miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄を中心に、私の個人的な雑記等も書き記しております。

透明な関係(唯あずについて):桜高新歓7での体験から

時間が経ってしまいましたが、2017年5月の「桜高新入生歓迎会!!7じかんめ」の感想などを、書き記していこうと思います。

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◆特に、ギター演奏の様子

このイベントでは、同人誌即売会、校舎見学、コスプレ、など様々なことができるのですが、
なかでも、有志の方々による「演奏」を聴けるということが、大変よいです。演奏中は、あんなふうに連携して演奏しているのか、ということが、知ってはいても、実際に耳で聞いて、またはっきり目撃することができます。

 

もちろん全ての楽器、パートどうしが、密接に連携しなければならないのだろうとは思いますが、
やはり、私の嗜好によるものもあるかとは思いますけれども、
特に二人いらっしゃる「ギター」どうしが、演奏中に連携している感じというものには、どうしても(他の楽器よりも)特別なものを見出さざるをえないものでありました。

 

演奏していらっしゃった方にはなんとなく申し訳ないですが、
演奏の様子を拝見していて、演奏中の唯あずの秘密のやり取り、目と目で行われるようなそれ・・・というようなことが妄想されてしまいました。

 

◆言葉によらない関係

目と目で密やかに行われる連絡、それも音楽の演奏という特別な瞬間になされるもの(しかも衆目を浴びて)・・・というようなことには、何か非常に、ひとをうっとりとさせるものがあります。


普段人間は、言葉で会話をしなければならないわけですが──たとえ言葉が言葉として役立たないような場合でも、とにかく言葉を使わなければならないでしょう──、
言葉で言い表しえぬもの、言葉を媒介にしない直接的なつながりといったようなものが、例えば音楽の演奏という場面においては、現前しうるのではないか。

演奏中は、ドラムその他の大音量にかき消され(本当に大きな音でした)、言葉を使うことを禁じられ(だいたい、演奏中に会話していたらおかしい)、それにもかかわらず密接に連携することを強いられる。

 

「言葉によらない直接的なつながり」は、人々が日常系作品というファンタジーを好む理由の一つのではないかと私は思っていますが、
このように考えたとき、やはり「けいおん!には軽音が必要だ」ということになるのではないかと思います。


◆「あんまりうまくない」/透明さ

また付け加えるならば、あずにゃんにとって、唯先輩と出会ったことによって、彼女にとっての音楽の意味が変わった、あるいは新たな意味がつけ加わった、ということが言えるかと思いますが、そのことと関係があります。

練習をして技術を磨き、目標を達成する、というような音楽の側面(〜「上手い」演奏)だけではなく、言葉によらない透明な関係の獲得、というような意味。
 
例えば、アニメ1期最終話。ライブ直前の部室における二人のやりとりが思い出されます。
あずにゃんが、表面的に怒っていても、泣いていても、唯先輩には、彼女が何を言っているか、考えているか、(直感的・直観的に)わかっている。
そしてあずにゃんも、唯先輩がすっかりわかっている、ということを、わかっている。 
だから、「最低です」などという「言葉」を、何回も言えるのである。
(ここにあるのは言葉によらない関係であるから、言葉はその字義通りの役割を果たさない。)

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(1期最終話)

 

 
唯先輩自身が透明であり、また、梓も唯先輩の前では透明になる。そしてここで「透明な関係」が結ばれている。(唯先輩はもともと透明な存在であるが、梓もまた、そのような唯先輩の前で、唯先輩との関係において初めて、透明になることができる。) 

「あんまりうまくない」にもかかわらず、心惹かれる、とは、そういうことではないかと思います。

 

二重のきらら結界:『こみっくがーるず』かおす先生考

 『こみっくがーるず』の主人公かおす先生について。

単行本3巻pp.111〜(『MAX』2017年3月号掲載)のエピソードがとても素晴らしいので、これを手掛かりに、ちょっとあれこれ考えみようと思います。

 

◆かおす先生に励ましのお便りを 

とにかく「かおす先生」は、かわいいというか、応援したくなるというか、文字どおり「励まし」を送りたくなるキャラであります。

 

特に興味深いのは、次のようなところ。

 「女のコらしい部屋で…

お菓子食べたり おしゃべりしたり…

まるで4コマの世界…!」

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(第1巻p. 20)

  あるいは、

「新しい学校の制服かわいい…!!

なんか私4コマの主人公っぽい…!?」

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(第1巻p. 36)

 と、4コマ漫画家かつ現役女子高生でありながら、「女子高生が出てくるような4コマ漫画」(=きらら漫画)の世界に憧れている・・・というか、「憧れの対象」になってしまっているのです(だから、読者アンケートで、女子高生の描写に「リアリティがない」などと書かれてしまう)。

 

このように、かわいいし、興味深いキャラなのです。

(というわけで、これから「興味深い」点についてごちゃごちゃ書き記そうと思いますが、以下の話は、全くこの作品を楽しむにあたって不要なことで、かおす先生は「かわいい」し、「がんばってほしい」というだけで、いいと思います。)

 

◆かおす先生というキャラの興味深さ

「自分が4コマのヒロインであることに自信が持てない(疑いを持っている)、4コマのヒロイン、しかも4コマ漫画家」。

 

この時点で、かなり興味深い設定です。

 

