miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄を中心に、私の個人的な雑記等も書き記しております。

あんきらについて、「可愛さに憧れる可愛さ」:CD『あんきら!?狂騒曲』を記念して

 今回CDになって、2番以降の歌詞が明らかになりました。

いつもキラキラだけど、ホントは繊細なとこも

照れ屋さんだけど、ホントはやさしいとこも

知ってるし

大好きだにぃ

(「あんきら!?狂騒曲」)

1番だけしか公開されていない段階では「なんだこの歌は!(とにかく楽しい歌ではあるけど)」という感想で終わりそうでしたが、このような2番が隠されていたんですね。

とはいえ、1番でも既に、「やっぱり一緒がいいよね?」「うん、いいんじゃない?」(この杏の答え方)という、少し抑制された表現が登場しており、ここから何かを感じ取っていた人たちも多かったのではないかと思います。

 

この機会に、「あんきら」というものについて、いろいろ推察(妄想)を重ねたことを、記してみたいと思います。特に今回は、二人の、「可愛さ」というものへの距離の取り方、その違いを軸にしてみようと思います。

 

◆小さいこと、子どもであること

双葉杏は可愛い。小さくて可愛い。妖精。

 

私はこの作品(デレステ及びアニメ *1)で、あんきらと、小さいアイドルたちが好きだが、

 

──つまり、それくらいの漠然とした楽しみ方をしていて、

特に、誰々Pなんです!などと名乗れるような、集中したのめり込み方をしていないのだけれども、

・・・だからその分、ガシャを引いたときの、自分的なヒットの確率は結構高いので(要するに、あんきら+小さいアイドルのいずれか(の何か)が出て来れば大喜びするから)、そこそこで楽しめているんだけど──、

 

まあ要するにあんきら好きも、「小さいアイドル好き」の延長であろうし、くだけた言い方をすれば、私がロリコンだからだろうと思います・・・。

 

 ◆「小さい」きらり

 きらりんは大きいじゃないか、と思われるかもしれないけれども、必ずしもそうではなくて、というのも、

きらりんは確かに小さくない、大きいアイドルですけれども、雰囲気も、中身も、多分に「子ども」の要素を持っている。

 

あんきらの良さは、まず見た目という点では、まちがいなく、杏が子どもできらりんが母親のような関係に見えるところで、二人が手をつないで歩いている様子(イラストなど)は、本当にそれだけでキュンとしてしまうのだけれども、それは、そのような親子的な微笑ましさがあるからだ。

 

そして、やっぱりきらりんは、そういう外面的・表面的なレベルで言えば、確かに保護者役のようなものを買って出ているところがあって(「甘やかしている」感じもあるが)、杏の自宅マンションにまで行って寝坊している杏を起こそうとしたり(その様子を見ていたい)、サボタージュする杏を探して追いかけたり、レストランであんずの口の周りに付いたケチャップを拭いてあげたり、といったような場面が見られる。

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(『アニメ』エンディング[この絵を飾りたい])

   

だけれども、それは外面的・役割的な振る舞いであって、まさにそのような外見に基づく関係、つまり両者の外見から暗黙のうちに社会的に期待されがちな役割に従っての振舞いにすぎない。*2

 

それに対して、そのような外面的な規定を超えた、二人の内面的なつながり方においては、この二人の関係は、必ずしも保護者・子どもというようなものではなく、どちらがどちらであるとも言えないような関係、むしろ場合によっては逆に、杏の方が大人びていて、きらりんの子供っぽさをわかった上で受け止めてあげている、というような側面がある。

 このようなあんきら関係の特質について、今回は、それぞれの「可愛さ」への距離の置き方の相違を手掛かりに、考えてみることにする。

 

◆きらりにとっての「可愛さ」

 きらりんは、そのままでは自分は可愛くないはずだと思っていて、いかに自分自身を可愛く「デコる」かということに熱心である。かわいさというものへの憧れ、幻想、ファンタジーを信じていて、人からもそう言われたいし、自分でも自分のことをそう思いたい。 

(確かに、可愛いもの好きではあっても「自分がなりたいとは思ってなかった」とPに語っている場面があるが(R特訓エピソード)、これを文字どおり受け取っていいのかどうか。オーディション直後に杏に語っているところによると、「きれいな衣装、すてきな歌、キラキラのステージ」の「アイドルにな」ることは「憧れ、だった」(「ストーリーコミュ」第10話)。)

 

また、先日のイベントで獲得されるSRのコミュも参照しよう。

「きらりん、きゃわゆい女の子になれたかなぁ?

