制」が程よく効いた関係を楽しむ(そしてその抑制の裏にある妄想との緊張感を楽しむ)、そういうゲームなのであると、理解しています。

   

◆ちびっ子愛好の精神における「抑制」の意義

そしてこの抑制の効いた関係を楽しむというのは、まさに、(少なくとも私の)ちびっ子愛好の精神とマッチする。

 ちびっ子(キャラ)は、本当に可愛く、ナデナデしたい。けれども、嫌がるようなことはしたくない。可哀想な目にあって欲しくない。いつまでもそのキラキラとした瞳の輝きを失わずに、純粋な心を失わずにいてほしい。頑張ったら褒めてあげたい。一方的にお話ししてくれることがあったら、隣でじっくり聞いてあげたい。一緒に、よかったね〜すごいね〜と言ってあげたい。その子が疲れて眠くなってしまったり、お話しすることに飽きてしまうまで、そうしてあげたい。 

そして、それ以上のことは、したくない。美しいものを汚したくない。・・・と言っても、その割には、男の子よりも女の子(幼女[キャラ])に興味を持っているということからしても明らかなように(でも可愛い男の子だったらいいかも・・・ *2 )、やっぱりまったくそういう感情がないかといえば、おそらく心の底にはないとは言い切れない、というか、きっとあるのでしょう。 

だけれども、そういうものをあまり前面に出してしまうと、もうあの純粋な美しい完璧な世界が壊れてしまう。薄汚れたものになってしまう。そしてありきたりな、陳腐な、あの例の動物の次元のお話になってしまう。なんとくだらない。 

だいいち、我々に常に働いている規律訓練権力によって、それは罪悪感や嫌悪感すらも呼び起こしてしまうであろう(人によるが)。そうなるとやっぱり面白くないし、つまらない。不愉快である。 

だからこそ、ちびっ子愛好の精神には、抑制が必要なのです。抑制そのものを楽しんでいるとすら言える。

 

シンデレラガールズにおけるちびっ子:佐々木千枝ちゃんの見守り方

佐々木千枝ちゃんSSRを運良くお迎えして以来、ホーム画面でいつも癒されています。

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自分のことを「ちえ」と言って、「ちえ、がんばります」なんてことを、あの頼りなさげな声で言うものだから、本当に心から応援したくなる。

「目立つのが苦手」で、自信がなかった千枝ちゃんが、素敵なステージ衣装を着て、輝いています。

大人に憧れていたちえちゃん、ちょっと大人っぽい衣装だな、と、恥ずかしいような喜んでいるようなことを言ったりもします。

 「お腹が出ている衣装だから、大人になった気分です」

(ホーム画面ボイス)

 

千枝ちゃんよかったね、これからも一緒に頑張ろうね、と、心から思えてきます。

 

そして、この気持ちは、実際、本当なのです。

 

でもそれ以上の気持ちがないかといえば、多分あるのです。だけれども、自分自身の意識の中ですらも、「たぶんあるのだろうな」という程度です。つまり、無意識、あるいは、うっすらとした意識の次元に、それは抑制しておきたい。

この「抑制」された状態で、緊張感を保ったまま、ちえちゃんを見守りたい。私にとってはこれが最も幸福な状態であって、それ以上でも、以下でも、その独特の甘い幸福感は、失われてしまうでしょう。

 

(ですから、同人誌をたしなむ際は慎重に選ばなければなりません。この緊張感を保ったまま、しかしもう一歩、いや半歩ほど踏み込んでいる、というぐらいの作品を、私はいつも探しています。)

 

 

 

◆(ついでに)ちょっと「ワガママ」になってみた千枝ちゃんについて

本来、あんまり目立つことが得意じゃないという千枝ちゃん。

それに、いつも真面目ないい子なのですが、少し真面目すぎるのかもしれません。

そういうこともあって、LIVEの前は緊張してしまいます(SSR特訓エピソード)。

そんな千枝ちゃんが、「千枝、精一杯頑張ります!」なんて言っているのを見ると、もう・・・。

 