(3巻あとがきで、ボツネームばかりだったころに、そういう自分からひょっこり出てきたキャラ、と作者の方は書かれてましたが、作者の方が、萌え4コマの世界とは何だろう、どうやったらそれらしく描けるだろう、と考えていたことが、そのままキャラとして反映されているような気がします。勝手な推測ですが。)

 

かおす先生は、萌え4コマ漫画(以下、単に「4コマ」と表記)[的なもの]を愛好し、かつ4コマ漫画家なので、4コマ漫画の世界がどういうものなのかということを、知識としては知っている。

そして、その知識として、頭の中にある4コマ漫画の世界と、目の前の自分の現実の世界とが、簡単には一致しないことも知っている。

 

ここまでは、現実の我々と同じ。

 

しかし、かおす先生は、やっぱり4コマの主人公なので(本人がそのことに自信を持てず、また本人が聞いたら驚くであろうけれども──例えば、彼女は自分のことを「変なモブ」と称したりしている)、彼女の頭の中にある、知識としての、二次元情報としての「憧れの4コマの世界」と、彼女の目の前の「現実」の世界とが、次第に一致していくことになる。小夢が「現実だよかおすちゃん」と言ってくれているように。

 

そして、かおす先生は、この「一致」にうろたえる。「まるで4コマの中にいるみたい」と、ぼんやりとする。

 

・・・なんとも夢のあるお話です。

 

作品内で、登場人物の頭の中にしかないはずの4コマの世界というものを登場させ、それが、作品内の出来事と合致していくというプロセスは、読んでいる人をより深くファンタジーの世界に連れて行ってくれます。

 

◆4コマの世界を描いた4コマに元気付けられる4コマ

このことがとてもわかりやすく、ちょっと感動的に描かれている箇所として、例えば、単行本3巻pp.111〜(『MAX』2017年3月号掲載)のエピソードが挙げられると思います。

 

今回、かおす先生は、仲間がみんな帰省してしまい、一人ぼっちになって急に寂しくなったり自信を失ってしまって「しょんぼり」なところから、自分の趣味、そして自分の描いた4コマ漫画に元気付けられ、さらにそこから仲間たちとの楽しい日々を思い出して、立ち直る、というようなお話でした。(寮母さん、猫のにゃおす先生も、元気付けてくれます。)

 

自分が描いた「4コマの世界」をきっかけに、自分は今、まさに「4コマの世界」(のような)日常にいるのだ(=寮での楽しい暮らし)ということを思い出すという(そしてこのプロセス自体が「4コマ」として描かれているという)、大変興味深いお話でありました。

 

この回は、笑ったり、感動したりできる、とても素晴らしいエピソードです。それに、4コマ漫画っていいなあ、と改めて思えます。ぜひご一読されることを皆さまにオススメいたします。(かおす先生の漫画家としての活躍が、この辺りから、少しずつですがその兆しを見せ始めてきていますし、後輩にあたる子もこのあと登場しますし、この回は、全体を通じて一つの転機になっている回ではないかと思います。

 

 

<以下、補足・詳細説明>

 

 

◆図解:かおす先生考

かおす先生は、きらら的世界に憧れ、その外部に放り出されかけたり、また戻ったりを繰り返している。

きらら的世界に完全に溶け込み切れてはいない。

 

そして、きらら的世界への憧れが人一倍強い。

この側面では、きらら読者、きらら的世界の外から中へと覗き込もうとしている、ファンタジーでその世界へと遊ぼうとしている人の立場が、描かれている。

 

と同時に、そういうかおす先生の日常自体が、きらら的世界として描かれてもいる。間違いなく、かおす先生は、きらら4コマの主人公である。

 

つまり、彼女はきらら的日常の内と外の境界線上にいる・・・ように描かれている。そしてさらに当然ながら、その全体が、きらら作品世界の内部にある。言い換えれば、きらら作品世界の内部に、その外部的なものを描いている、ということになる。

 

つまり、我々の3次元の現実とを隔てている「きらら結界」(A)内部に、さらに劇中での「きらら結界」(B)がある(描かれている)、という構図になる。

 

【図解】

 [1]我々読者

(薄汚い現実の私を含む)

 〜〜〜きらら結界A〜〜〜

 [2]かおす先生

(自分はダメダメでしょぼくて、と言っている。けど、[1]にいる我々から見れば、十分(すぎるくらい)かわいい。)

 〜〜〜きらら結界B〜〜〜

 [3]かおす先生の憧れる女子高生のキラキラな日常

  

かおす先生は、[2]の階層から、結界Bを突き破って、[3]の階層に徐々に入っていく。

これは明るくて希望の持てるお話なのである。

 

もちろん実際には、結界Aはびくともしていないので、[1]の階層にいる者(私たち)にとっては、当然フィクションなのだけれども、没頭して読んでいるうちに、自分が階層[2]にいて、階層[3]に憧れているのではないかと錯覚してくるところがある。これが、ファンタジーとして、醒めにくい効果を生んでいる。(・・・北海道の味噌ラーメンで、油を浮かせてフタすることで冷めにくくしているというのがあった気がするが、それに少しだけ似ている。)

 