・・・

きらりんは、背がちょっぴり高くて……

普通の女の子みたいにできないことは、いろいろあって。

でも、きゃわゆくなりたくて……。」

(「[With Love]諸星きらりの特訓エピソード」)

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◆杏にとっての「可愛さ」

その反対に、杏は、自分が生まれつきすでに可愛いということがわかっている。

 

小さい頃から、杏ちゃんは可愛い可愛いと言われて育ったから、アイドルならやれるかな〜と思った、などと、淡々と語っている。(こういうところがまたいい。「双葉杏とのメモリアル4」)

あるいは、自分は「誰もが認める美少女妖精キャラ」なのだから、努力する必要はない、とも言っている。(「双葉杏とのメモリアル2」)

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杏は自分がそのままで可愛いということを自覚していて、それを必要に応じて活用しつつ、普段はよれよれのTシャツを着て過ごしているのである。

 つまり、可愛さというものに客観的な距離をとった上で、必要に応じてそれを利用して(楽して)稼ごうとしている。自分の可愛さに対して冷静で、他人事のようである。

 

◆きらり→杏(1):「可愛さ」

つまり杏にとって可愛さは、デフォルトの状態、当たり前の状態であって、憧れるべき理想ではないのはもちろんのこと、本人も見たところそれを重視していないし、他人事のようである。親から受け継いだ資産の一環として、収入源として使えればいいという程度のものである。 

その逆に、きらりにとって可愛さとは、目指すべき理想であり、絶えずそのために実践することが彼女が生きるということですらある。

したがって「初めから可愛い杏」は、その意味できらりにとっては憧れでもあり、尊い存在でもあるのだろう。

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 (「シンデレラガールズ劇場」)

 

杏の髪を結ってあげている「一コマ劇場」がある。 

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 杏は無関心、というより、結ってもらわなくていいという感じだが、きらりんがそうしたがっている様子である。ここには、可愛い杏をもっとかわいくしてあげたい、という気持ちが読み取れる。 また、ゲームに没頭する杏の姿からは、彼女の自分の可愛さへの価値の置き方、距離感が読み取れる。 

 

◆杏の目指すもの?

では、杏は何を目指しているのか。

特に何も目指していない、ということになるのかもしれない。

 

まず、小さいのだから大きくなりたいと思っているのではないか、ということが考えられるかもしれない。例えば「ルーム」にいる杏が、「コドモっぽい衣装だけど…飴くれるなら、ま、いっか♪」と話すことがある。ここから「子どもっぽい衣装」が、やっぱり嫌だ、大人っぽい衣装を着たい、という気持ちを読み取ることもできなくもない。

(実際、身長だけでなく実際に小さい年齢のアイドルは、佐々木千枝のように、大人のアイドルになりたいな、というような憧れを口にすることがある。可愛い。)

 

しかしながら、杏は「飴をくれるならまあいいか」と言っており、それほど嫌なわけでもなさそうである。

というよりも、子供らしくて可愛い外見というものが、飴玉=収入を生むのであれば、利用したらいいじゃないか、というような、やはり前述した通り、杏らしい冷静で他人事のような「可愛さへの距離」がうかがえるのではないだろうか。

 

むしろこうだろう。杏の目指すところとは、何かを目指すということをしない、ということ、言い換えれば、何か特定の目的を目指さないという生き方、目的に拘束されない生き方なのではないか。そこに自由があり、戯れること、楽しさがある。このことを杏は知っている。──こうした杏の世界観については、「スローライフ・ファンタジー」においてよく表現されており、別途記したことがある。

 

(要するに、杏は大人である、というより、大人すらも超えてしまっている。大人になりたいという気持ちは、子どもが持つものである。大人などというものに、無邪気に価値を見いだすことも、もはやできないのである。)

 