そしてLIVE前日はこんな様子だった千枝ちゃんですが、実際にLIVEが終わると、

LIVE楽しかった、終わってしまうとちょっと寂しいような気がする、またLIVEがしたいな──というように言ってくれるのです(SSR特訓後親愛度MAX演出)。

「もっと、もっとって、ワガママになっちゃうのかもっ。」

ううっ(>_<) いいんだよ、君はむしろ、もっとワガママになっていいんだよ・・・。

今やこんなことを言ってくれて、しかも「ワガママ」なんていう言葉を素直に使っているのを見ると、なんだかホッとして、本当によかった…、としみじみ思います。

 

 

*1: 逆に言えば、そういう妄想の表現としての同人誌と、アイドルマスターの公式コンテンツとは、表裏一体の関係でもある。そういう妄想は、公式コンテンツに取り組む多数の人たちの動機の重要な部分を占めているであろう。

(もちろん、さまざまな人がさまざまな動機で、意識的・無意識的に、コンテンツに取り組んでいると思うので、一概には言えない。こういう妄想など微塵もなしで取り組んでいる人だっているだろう、それはもちろんありえることだ。

──Pちゃん不在のアイドルコンテンツたる『ラブライブ!』での例になるが、以前、ある「ラブライブ展」のような催しで、文字通りの幼女と母親がそこに来ているのを見たことがある。文字がようやく書けるかどうか、くらいの年齢の子であるが、その子が、来場者が自由に書き込んでいいノートに、「しょうらいみゅーずになれますように」と、大きな歪んだ文字で書いているのを見かけた。なるほど、「ぷりきゅあになれますように」というのと同じなわけである。──もちろん言うまでもなく、逆に、『プリキュア』にも大きなお友達がいて、しかもその大部分は、この子供とはかなり別の角度から楽しんでいるであろう。)

 

*2:CCさくら』の小狼くんは大好きでした。知世ちゃんに着目して見ていたのに、いつの間にか雪兎さん、小狼くんが気になってしまっていた。少女漫画なので、没入していけばいくほど、結局、男性キャラの方が魅力的に見えてくるのかもしれません。そういえば、『アイドルマスターSide M』というのはどういう感じなんだろう。

 

 

かおる、薫、かおる〜:龍崎薫MVスクショ

薫、かわいいよ薫。
2周年記念のスカチケで、やっぱり薫に来てもらいました。

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これで、千枝、みりあ、薫、と、ちびっ子アイドルが揃いました。幸せ。
もうこれで満足…ではあるけれども、
いつかハイファイ☆デイズがSSRで組めたらなあ。

 

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う〜、かおる〜、かわいいよ薫。

元気いっぱいで無邪気ですが、時々可憐な表情も見せます。

 

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薫らしい元気な表情。

 

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脳がフリーズする可愛さ・・・!!

 

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いっぱいいろんな曲で、ライブしてもらっちゃいました。
ちょっと疲れたね、薫。休憩しよう。

 

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DJ KAORU!

 

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う〜ん、一緒にかくれんぼとかしたい。

 

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こんなふうに、ウインクが得意なんです。

 

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こういう感じもいいですね。

 

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バシャバシャとスクショ撮りまくり。

 

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こうやってときどきこの子たちの元気に踊る姿が見られるなんて。
なんと素晴らしいゲーム・・・。

 

 

スカウトチケットというものが現れて以来、課金というものに躊躇がなくなりましたよ。──ええ、昔は、絶対に課金だけはいけない、でないと泥沼にハマるから・・・と思ってましたよ。コツコツ集めればスタージュエルはけっこう貯まるんです。でも、これはもうダメだった。・・・いえいえ、むしろですね、これだけ素晴らしいゲームで遊んでいるんだから、お金を払うのは全然変なことじゃない。ゲーム機とゲームソフトとを買ったと考えてごらんなさい。最低でもその金額までなら課金していいんです。・・・というような言い訳は、簡単に見つかりました。何もかも、スカウトチケットなるものが現れて以来のことです。それに、思っていたほど、泥沼にはまるほどお金をつぎ込むなんてことにはなっていません。心配いりませんよ、さああなたも、微課金、始めてみませんか・・・という投資信託の宣伝みたいですが、投資信託以上に利益をもたらしますよ? 素敵な衣装を身に纏った薫に、いつでも会えるんです。端末を持って出かければ、一緒にお出かけだってできますよ? もう迷うことはありません。 *1