もちろん、きらら読者の大半と違って、かおす先生は、彼女自身がJKであり、ちっちゃくてかわいいのであって、要するに、十分きららヒロインである。

だが、かおす先生は、オタク気質など、入り口では、きらら結界外部[1]に運命付けられた読者たちにとって共感しやすく、スムーズにかおす先生というキャラに乗って、きらら世界へとファンタジックに飛翔していくことができるのである。

  

◆他の作品における劇中結界描写との比較

とはいえこれは必ずしもこの作品だけの特徴とはいえないかもしれない。

即ち、あらゆるきらら作品において、時にその円満な日常に動揺が走り、登場人物の何人かが、そのきらら的日常から少し疎外された状況に置かれたりすることは、しばしばある。そして、その「疎外」の経験を通じて、今までの日常の貴重さを思い出す、というようなことはしばしばある(けんかして仲直り、とか)。

(上述「図解」に即して言えば、多くのきらら作品においては[3]の領域のみが目立っているが、時々、エアポケット的に[2]の領域が発生し、登場人物が[3]→[2]と疎外されてしまう、という状況が生じる。)

 

ただ、この『こみっくがーるず』における際立った特徴は、そのきらら的日常からの疎外と帰還、その価値の認識といったプロセスが、4コマ漫画家というヒロインの視点で、例えば「これは4コマのネタになる!」「4コマの世界みたい!」等という形で、明確に描かれている、という点にある。

  

◆・・・いずれにしても、楽しい作品です

もちろん以上の話は私が勝手に余計なことを考えているだけなのであって、

この作品自体は、こういったいろいろな理屈とはまったく関係なしに楽しいものです。

かおす先生はとてもダメダメでピュアでかわいいので、この作品を皆さまにお勧めいたします。

 

 

 

『こみっくがーるず』の魅力:個人的な解説

 『こみっくがーるず』。

私にとって、『MAX』の中で、ごちうさを除けば、最も好きな作品の一つです。

単行本は、このあいだ「3巻」が出ました。

 

しかもなんと、アニメ化するという知らせが。きららフェスタでも少しだけ動いている(ような)映像が流れました。

 

まんがタイムきららMAX』は、最近は主に「ごちうさ」のために、せっせせっせと毎月発売日に2冊ずつ買っているのですけれども(同じもの2冊でよろしいですか、と毎回親切な店員さんが聞いてくださるのだけど)、おかげで、連載中の他の様々な作品に触れて、世界が広がりました(=ハマるものがまた増えてしまいました)。

 

4コマ漫画家の「かおす先生」(萌田薫子、女子高生、『きららケイオス』に時々漫画を載せている)をはじめ、そのほかいろんなジャンルの漫画を描いている漫画家たちが一つの寮(「文芳社 女子まんが家寮」)に暮らしている、というようなお話です。

 

 

 

◆かおす先生

とにかく「かおす先生」が、なんというか、かわいいというか、応援したくなるというか、文字どおり「かおす先生に励ましのお便りを!」送りたくなる感じなのです。

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(2巻p.43 扉絵のかおす先生、かわいい)

  

ダメダメでピュアなかおす先生。自虐的すぎるかおす先生。それでも頑張るかおす先生。

「明るくて友達いっぱいな主人公を描きたいのに…

周りに迷惑しかかけないし 一生友達などできるわけもなくトホホ……」

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(1巻p.33)

 

ですけれども、今回の3巻のエピソードの、次のエピソード(『MAX』2017/4号掲載)では、少し頼もしいような一面も見られます。新しく寮に入ってきた子(美姫)に、意外なところで尊敬され(謎の「薄い箱」で絵を描いていること等)、かおす先生がいろいろ教えてあげるというお話です。

 

また、興味深いのは、4コマ漫画家かつ現役女子高生でありながら、「女子高生が出てくるような4コマ漫画」(=きらら漫画)の世界に憧れている・・・というか、「憧れの対象」になってしまっている(=読者アンケートで、女子高生の描写に「リアリティがない」などと書かれてしまう)、ということ。

「海… 水着…

かわいい女の子たち…

4コマの世界… はあ…」

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(1巻p.109、海回のかおす先生)

・・・このあたりのことも含めて、かおす先生については、改めていろいろ記したいと思います。

 

◆笑えます

テンポ良く、私のツボにはまっているせいか、何回読んでも、大声で笑ってしまいます。(外では読めないです)

最近だと、3巻p. 109〜の、漫画の内容を伝えるために「演じます!」などと突然言い始める翼さんの一連の話は、とても可愛く、面白かったです。無駄に情熱的な翼さん、そして謎の大喝采。なんとも言えない面白さでした。

 

また、2コマ目くらいで、すでにちょっとしたオチがあったりして、笑えることがあります。

 

あと、個人的に注目しているのは、吹き出しの外に、手書きで小さく書かれた文字のところが、かなりの割合で、私のツボを得た、可愛くて笑える内容になっていることが多いです。 ちょっとしたキャプションみたいなものとか、かおす母からの応援の手紙の内容とか、漫画のネームの内容とか・・・。この辺にも注目です。

 

◆可愛いです

絵がふわふわとしていて、大変可愛いです。

 

お出かけ時の服装なども素敵です。

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(1巻p.50、着替えるかおす先生)

 