◆杏→きらり:「可愛さに憧れることのできる可愛さ」

では、杏はきらりの何に惹かれているのか。

「やっぱり一緒がいいよね?」「うん、いいんじゃない?」という杏は、なぜそう答えるのか。

 

もちろん色々あると思うが、一つには、思うに、少し屈折しているが、「可愛さに憧れることのできる可愛さ」があるのではないか。

 

生まれつきカワイイカワイイと言われて育った杏にとって、可愛さは憧れでもなんでもなくただの事実であって、選択の余地なく親から引き継いだ資産のようなものにすぎない。したがって、「かわいくない私が、かわいくなる」というまさに「シンデレラストーリー」が、あらかじめ絶たれているのである。*3

 

そして、そんな「かわいくなりたい」シンデレラストーリーを素朴に信じ、大切にしている女の子は、本人の自覚とは裏腹に、「すでに十分かわいい」。

 

だから、まだそういうシンデレラの階段をのぼる楽しみが残されているきらりんのことが、かえって杏にとっては一種の憧れの対象でもあり、その夢中になっている姿はほほえましくもあり、また、子どものようでかわいくも思えるのである。

  

◆きらり→杏(2):見守ってくれること

そして、きらりが杏に惹かれる理由が、ここでもう一つ見つかる。

すなわち、そのように杏が微笑ましく見守る気持ち、である。

小さな杏から、微笑ましい眼差しで見守られると、きらりんは、その杏よりももっと小さくなった気持ちになるであろう。

自分を子どものように可愛がってくれる人がいるということ。これはきらりんにとってとても嬉しいことなのではないだろうか。

再度引用。

いつもキラキラだけど、ホントは繊細なとこも

照れ屋さんだけど、ホントはやさしいとこも

知ってるし

大好きだにぃ

(「あんきら!?狂騒曲」)

 

要するに、あんきらという組み合わせの絶妙さというのは、いわゆるギャップの良さというものが、あんず・きらりのそれぞれにおいて見られるのみならず、相互の関係においてもそれが入れ子状に働くことによって、何重ものギャップがそこに見られる事態となっている。その結果、なんとも言えない、中毒性すらあるような絶妙な味わいが、そこに生まれているのである。

 

 

 

*1:私のこの作品の体験は、デレステとアニメ、あとは関連CD、コミックス等だけです。 

*2:

おそらくきらりんは、普通に考えると、成長期を境に急に背が伸びたものと思われるが、要するにそれくらいの年齢からつねに暗黙のうちに、周りから、その身長に応じた振る舞いを求められてきたに違いない。知らない人からは実際よりも学年が上に見られてしまっていたであろうし、年齢を知っているはずの友人・教師なども、無意識的に、頭が一つも二つも飛び抜けている彼女のことを、お姉さんであるというように錯覚してしまうようなことがあったのではないだろうか。──そのようにしていつも暗黙裡に期待される振る舞いのコードは、彼女の、少なくとも表面的な振る舞いを規定してしまうのである。

逆に杏は実際よりも低い年齢に見られてきて、そのような振る舞いを期待されてきたのではないだろうか。飴玉が好きというのは、単に好みかもしれないが、小さい子どもに飴玉をあげれば喜ぶだろうという安易な考えから、周りの人がよく飴玉をくれたのではないだろうか。[子供らしいわがままを言い、飴玉をあげると喜んで素直になる、という振る舞い方を周りの人は杏に期待し、その通りになると周りの人は安心する。]

*3:正確には、自分はかわいくないと思い込んでいた私が、実は可愛かったと気がつくまでのストーリー、と言うべきだろう。

 

萌えアニメの「壁」:『ごちうさ』、『うらら』、『ひなこのーと』

 

アニメ、特に一般に萌えアニメと言われているものが、基本的に、はっきり言えば、私は好きなんですけれども、
ただどのそういうアニメも、たいてい、最初の方は、「ちょっとこれは無理だ」と思ってしまいます。

だけれども、しばらく見ているうちに、その「壁」を乗り越えて、むしろ抜け出せなくなるっくらいハマる事があります。
そこまでいかなくても、なかなか良かったなあ、と思える事が多いです。