所詮はデータ、・・・というのはよく聞かれる言い方ですが、それを言うならなんでもそうです。ブルーレイだって所詮はデータを焼いたものです。アニメも映画も、所詮は光の束です。何だって、そこに在ると思っているから在ると思えるだけのこと。ならば、薫だって「居る」と思っている人にとっては居るんです。

 

 

*1: (少しでも浪費への罪悪感を減らしたいなら、ヨドバシあたりでたまに安売りしているiTunesカードをポイントで購入しましょう。こうすれば少しは節約した気になれます。買わないこと自体が節約・・・と言うのはナシね。) 

少女の魔法:まどか、詩人、功利主義者

「魔術的観念論 Idearismus 」を唱えた詩人は、12歳の純真な美少女に理想 Idea を見たのだった。

 

「魔法」は少女のものであり、また詩人もそれに近づくことが許されるが、決して市民のもの(成人男性的なもの)ではない。


◆「ほんとうの魔法」

まどマギ』においては、市民的・近代的合理性というようなものを打ち破り、覆すようなものとして「魔法」、特に「ほんとうの魔法」が登場していた。

インキュベーターは詩人ではなく、結局のところ魔法に近づくことができない。


功利主義者QB

キュウべぇの話に対して、「もっともだ」という人が、それなりにいるようである。
確かに、ある観点からすれば、「彼」の話は「もっともな話」である。

どのような観点かというと、
「宇宙規模における、(かなり単純な)功利主義の立場に立つならば」、
ということである。


ただ、この観点に立つことためは二重に考慮しなければならないことがある。

α)宇宙規模における(配分的)正義を、我々人間が考えることは必要か/可能か/適切か。
β)そもそも功利主義は、特にキュウべぇが持ち出すような最も単純なやり方でのそれは、道徳・正義の諸規則を考えるのに妥当な原理か。


キュウべぇ派に反論したい人たち(私がその一人)は、もうすでに前者(α)の視点を持ち出すだけでも、かなりそれを成し遂げることができるだろうと思われる。

とはいえ、こうした議論は、そもそも議論自体が成り立っている基礎が曖昧なところがあって、どのような「設定」までを議論の基盤に取り入れるかが問題になる。キュウべぇは人間ではないにせよ、「理性的存在者」なのではないか(キュウべぇによる解説から、そのように考えられなくもない)、だとすれば、理性的存在者に適用されるあらゆる道徳的諸規則は、同じく妥当するのではないか、等々といったところに入り込んでいってしまうかもしれない。

そこで後者(β)の論点を考えることになるが、これについては、もちろん倫理学・政治哲学において様々な議論があるけれども、大まかに言えば、功利主義が無効とまでは言わないまでも(それでも現代倫理学界においては少数派のようである)、ベンサム型の最もシンプルな功利主義については問題がある、というのが一般的な見方である。

そして私の見るところ、キュウべぇが持ち出す議論は、基本的にこの「シンプルな功利主義」である。

要するに、何人かの中学生くらいの女の子たちが犠牲になってでも、人類を含む宇宙全体のエネルギーを確保する「効用」の方が大きいから、前者の犠牲は正当である、という議論である。
(「過去と未来の全ての魔法少女達」の、さらに魔女の犠牲になる普通のひとたちの、不快・マイナスの効用は、それによって得られる宇宙に所属するその他の存在者たちの効用の大きさによって相殺される、という「効用原理」に則った単純な「快楽計算」である。・・・だがもちろん、キュウべぇが快楽計算を間違っているという可能性も十分考えられる。それにそもそも、宇宙全体という規模の場合、どのような存在者までを快楽の主体として考えるのだろう。──これは(α)の論点につながる。)