細かいことですが、扉絵や、かおす先生お出かけ時(1巻)などで、ベレー帽をかぶっているのが可愛いです。手塚治虫のような、おじさんの漫画家スタイルたるベレー帽を、この子たちがちょこんとかぶっている様子はとても可愛いなと(普通におしゃれ女子アイテムでもあるのでしょうけれども)。ミルキィホームズが、探偵らしい服装、おじさん風であるはずの服装を可愛いコスチュームにしていたみたいに、こういうのもいいですね。

 

◆「翼さん」の魅力

それから、他にもいろんなキャラが出てきますが、かおす先生の次に私が気に入っているのは「翼さん」です。ペンネームは「ウイング・V」、少年漫画家

 

いわゆる ボーイッシュなキャラです。

こういうキャラは、もちろん、よくあるとは思いますけど、翼さんは、結構割と本当にボーイッシュ、というか、かなり少年なんですよ。なぜなら、少年漫画を描くために、役になりきっている、という設定があるので。(おそらく思うに、単にボーイッシュなキャラ、という場合、あくまで少女のキャラであるという限界を守らなければならないけれども、翼さんの場合、役になりきっている、という設定があるので、その状態なら、かなり少年っぽく描いてもいいからなのではないかと思います。)

 

(1)だから、けっこう本当にかっこいいのです。

「暗黒勇者」の格好をしてばばーんと登場する翼さんとか。(1巻pp.27-8)

3巻の口絵の翼さんは、謎のかっこよさですよ。羽ペンを二本持って構える翼さん。(──そして!同じ3巻の「あとがき」の、ガーリーな翼さんとの対比ですね。3巻は翼さんイラストを楽しむ巻と言ってもいい・・・)

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(3巻口絵)

  

(2)そして、その上で、滲み出る可愛さ、というのが、たまらなく素敵なのです。

(a) まず、少年的な可愛さがありますよね。

寝ながら話す翼さん。

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(1巻p.33)

 

3巻の表紙がいいですよね。熱く語りかける翼さん、よくわからないが流されてあせるかおす、みたいな。

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 (3巻表紙)

 

(b) でもそれだけじゃなくて、やっぱり時々見られる少女らしさですね。

3巻では、翼さんの実家でのエピソードがありますが、これはよかったです。なんだかドキドキしながら読みました(かおすと一緒に、秘密を見てしまっている、ような)。

 

あとは、小夢ちゃん(少女漫画家)とお出かけ、というエピソードなどで、仕方なく女の子らしい格好をさせられてしまう〜、というような場面。あのちょっと恥ずかしそうな感じとか。男の娘ふうの良さがありますね・・・とはいえ翼さんは、普通にもともと女の娘ですが。(1巻pp.98-9, 3巻p.62など)

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(3巻p.62、少し恥ずかしがる翼さん)

 

まとめますとね、

【翼さんの複合的な魅力】

1 かっこよさ

2 可愛さ

 2a 少年的可愛さ

 2b 少女の可愛さ

 (+2a’ 「女の子の格好をさせらてしまう〜」の可愛さ)

 という、あらゆる多方面のステキ要素が複合されているキャラなのです。

 

翼さんてクールでかっこいいし…

優しくて王子様みたいな時もあるし

むじゃきでかわいいときも…

(2巻p.95)

という、小夢のような気持ちになります。

 

◆「きらら」と少女漫画との関係

作者の方が『りぼん』で以前お仕事されていたようなのですが、そちらの作品も読んでみたいという気になっています。昔、家族・親戚が持っていた『りぼん』を時々読んでいましたが、けっこうギャグマンガとか4コマ漫画も載っていて、それらが好きだった記憶があります。少女漫画誌なので、ギャグなんだけれども、最終的に可愛いのです。

 

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(『MAX』2017年4月号)

・・・そういえば、『MAX』2017年4月号の回(単行本3巻より後のエピソード)での、かおす・みきの二人の会話に関係がありますね。「真・ピュア」(欄外紹介)な美姫ちゃんが、少女漫画誌ときららとはどう違うの?と尋ねます。

似ているけれども違うという、まあ、はっきりとした答えは述べていないですけど、深夜アニメを見ている場面におけるかおす先生の心の中の声が、とりあえずの答えなのかもしれません。

だけれども、同じ作品を見ていても、みきちゃんは、違う感想を抱いています(こちらは声に出して感想を言っている=声に出して「言える」)。

 

だから、漫画家の方にとっては(あるいはこだわり派の読者の方や、なにか「漫画の研究」のようなことをされたい方にとっては)、この「違い」ということがとても大事なのでしょうけれども、娯楽として楽しむ側としては、ゆるやかにつながっているというくらいで捉えておけばいいのではないかと思います。

 

確かに、この号(2017/4号)の『MAX』ごちうさの表紙(メリーゴーラウンドに乗っているココア・チノ、あ〜素晴らしい・・・)は、多分、知らない人が見たら、少女漫画誌だと思うだろうなと、表紙を閉じながら見て思っていました。

 

 

 

すべてが「日常」化される:『ガヴリールドロップアウト』感想【補足】

使命を失った天使。
使命がなく、行き場を失うのは、当然である。

 

(以下、前回記した「感想」への補足。

前回記した「感想」: 

miusow.hateblo.jp

[この記事を貼り付ける機能を初めて使ったので、うまくできるかな・・・]

これはさらにその補足で、もはや通常の意味での「感想」からは、だいぶ離れているような気もします。 )