ただ、どういうわけか、最初は、ほぼ必ず、何か「壁」というか、乗り越えなければならないものにぶつかるのです。

 

つまり、萌え要素がきつすぎる、と感じるわけです。

 

ここにはおそらく何か、自分でも分析しきれていない、過剰な自意識とか、余計な自尊心のようなものが、関係しているのかもしれませんが、とにかく、
これはいくら何でも「要素」すぎるだろう、というように思ってしまい、ちょっとさすがにキツイ、というように思ってしまうのです。


◆『ごちうさ』の壁

今では考えられない事ですけれども、『ごちうさ』も、最初の第1羽の前半は、初めて見たときは、実はちょっときつかったです。

「うっさぎ〜うっさぎ〜♪ あれ、ウサギがいない!」とか(ココア)、
突然下着姿の女の子がクローゼットから出てくるとか(リゼ)、
「あぁ〜、こういうやつね〜」というように、思ってしまいました。
(チノちゃんについてすら、頭の上にウサギって、可愛い子にカワイイ動物載っけてどうすんだよ!可愛いに決まってるだろ!などと思っていました。)

だけれども『ごちうさ』は、第1羽を見終わる頃には、かなりその「壁」を乗り越えて、むしろ良さそうだな、というように思いましたし、2羽、3羽、と見ていくうちに、そして、最後まで見終わって作品を自分なりに反芻していくうちに、気がつけば後戻りできないほどにハマっていました。

もうこうなってくると、再び第1羽を見返しても、何とも(ネガティブには)思いません。ココアさんは初めからココアさんだったんだなあ〜とか、やっぱりリゼ先輩はかっこいい、などと思うだけです。


◆「萌えアニメの壁」

最初ちょっと、きついな、と思うくらいが、むしろ後からハマる傾向があるのかもしれません。

とにかく、「萌えアニメの壁」とでもいうべきようなものが、大体最初にあるものなのです。


おそらく内心では萌え要素を求めているくせに、萌え要素と思しきものがあまりに生々しく陳列されていると、さすがにこれはちょっと違う、と思ってしまう。単にへそ曲がり、妙な自意識が強いだけ、なのかもしれませんが、とにかくこういう傾向があるのです。
同じような人も、結構いるのではないかと思います。


◆『うらら』、『ひなこのーと

昨シーズンにやっていた『うらら迷路帖』も、実は最初の方は、やっぱりつらいと感じたところがありました(あまりにお腹を出しすぎだ、とか)。でもまあ、だんだんそれも普通に感じられてきて(それが普通に感じられるというのも変なのですけど)、それよりも話の内容や、キャラたちの関係などに馴染んでくると、それが気にかかるようになり、気がつけばそれなりに気に入っている、というような流れでした。


そういうことでいうならば、現在やっている『ひなこのーと』については、ただいま3話まで見ましたが、私はまだ「壁」を越える事ができていません。

演劇の話がもっと出てくると、違うかもしれません。
(第1話の、地元における主人公の「かかし」の話は、何だかかわいそう、というようにしか思えず、少し辛いです。)


◆(付記)『NEW GAME!』は最初から大丈夫だった

おそらく、こういう系統の作品には、もちろん、典型的な萌え要素以外の要素も、当然あるわけですが(なければ、たくさんある諸作品が、別の作品として成立していないはずですからね)、最初は、その典型的な萌え要素の方ばかりに目が行き、それぞれの作品独自の要素にあまり気がつかない、あるいは、心を動かされるほどに味わう余裕がない、ということなのかもしれません。そして、次第にその典型的な要素について把握ができるようになると、少し落ち着いてきて、それ以外の要素はこうであり、これらを追いかけていくとなかなか面白い事に気づく、ということなのかもしれないです。

つまり、
「典型的な〜」と思って最初は見ているが、次第に(その作品に詳しくなるうちに)、それほど「典型的」ではないぞ、と気がつく、という感じでしょうかね。

(ただ、そもそも「典型的」で何が悪いのか、という気はします。あまりに「典型的」なものは受け入れられない、という傾向の背景には、何か若干のスノビズムのようなものが、私などには、あるのかもしれません。)