だが私がお話ししたいことは、実はこの問題そのものではなくて、以上のようなことからもよくわかる通り、キュウべぇが依拠しているもの、「彼」が具現化している価値観・世界観が何かということである。すなわち典型的に近代的・合理主義的なそれである。

私は意図的に「彼」と呼んだが、それは成人男性が範型になっている、むき出しの理性的(悟性的)存在者そのものだからである。

(『セーラームーン』の「ルナ」はメスのようであり、彼女を理性的に制止したりする別のオス猫が登場する。)


◆「魔術」=「因果律に対する反逆」

そして、物語が進むにつれ、こうした成人男性的なもの、合理的なものの冷たさに対して、少女による「魔法」「奇跡」、それも、ほんとうの魔法、ほんとうの奇跡というものが、力を得ることになる。

因果律に対する反逆だ」と、「その時」彼は言うが、まさに「魔法」とは「因果律」をも逸脱する「奇跡」である。

 

そもそも、「奇跡」とは、因果法則から逸脱することである。あらゆるものに原因がある、という原則からの逸脱であり、原因・結果の[機械論的]連鎖から離れて、原因なく起こるものが「奇跡」である。

・・・だから、魔法を売って歩いていた彼が「因果律」を大事にしているというのがそもそも不思議な話なのであるが、逆にこのことからよくわかる通り、彼が持ち出していたものは実は魔法ではない。

・・・というより、元々の魔法少女システムが、そもそも彼らのものではないのであり、最初から少女達の「ほんとうの魔法」を利用していただけ、なのであろう。)

 

 

少女の自由

成人男性から、幼女へ。(その絶望的で倒錯的な変身願望について。)

 

これは、十字に軸をとれば、ちょうど「表」tableau, table の逆サイドにあたるものへの移行、変身を願うものである。

成人女性 成人男性

幼女   幼児(男児) 

なるほど、幼女というものが特別に持ち上げられる状況は、何か異常であって、差別的だ、というような意見もあるかもしれない。

そしてそれは、実際、もっともであると思うが、それは、そもそもこの「表」の存在そのものが、差別的だからである。すなわち、幼女のみならず、成人男性もまた成人男性という枠の中に閉じ込められているわけである。動物園などという言葉で揶揄することもあるが、逆に彼らもまた、成人男性という檻の中に閉じ込められている。

──「動物園」の檻は、成人男性中心型社会における成人男性の檻の裏返しにすぎない。わかりやすく言えば、「檻」は、向こうとこちらを隔てているのであり、どちらも「閉じ込められている」。

 

近代市民社会は、特に成人男性中心主義かもしれないが、そのような近代市民は、中心に位置付けられ、規律され、訓練され、逃れられないものにがんじがらめにされているということである。

むしろ、このヒエラルヒーの中で「周縁」に位置付けられ、追いやられた者たちのほうにこそ、かえって、自由があるとすら言えるかもしれない。もちろんそれは、「おめこぼし」的な自由であって、健全ではないのだろう。しかしそもそも、健全さというものが抑圧である。健全さの枠組みを逸脱し、横断できるものには自由がある。

 

これこそが、「幼女」の「自由」である。

この自由を求めて、一部の成人男性は、横断、越境を試みる。幼女になろうとする。もちろん、それは永遠に叶わない願いであろう。だが、ほんの一ミリでも近づこうと努力をする。空想の世界、心の中の世界だけでも、幼女になりたい。でも、その合間にふと鏡に映った自分に絶望する。薄汚い、汚れた欲求の主体(市民社会的「自由」の主体)としての「成人男性」(市民)がそこに映っている。そこで、外見もまた、ほんの一ミリでも「幼女」に近づきたいと思うようになる。ここから、幼女コス・女装コスプレに足を踏み入れる「成人男性」もいるだろう。これらの試みは、永遠にむなしいままの試みであるかもしれない。完全にかなうことはないものを追い求めている(のかもしれない)。しかしながら、不毛かもしれないこうした越境、横断を、不断に試み続けること、このことの中にだけ、この「表」、近代市民社会の秩序を前提にした上で、わずかに許された自由が手に入る・・・、かもしれない。「どこへでもこの世界の外へ」という絶望的な願望においてしか、今や自由は許されないのであるとすれば。