 

 

「活きた自然」のない時代にあっては、

彼女たちは単なる概念としてのみ可能であって、健全な形で肉体を得ることは不可能であある。

(例えば、無機質な見滝原市においては、まどかは健全な仕方で、ほむらちゃんに会いに来ることができない、のと同じであろう。)

 

彼女たちの、悪魔的行為も、天使的な振る舞いも、

人間には理解されない。(大晦日の回・第9話など)

 

それは、何かの余興、コスプレ、といった形でしか、理解されない。

 

行事を好む悪魔(ヴィーネ)が、印象的である。
宗教的行事もまた、単なるイベントである。(第9話)
完全に現世的なものにすぎない。(クリスマス、お祭り、といった典型的な日常系作品的イベント)

 

全てが矮小化され、陳腐化される。現世的なものに変換されてしまう。聖なるものの、この無力さが描かれている。そしてその無力さすらも、彼女たち自身が、楽しんでしまっている。下界にいるうちに、彼女たち自身もまた、その使命を忘れかけて行く。(「本物の」天使姿は、いまやガヴにとって「仮装」である。〜ハロウィン回・第6話。)

 

というよりもむしろ、使命など、もうないのだ。何も彼女たちがすることなど、残されていない。

そもそも神が行うのは、現世的な救済ではなく、魂の救済であるが、もはや人々はそのようなことを求めていない。求める能力すらない。「社会」の中で完結してしまう、その程度の生である。

それゆえ、当然ながら彼女たちの現世における仕事など、いまやないのである。

天使や天使学校の校長は登場するものの、神が登場しない(ようにみえる)が、彼女たちが知らされていない、気がついていないだけで、もはや神はいないのではないか。

 

神の死亡宣告は有名であるが、正確には、最初から死んでいた、というよりそんなものなかった、というべきなのである。

 

天界の遊びが昭和で止まっている、古い、という描写がある(帰省の回・第10話)。そういうギャグなのだけれども、つまり、天界は、現実世界とずれているのだ。(実際には昭和どころか、500年以上、あるいは2000年ずれていると言ってもいい。)

もはや天使の居場所がない、ということに気がついていない。

それなのに毎年せっせと留学生を送り出している。それほどに、彼らは能天気なのだ。


おそらく、「つくった人たち」はそんなこと絶対に考えていない、という人がいるかもしれない。私もそう思う。作品の成立は、作品の理解と切り離せない。作品の理解は、著者の意図を超えることの方が、むしろ普通である。

 

 

 

 

天使の居場所がない時代に:『ガヴリールドロップアウト』感想

ガヴリールドロップアウト』。

 どうも、この春のアニメがあんまりしっくりこなくて、昔のものをいろいろ見てみたり、昨シーズンやっていたもので、まだ見ていなかったものなんかをゴソゴソと出してきて、いま見ている途中なのですけれども、これ、なかなかいいですね。

原作は知らず、何か紹介の文章のようなものを読んだときは、天使だとか悪魔だとかっていうように、どうにも込み入った設定のような気がして、実際どんな作品なのか、日常系な感じなのか、ピンとこずに、見ないでおりました。

が、配信サイトの「こちらもおすすめ」「他の人はこんなのを見ています」に出てきていたので、多分いいのではないか、と思い、見てみました。

 

なるほど、これはとてもおもしろかったです。非常に自分の好みにマッチしています。

 

善悪の彼岸

ガヴリールドロップアウト』というタイトルがそのままで、天使が堕落してしまう、それも現代的な意味で堕落してしまう(引きこもり、ネット中毒・・・)、というお話ですが、それだけでなく、逆に悪魔の方がまるで天使のようにいい人だったり、あるいは「人がいい」感じになっていたりする。また天使のような笑顔で、中身が悪魔のようなことをする、そういう天使も出てきます。──まさに「善悪の彼岸」。

 

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(オープニング。ジャージ姿の天使ガヴリール。)

 

オープニング曲も、気がふれる直前のような、ギリギリの感じが出ていていいです。(わざとらしい「神聖な」雰囲気の声・曲調で嫌味なことを言う、等。)

 

天使ガヴリールは、気軽に「世界が終わるラッパ」を取り出してしまいます。

「オワタ」が一時期流行りましたが、とても嫌なことがあると、割と簡単に「世界が終わった」みたいなことを言いがちな風潮があって、それで本当に世界が終わってくれるなら楽でいいのですが、実際には終わらず、むしろその嫌なことを抱えたまま世界は続いていってしまう。しかし彼女たちは本当にそれができてしまうのであり、そんなノリで、ラッパを取り出してくるあたりが、とても皮肉な感じで、ニヒリスティックで、ヒリヒリする。

 

マニエリスム(もはや天使の居場所はない)

・・・そうですね、ニヒリスティック、ニヒリズムがこの作品全体を支配しています。とても退廃的です。

それというのも現代がニヒリズムの時代であるから。

(正確に言えば、世界の「終末」ということすら、「オワタ」のノリでしかなく、リアリティがない。とすれば、なるほど我々は、真のニヒリズム「にすら」到達していない、ということになるかもしれません。)

 