そのせいか、
NEW GAME!』は、お仕事ものというのが珍しい気がしたので、最初からあまり「壁」を感じませんでした。むしろ逆に、「会社」なんていう設定で、よく、こういうきらら作品的要素を盛り込んだなあ、というように感心して見ていたくらいです。

例えば、会社に泊まりで仕事、なんていう、聞くだけでもいかにも疲れそうな場面を(現代社会の生きづらさ、みたいな言葉が思い浮かびそうな場面を)、きらら的な「お泊まり会」ふうにしてしまうなどというのは、なるほど〜、というように思いました。

日常、非日常:ライブ「Chimame March」(東京公演)感想

ライブから帰ってきて、思いつくままにメモいたします。
(忘れないうちにとりあえず、です。ほかにももっと大事な、言及すべきことがあったと思うのですが、こういうライブみたいな体験というのは、一度にどっとやってくるので、とても印象深かったことでも、あっという間に押し流されてどこかに行ってしまいそうになります。)

 


◆衣装など(マーチの衣装、夏服、ライブTシャツ)

スタンド席で、後ろの方だったので、実際のところあまりよく見えなかった・・・。(指定席がよかったんですけど、席が少なそうで倍率が高いのでは?と思い、やめておいたのです。)

歌を聴きにきたんだから、まあいいか、という気もしますが、一方で、素敵な衣装や、振り付けをよく見たかった。
衣装自体は、登場の時点で高いところから出てこられるので、その時に見ることができたのですけれども。

最初の「マーチ」の衣装は、とても素敵でした。「あ、かわいい・・・」と思わず自然につぶやいてしまいました。アルバム紙ケースのKoi先生描き下ろしイラストで着ているものですね。
フラッグを使った振り付けもあったようなんですが(そしてそれはどうやらとても可愛いような感じがしたのですが)、しっかりと確認できず残念。

あとは、学校の夏服ですね。ぴょんぴょんと跳ねたりしながら踊っている様子は、とても可愛らしかった。

 


チマメ隊「てくてくマーチングマーチ」

今回の『パンフレット』(p.14)で、りえしょんさんが語っていた「てくてくマーチングマーチ」の曲のイメージがとても素敵で、そんな光景が見られたらなあ、と、ライブ前に読みながら妄想していました。

「みんながかわいい衣装を着て、シンデレラが乗っているようなキラッキラの馬車に乗って、お城でこの歌を歌っている…みたいな光景がすごく浮かんできて・・・[以下略]」

 実際には、これとは違ったのですけれども、先に述べたように、学校制服ではなくて、「マーチ」の衣装で、ちょっと普段の日常シーンとは違う特別な雰囲気の演出で、やっぱり素敵でした。

 

この作品の大きな魅力の一つとして、たくさんの素敵な衣装がカラーイラストで見られるということがあると思います。それは、私服でも学校や喫茶店の制服でもない場合が多くあり、たぶん彼女たちの夢の中での姿とか、あるいは空想の中での姿というように捉えることができると思います。

そういえば、今回も、「お菓子な夢をおひとつどうぞ♪」について、チノちゃんが夢の中で快活に振舞っている様子をイメージして歌った、というようなことをいのりさんが仰っていましたが、『ごちうさ』は、日常生活と、夢の中の世界とが、いつも行き来するようなところがあるのかもしれません。「まるで童話の中の街みたい」というココアのセリフがありますが(1巻p.32)、確かに、街(=日常生活)の全体を、童話(=夢、空想)が包んでいる、というようなところがあります。

 

 

◆メグ「すいーと・すきっぷ・すてっぷ」
メグの曲についての皆さんのお話は印象的でした。
たしかにこの曲は、従来のメグ曲ともまた違った、いい曲です。

メグにはいつも、大人への憧れというものが少しある。3人中では一番背が高いし、母親が本編に登場していることからも、なんとなく、メグはどんな大人になるのかな、ということが意識される。
と同時に、そういう大人に向かっていく必然的な時間の流れの中で、みんなといつまで一緒にこうしていられるのだろう、というような気持ちになることもあるのだろう。
そのようなメグの気持ちをうたった歌詞であり、メロディーも、楽しいと同時に少し寂しいような感じのものになっている。
(そらまるさんが、この曲は泣いてしまいそうになる、というように仰っていた。)