 

それだから、幼女になりたい願望、幼女への憧れとは、成人男性の/からの「逃走」なのである(また「闘争」でもあるかもしれない)。自由を求める逃走(闘争)である。

(同時に、自由「からの」逃走とも言えるだろう。近代市民社会的な市民の自由からの、である。)

 

 

「教訓」はいらない:ヴィトゲンシュタインの映画、平沢唯のおやつ

なんのオチもないとか、さらには何もここから教訓を引き出せない、などと、アニメなどの娯楽作品に不平を言う人が時々いるが、そういう人は、一休さんのとんち問答とか、悪いおばあさんが懲らしめられる昔話とか、何かそういうものを本来のアニメとしてイメージしているのかな、と思う。

 

ミュージカル映画

ヴィトゲンシュタインは、意外なことに(?)、ハリウッド映画を好んでいた。講義が終わると、まず映画を見に行き、それから彼の本来の「仕事」に取り組んだという。

ハリウッド映画、なかでも彼が好んだというミュージカル映画は、ヴィトゲンシュタインの哲学に何をもたらしたのか。──おそらく、まったく何ももたらしていないだろう。だが、ヴィトゲンシュタインという人間の、哲学的思索を含んだ生活のためには、欠かせなかったのだろう。

なるほど確かに、ハリウッド映画も、「言語ゲーム」の一種ではあろう。しかし、そこに「論理」の問題は、「神秘」の問題は、何か「示さ」れているであろうか。

「ばかばかしくて素朴なアメリカ映画は、そのばかばかしさにおいて、まさに、ばかばかしさゆえに教えられるところがある。」

ひとにはばかばかしいものが必要なのである。とりわけ、全身全霊で取り組まなければとうてい不可能であるような、高度な知的活動に従事しなければならないような人にとっては、いっそうそうであろう。

 

◆おやつ

これは言い換えれば、おやつの時間が必要だ、ということになるだろう。

「人はおやつがあるから頑張れるんだよ。頑張った後にはおやつを食べないと!」

平沢唯の言葉である。(※1)

 

プリキュアも、ごちうさも、ひとによってはばかばかしいと思われるかもしれない。甘すぎる、「意味」がなさすぎる、「教訓」がない、と不平を言うかもしれない。(※2)
 
だけれどもそれは、立派な「おやつ」なのであって、やっぱり欠かすことのできないものである。
 
それは、ショートケーキに対して、栄養バランスがおかしい、野菜が足りていない、と不平を言うようなものである。
 
──なるほど確かに、「ショートケーキだけを食べている人」に対しての不平ならば、真っ当であろう。
しかし、世の中の「ショートケーキを食べている人」の大半は、「ショートケーキだけを食べている人」ではないであろう。
 
ショートケーキは、野菜たっぷりカレーでも柿の種でもないから、野菜は入っていないし、辛くもない。
それは甘すぎるくらい甘いかもしれないが、それで良いのである。

 

 

◆注

(※1)2期番外編「計画!」より。また、次の言葉;

あずにゃんが予定表作るとおやつの時間がなくなるんだよなあ」

(『映画』) 

 翻って、あずにゃんに必要なのは「おやつの時間」だったのだ、と言えるだろう。

「梓ちゃんは真面目だから知識の吸収は早かったけど

音楽ってそれだけじゃないのよね

唯ちゃんみたいに最初から知識を凌駕する何かを持っている子もいたけど…」
山中さわ子、『highschool編』)

 

  
(※2)ちなみに言えば、これらの諸作品に、「意味」「教訓」を読み取ることは可能であるが、たとえ読み取れないとしても、何も問題はないと思う。

 
 
参考:野家啓一編『ウィトゲンシュタインの知88』新書館