もはや天使も悪魔もいなくなったあとのマニエリスム以降の時代、「脱-魔術化」した世界に、本当の天使も悪魔もいるわけがないのです。いるとするならば、「不幸な意識」に分裂した理性が見る夢の中で、形而上学的概念としてのみ存立しうるであろう。いずれにしても概念としてであって、生き生きと自然に「内在」する魂としてではない。つまり、「自然」(フュシス)を「超えたもの」(メタ)=「形而上学的なもの」(メタフュジカル)として、彼岸においてのみ夢見ることが許されるものにすぎない。それは、直接に人間を助けに来てもくれないし、逆におびやかしもしない。

 

したがって、彼女たちが天使や悪魔であり得るのは、天上(あるいは魔界)においてのみであって、一度そこから出てしまうと、もはや何者でもなくなってしまう。

彼女たちは、「自然」(=下界、人間界)に降りてきていながら、人間たちとはほとんど交流せず、彼女たちの閉じられたサークルの中で、ダラダラと日常を過ごしていく。

そして、その閉じられたダラダラとした日常の中で、もはや普通の人間でも用いるであろうような日常会話程度のレトリックとして、申し訳程度に、天使や悪魔などという言葉を弄んでいる。彼らのなす善行も悪事(「デビルズアクション」とも言う・・・)も、とてつもなく小さなことに過ぎない。

 

この世界には、もう500年ほど前から彼女たちの「居場所」は失われており、無理にこの世界に降りてきても、引きこもるしかないのである(家に引きこもる天使、隠れて昼食を食べる悪魔、閉じられた交友関係のサークル)。

 

◆「否定の契機」に耐えられない人たちのために

では一方でこのような物語を思い描いてしまい、また共感してしまう我々人間の側から見れば、これはどういう事態なのであろうか。

 

一つには、主人公のガヴリールが手掛かりになる。

本当は(本気出せば)成績優秀で、髪もドライヤーで梳かせばサラサラで美しいんだけど、あえてここではだらしなく引きこもって、宿題なんか自分でやらず、周りを軽蔑して生きているんだ、という彼女の雰囲気は、この作品を受容する人たちの、少なくとも一部の雰囲気を反映しているのではないだろうか。本当は天使だし、頭がいい、ということを(それが妄想・虚構であるとしても)、心の中の密かな拠り所にしつつも、ダメな自分をいつまでもダメなままに甘やかしながら生きていきたい、といったような精神。

 

つまり、天使はいると思っていた、あるいは自分は天使だと思っていたが、気がつけばそんな時代はとっくに終わっていた、だからこんな薄汚れた世界を心の中で軽蔑しながら、バカにしながら、見下しながら、引きこもって生きていきたいのである。

 

まさに、他者・市民社会という、襲いかかってくる「否定の契機」に耐えられず、分裂した精神のまま、その分裂を大事に抱きかかえていたいと思うような、「不幸な意識」。彼岸に(形而上学的概念として)天使を夢見ながら、この此岸を見下し、軽蔑しながら生きていきたいのである。

 

◆でも『けもの』が流行る世界でよかった

同時期に放送していた『けものフレンズ』の大流行ぶりと比較したとき、この『ガヴリール』に共感してしまう私は、とてもホッとした気持ちになる。

 

『ガヴリール』ではなく『けもの』が流行する世界(此岸、この世)でよかった、と。

 

なぜなら、(例えば私のような)ガヴリールは、とても前向きで建設的なお話たる『けもの』を支持する人たちの、前向きで建設的で「脱魔術化」された市民生活を前提としてのみ(そこに寄生してのみ)、(精神的に)引きこもっていられるのだから。

 

◆日常系作品に共通するもの

しかし、『けいおん!』をはじめとするいわゆる日常系作品の多くは、その穏やかで暖かい雰囲気とは裏腹に、それがこの現代において制作され、共感されているということを踏まえると、実はどれも、皮肉で、ニヒリスティックで、退廃的で分裂したものである、ということが指摘できるのではないか。この『ガヴリール』のように、逆転した天使と悪魔が登場しても・していなくても、実は同じなのである(『けいおん!』にも、あずにゃんという「天使」は登場する。・・・つまりあずにゃんもまた日常系アニメの天使であるならば、それはまた現実の世界では存立しえず、分裂した意識の夢見る形而上学的概念としてのみ可能なのである)。

 

 

 

 

◆(メモ)

あとやっぱりこの作品で大事なことは、

サターニャちゃんがかわいいです!!

ということです。

(大室櫻子的な良さ。自分がガヴリールだったら、もうちょっとサターニャを可愛がってしまうだろうと思う。)

 

 

 

「きららフェスタ2017」メモ:ごちうさ関係中心

 「きららフェスタ2017」夜の部に参加しましたが、それに関する、とても簡潔なメモです。また、とても偏っています。

 

◆パンフ抜粋

──マヤと遊園地に行ったら、という話

マヤに手を引っ張ってもらいたいですね! あれに乗りたい、これに乗りたい、というマヤについて行くのが楽しいと思います♪ ソフトクリームとかポップコーンとか、マヤにおねだりされちゃったら絶対買っちゃうと思います(笑)。マヤを甘やかしたいですね…!・・・

徳井青空さん、『きららフェスタ2017パンフ』p.24)

なんとも微笑ましく読みました。

確かに、マヤを思いっきり甘やかしちゃいたいです。なんでも買ってあげちゃうし、お小遣いもあげちゃう。

 