 

ちなみに、「ねえDreamin'」の曲(=「ナイショのはなしは夢の中で」、たぶんメグの最初のソロ曲)は、(出演者の)皆さんの間でも人気なんですね。おっとりしたメグらしい曲です。
そういえば、『リスアニ!』の「ごちうさ全曲解説」での、この曲を作った方のインタビューが印象に残っています。曲としてあまり派手ではないのですが、そこに意味があって、メグという子のことをこんなにも掘り下げているとは、と思った記憶があります。

(なお、今さら私などが言うまでもないのですが、この『リスアニ!ごちうさ別冊』はとてもいいので、読まれていない方は、是非、読んでみることをお勧めいたします。ーーそういうブログではないので、またやり方がわからないので、アマゾンへのリンク等は貼りませんが。ーー「ごちうさ音楽」というジャンルの豊かさがわかります。キャラソン等を作った方々のお話は、公式の二次創作とでも言うべきようなもので、作品体験を広げてくれます。)

 


◆チノ&マヤ「Sunshine Days」

この曲に表現されているチノとマヤとの関係が、とても微笑ましく思えます。「ほほえま〜」ですね。

特に良かったのが、『パンフ』でのコメント。

チノ役いのりさんは、「マヤに連れてきてもらった世界」が、「キラキラ」していて、この子と友達になってよかった、という気持ちが出ている、というように語っています(p.16)。(私も、うう〜、チノちゃん、本当によかったね、という気持ちになります。)

また、マヤ役そらまるさんは、おとなしいイメージのチノちゃんだけど、「チノちゃんなりに元気に楽しく歌っている」のでほっこりする、というように語っています(同前)。(マヤは無邪気だけれども、なんとなくチノが最近元気で楽しそうだからよかったな、などと思ってそうです。)

なんというか、それぞれ、チノ、マヤがお互いに対して感じているであろうことをとてもよく表現されていて、グッとくるものがあります。チノ・マヤ、かわいすぎるこの二人。



◆メドレー

大変贅沢なメドレーでした。

 

マヤの「わくわくDIARY」から始まりました。これはマヤらしくて、とても良い曲です。(結局、全部良い曲なんですけど・・・)

 

最後は「WELCOME【う・さ!】」のチマメ特別バージョン。

 


◆『chimame march』・キャラソンシリーズ(2016)以前の曲

「ぴょん'sぷりんぷるん」を聴けるとは!
この曲は全体的にとてもかわいいんですが、特に、メグの「なやむよ〜」のところがとてもとても、たいそう可愛くて、毎回聴くたびに、もうどうしたらいいの!となってしまう。(くるくるふさふさのおさげに埋もれて、ふしゅ〜となっているメグのイメージ。)

 

「きらきらエブリデイ」は、じんわりと感動してしまう曲。

 

こうやって、最新アルバムの曲だけに限定しない選曲がまたよかったでございます。

 

ぽっぴんジャンプ♪」も、「ときめきポポロン」も聴けて、大満足です。

 


◆その他

いろいろなサプライズもあって、びっくりしました。タカヒロさりげない・・・。

 

 

◆もう一度じっくり見たい

あまりこういったライブ、特に立つ形式のものには慣れていないというのもあり、また後ろの方で必死で首を伸ばしながら見ていたということもあって、結構疲れてしまいました。

 

うおーーっと盛り上がりたい、という気持ちもあるんですけれども、一方で、チマメの曲は、3人がそれぞれマイペースにゆっくり進んでいる、そういう「マーチ」のイメージでもあるので(木組みの街の時間の流れ方)、じっくり聴きたい・見たいという気持ちもあり、それは、いつか映像化?するのかな?そのときに家でそういう楽しみ方をしよう、と思います。
(はっぴとか一回では勿体無いので、その時は家でも着ようと思います。)

 

また、追加公演があるそうなので、うまくいったら次はもうちょっと前の方に行けるかもしれない。あるいは、二階席?なんかがとれたらいいなあ。

 

 

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キャラの実体化:けど「はっぴ」を買ってしまった私〜ライブ『chimame march』