◆告知類(一部)

 ・ごちうさ劇場公開の日が決定。2017/11/11

具体的に日付が示されたので、もう安心ですね。

待ち遠しい!!・・・けど、観たら終わってしまう、という複雑な気持ちが、今からすでに。

 

ごちうさキャラソンシリーズ2017

ごちうさの曲がどんどん充実していく。

 

・『AチャンネルBlu-ray BoxのCM

ちょっと欲しいけど、どうしようか。やや高めか。新作OVA付きではある。劇中歌CDも付く(これが大きい)。9月発売なので、悩む時間はある。とりあえず「予約注文する」しておいてから悩むか(うまいこと忘れてしまったら、もうそれでいいわけだしね)。

 

・『こみっくがーるず』アニメ化(→別記)

 

・「きらら」のスマホRPG『きららファンタジア』

これは面白いのかな。気にならないわけがないけれども・・・。

ごちうさのエイプリルフール企画のRPGみたいなやつがあったが、こちらは本当の話なのです。むしろあれは伏線だったのか。(とはいえ、このゲームには、ひとまずはごちうさは不参加のようである。)

そんなにいくつもゲームができる自信がないし、どうしよう(『まどマギ』のも始まるようであるし)。とはいえ、始まったら、とりあえずログインはしてしまうのだろうな。それで、うっかりいろいろやりだしてしまう、ということもあるかもしれない。

 

ただちょっと思うのは、日常感を求めてのきらら作品だから、独自のファンタジー的設定でのゲームは、少し違うのではないかという感じもある。もちろん、きらら的日常感というのも、そういう一種のファンタジーなんですけどね。

 

ゲーム内で、ゆのっちが何かキーマン?のような感じだったけど、ゆのっち大丈夫なのか、という気もした(あっちの世界ではたくましくやってる、みたいな設定なんでしょうか・・・ひだまり荘でも全然たくましくないというわけじゃないですけど)。

 

◆『こみっくがーるず』アニメ化、ちょっとだけ映像

こみが。と勝手に呼んでますが(と思っていたら、アニメ公式サイトのドメインがコミガアニメでした)。 

漫画を読みながら、これアニメ化したりするのかなあ、アニメになったら、オープニングはどんな感じになるんだろう、とか、なにも決定していないうちから、いろいろ妄想を膨らませていましたが、きららフェスタで、ちょっとだけですが、動いている(ように見える)映像が見られて、おおおーーーー!となりました。 

早く見たいです。(放送時期は未定ですが、来年春くらいになるのではないか。なんとなく。) 

翼さんもかっこよかった。楽しみすぎる。

漫画は3巻がようやく出る、という段階だから、原作エピソードは全部アニメ化されてしまう感じでしょうかね。 

 

チマメ隊の様子

チマメの声優さん3人が、ずっとくっついたり、いろいろ話していたり。

だんだん、本当にチマメがそこにいるように思えてくる。本当にかわいいんですよ。

 

夏服を着ていらして、スカートのちょうどいい広がり具合。かわいい。

 

「ときめきポポロン」を今年に入ってからもう3回も生で聴いている。なんという幸せ。生きていてよかった。 

振り付けなんかも、今回ゆっくり見られました。いいです。振り付けを覚えてしまいたいです。

 

 

ごちうさのメンバーは、ゲームコーナーなどでも(途中で茅野さんもNEW GAME!から転籍?して参加)、細かいやりとりなんかを見ていて、本当に仲が良さそうで、楽しそうにしていて、幸せになりました。 

 

朗読劇も、非常に安定感のある、安心して楽しめる感じの内容でした。朗読劇っていうのは、毎回、一回きりだからもったいなよなあ、と思ってしまいます。映像はなくても台本などはどこかで読めたら、と思います。

 

◆『うらら迷路帖』の皆さん

『うらら』の出演者の方々のことはよく知らなかったのですが、全体的にまったりとした雰囲気でいらして、癒されました。千矢役の原田さんは、特にまったりとした雰囲気の方でした。

もう一回、『うらら』を見返してみたいと思いました。

 

また、ノノ(この子はとても可愛いです)役の佳村さんが、マツコさんの声を、本当に・・・と言って、疑っていたわけではないのですが、しかし実際に目の前で一人でされているのを見て、驚きました。朗読劇で、絶叫するマツコさん→優しく話すノノ、というように、切り替えて演じていました。

 

 

 

 

何か少しでも頼りになりそうなもの:ライブ、蘭子語、ロバ祭り

 ◆

まんがタイムきららフェスタ」に今年も行く。

 

この集まりでは、最後、みんなで声を合わせて、

 

まんがたいむ~~・・・[←出演者の方々]

きららーーー!! [←全員で]

と、叫ぶ。

 

「きらら」というワードをみんなで叫ぶという体験。

もちろん、いろいろなコーナーや歌が楽しみであるというのもあるのだけれども、私の場合かなりの割合で、最後のこれがやりたいがために行くのではないか、という気もしてきた。こういうのが好きなんだ、ということを、いっせいに盛大に「告白」する(=信仰告白)。なかなか日常生活ではできない。

 

なるほど、これは、まるで何か得体の知れない、宗教的な集まりのようだと、部外者には思われるかもしれない。

(昨年、隣で同じ日に行われていたジャニーズ系のコンサートの参加者が、「この列なに?」みたいな感じで通り過ぎて行っていたのを思い出す。)