「はっぴ」というものを初めて買ってしまった。

 

 

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 もうグッズはやめようと思っていたんですけれどもね。。。
グッズという形じゃなくて、自分は、もう少し違う仕方で、作品を愛することにしよう、と決めたのですが。

 

つまり、
グッズにお金のみならず、時間を結構費やしているという気がして、しかしその一方で、私はごちうさの原作コミックスや、BDを何回じっくり見たことがあろうか、と。

限られた余暇の時間を使うには、もう少し配分を考えねば、と思ったわけです。

 

また、グッズをいくら持っていても、チノちゃんになれない。メグになれない。メグは、メググッズを身につけたりしていないからです。
特にチノちゃんなんかは、チノちゃん装備の私を見たら、ドン引き、あるいは恥ずかしがってしまうのではないか。(これに関して、アイドル作品ではこういう問題は生じないと思います。通常の三次元のアイドルでも、全身、ハロプロ?の〇〇ちゃん(詳しくないのでどなたかわかりませんでしたが)装備の人を見たことがありますが、ああいう感じになるのだろうと思います。そのあたりが、日常系作品のキャラへの応援の仕方と微妙にズレが出てくるところだと思います。)


といって、チノちゃんコスの私を見ても同様に、チノちゃんはドン引きなんでしょうけれども・・・。

ただ、どちらかといえば、チノちゃんに「なりたい」、という気持ちのほうが強く、限られた時間、経済的リソースを振り分けるには、こっちの方に注力しようと決めたのでした。
(前にも書きましたが、チノちゃんを愛でたい、よりも、なりたい、のほうが健全だなどと言いたいのではなく、むしろ逆で、後者の方が倒錯的だと思います。が、仕方がないと思っています。)


・・・決めたのでしたが、グッズというのは何か中毒性があり、目の前にあるとつい買ってしまいます。
なんというか、日常の感覚では結構な金額であるはずのお金が、なんということもなく使ってしまいます。

 

◆キャラの実体化
おそらく、キャラというのには実体がなく、でも実体が欲しいので、手元においておける(しかも日常で使える)グッズというものによって、少しでもその実体のなさ、を埋め合わせようとしているのではないかと思います。だけれども、いくらグッズが増えても、やっぱりキャラ自体がそこに現前するということはないので、未だにキャラを実体として充実させたい、という欲求は、満たされない。これがグッズへの無限の欲求に繋がってしまうのではないかと思います。

さらにこれは、「アニメ大学生協」などのマーケティング戦略に見事に引っかかっているだけなのかもしれませんが、
そんなことはどうでもいいわけです。いい大人ならば、まあ、そういう木組みの街の世界観とはかけ離れた俗っぽい話があることくらいは、知っていますが、それを「知っている」「理解している」ということとは、また別の次元の話なのです(二次元なのです)。

つまり、理解=悟性による概念把握とは別に、感性的に、美的に、酔っているということです。

従ってまたこれは、ごくごく個人的な、私一人の体験であって、だれのものでもない。

・・・といいつつ、こういうことをわざわざこうして書かなければならないあたりに表れているように、やっぱりどこかでそれが嫌だなあ、という気持ちもないわけではないです。だからあんまりそういうことは考えないようにしています。

だからそういうときは、BDを、コミックスを、読めばいいのです。その鑑賞体験においては、やっぱり、こういう市民社会的な俗っぽい世界を超えた、そういったものから逃避させてくれるような、全く私だけの体験があります(あるいは、私と、マヤ、メグ、チノたち、だけの体験)。

こういうことも踏まえて、グッズ等よりは、もう少し別の方向で、作品を愛することにしよう、と決めていたのです。

 

キャラの実体を充実させたい、という欲求も、自分だけの作品体験、あるいは、その体験をもとに、自分の身体を材料に使う(なりきる)、という方向で満たそうと思ったわけです。
特に、自分の身体を、キャラの実体化のために材料として捧げるというのは、素敵なことではないか。(ルソーの『ピグマリオン』的な。)

 



・・・けれども、結局、今回も色々買ってしまい、しかも満足してしまっています。
結局何なんだよ、という記事になってしまいましたが、現実はいまだにこんなところです。

 