 

しかし、これに限った事ではなく、いわゆる宗教的と言いうるような振る舞いは、こうした「現代視覚文化」コンテンツ界隈のファン行動では、しばしば見られるものである。(例えば、宗教的な比喩、語彙の使用。尊い、女神、天使、聖地、・・・。)

そしてこれらの現象に対して、ネガティブな意味合いをこめて、「まるで宗教であり、だから危ない・おかしい」というように言われる場合も多いように思われる。

しかしながら、これは「二重の意味で」宗教に失礼である。

第一に、それが宗教あるいは宗教的なものであるとして、何か問題があろうか。たいていの人間には、何か宗教(のようなもの)が必要なのではないか。

第二に、それは宗教「ですらない」。

 

◆(1)宗教、のようなもの

──そもそもキャラというものは、何か目に見えない精霊のようなものに似ている。だから、形のないものの空虚な中心に向かって、懸命に内実を与えていく作業というのが、こうしたコンテンツの界隈ではいつも行われるのである。

自分にとって大事なもの・生き生きとして見えるもの(キャラクター、コンテンツ、等)が、形がなく空虚であるなどということは受け入れがたいことであって、そんはなずはない。そこで、さまざまな仕方で、その内実を充実させてしまわなければならない;

・フィギュア、グッズ等の「偶像」による具現化(=立体化)を通じて、執り行われる場合。 

・キャラクターソングなどのライブにおいて感じられることも、身体的な振る舞いによって、キャラの中身を実体として埋め合わせていくプロセスである。観客は中心のないものに向かって熱意・声援を送るという身体的な振る舞いを通じて、そこに本当にあるもの、具体的なものにしていくのである。

・しかしとりわけ重要なのは、ステージ上の出演者の振る舞い、とりわけ「声」というものを通じた、具現化である。 

それは、精霊のような存在に、その「声」を通じて肉体を与える存在である(=声優さん)。 

 

神崎蘭子のモチーフ

・・・と、このように言うと、なんだか蘭子語みたいだけれども、

「蘭子語」にみられるのも、宗教的なモチーフである。

もちろんそれは本当の宗教ではないし、単にそれらしい言葉を散りばめているだけ、なのであろうが、何かそのようなものへの憧れが背景にあるのは間違いない。

ゴスロリの「ゴシック」というのは言うまでもなくゴシック建築のゴシックであって、とうぜん宗教的な背景がある(高い天井・ステンドグラスの大きな窓・多声音楽による「崇高」な空間)。

歴史的背景、伝統、つまり、何か「重み」のあるもの、これらのものは、少しでも頼りになりそうであるから、そうしたものからモチーフだけでも借用するのである(あるいは、そうしたものへのロマン主義的憧れ)。 

神崎蘭子もまた、(何か少しでも頼りになりそうなものとしての)ゴシックに身を包み、それに支えられることで、どうにかここまでやってこれたのであろう(「私を守る繭であり鎧」)。

「現実の幼い私は、なにもできない、弱くて臆病な存在……。[・・・]

だから、いつしか、私は変わったの。

弱い自分を守るための、殻……それが、闇より生まれた、いまの私。[・・・以下略]」

(『デレステ』「ストーリーコミュ」第12話) 

「私を守る繭であり鎧……

漆黒の魔法衣(ゴシックドレス)をまとう場所よ……!」

(同前)

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◆否定の契機:市民的主体の浄化

また、このように蘭子が蘭子語を話し蘭子になりきること、あるいは現実の我々が蘭子などのキャラになろうとすること(コスプレ)、

あるいはまた、そこまでいかなくとも、キャラへと思い入れや感情移入を行うということ、

あるいはさらにまた、市民社会において(時に汚く)稼いだお金を崇高なキャラへと「お布施」すること、

これらの行為は、いまここにおける具体的な身体を備えた自分自身が、キャラへと同一化していくことで、その内実を充実させていこうとする営みであると言えるが、

同時にここには、自己犠牲、否定の契機が見出される。

 

この否定の契機を含む過程は、自分というものがキャラと同一化していき、やがて消滅していくような過程でもあって、それは、市民社会的主体としての、日常の馬鹿げた欲望や薄汚れたことでいっぱいになっている自分にとって、浄化作用のようなものをもたらすのではないかと思われる。

(例:多少汚く稼いだお金も、崇高なものへのお布施によって、手元から離れ、自分自身が浄化される。)

  

◆(2)「ロバ祭り」、あるいはそれ以下

とはいえもちろんこれらの宗教ふうの実践は、本当の宗教などではないであろう。

 

宗教的なものが何か必要だけれども、本当の宗教にも耐えられないような(私のような)「弱い人間」が、

ギリギリのところでなんとか見つけた、宗教に似た何かであろう。

 

しょせんは「ロバ祭り」*1、いや、ロバ祭り以下の何かだろう。

 

・・・とはいえ、それで今日もなんとか生きていけるのだから、そんなに馬鹿にしたものでもない。少なくとも「有益」なものであろう。

現代において、本当の宗教を信じることもできず、かと言って「超人」になることもできず、とはいえなにかそれらしいものを求めるひとにとって。

*1:Nietzsche, Zarathustra, 4.