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は〜〜、かわいい〜〜・・・

メグ、チノ、マヤ。。。

 

つい顔がにやけてしまいますね、この子たちを見ていると。

 



というわけで、ライブの前の時間を過ごしております。楽しみであります。

 

けいおん!・日常系について考える文章を書きました@「桜高新歓7」新刊(2組14番)

けいおん!は優れた日常系作品である──「日常系」とは何かを考える」という文章を、『けいおん!再検証 Vol.2』という本(同人誌)に、載せてもらうことにしました。

 

【詳細】

三浦想「『けいおん!』は優れた日常系である──「日常系」とは何かを考える」

in: アニメ熟考委員会『けいおん!再検証 Vol.2』(http://jukkouiin.hateblo.jp/

けいおん!聖地オンリーイベント 桜高新入生歓迎会!!7じかんめ、2組14番

2017年5月4日(木・祝)、豊郷小学校旧校舎群

 

その文章の内容としては、

 

・「日常系」とは何か──『けいおん!』と、その他のきらら系諸作品(ごちうさ、ひだまり、ゆゆ式幸腹グラフィティ、・・・等)とから考える

・音楽、部活動の位置付け──『ラブライブ!』との比較、「ただの思い出」

 

というようなものになっており、

日常系作品の本質を、何を描いているかということよりも、その価値観という観点から理解しようと試みています。

 

  

◆内容、趣旨について

けいおん!』の同人誌ではありますが、実際のところ、私の文章は、『けいおん!』よりも、『けいおん!』以外の作品への言及のほうが明らかに長くなってしまいました。

 

ですから、『けいおん!』好きの方にしてみれば、『けいおん!』以外の話が長いな、と思うかもしれませんが、それ以外の作品との比較ということで受け取ってもらえればと思います。

 

また逆に、『けいおん!』についてはそれほど興味はないよ、というような方でも、日常系作品全般に興味がおありの方には、それなりに読むところがあるかもしれません。

 

特に、『けいおん!』をはじめとするいわゆる「日常系」作品を、素直に没入して楽しむことをせず、日常系作品ってなんなんだろう、どうして自分はこれにこんなに惹かれるんだろう、なんていうことを、「考え」てしまうような人(私がそうです)には、何かの参考になるのではないかと思います。

 

 

◆(付言)日常系を「考える」ということの奇妙さ

──ただ、一方で、「考える」という仕方は、本来、娯楽作品、特に日常系作品の受容の仕方として、あんまり相応しくないのかもしれない、とも思います。無反省に没入する方がよいのではないかと思います。「本質」について考えたり、それを筋道立てて人に伝えたり、といった活動が、そもそも余計なもので、純粋な感動、感性における受容を、曇らせるものなのではないか、という気がしています。だから、私(たち)のような、こういう受け取り方があんまり好きではないとか、合わないと思う人は多いでしょうし、真っ当であろうと思います。

 

しかしながらそのような「考える」やり方で受容することを、止めようにも止められない人も(私も含め)いるのではないかと思います(別に無理に止める必要もないとは思いますが)。そしてそのような人にとっては、少し参考になるのではないか、と思います。

 

だからついでに言えば、日常系を好きな人は何も考えていない、とかっていう批判は、的外れというか、逆に的に当たりすぎていて批判になっていないというか、そういうことだろうと思うわけです。というのも、人間というのは、四六時中考え事をしていなければならない、などということはないでしょう。仕事のとき、人生の決断のとき(あるいは「間違えずに電車に乗る」なんていうときも)などには、「考え」なければならないでしょうけれども、人間には、思考能力以外の精神的能力、性質も備わっています(感性、美的判断力など)。そして、そちらにも栄養を与えてあげる必要があるわけで、娯楽作品というのは、そういうものではないかと思います。

 

 

◆経緯など

 

話が逸れましたので、元に戻します。

 

さきほど『けいおん!』だけに関心があるわけではない方にも参考になるかもしれない、と申しましたが、考えてみれば、「桜高新歓7じかんめ」ですので、『けいおん!』に関心のない方はいらっしゃらないところだろうとは思います。

 

こちらのサークルさんの前回のけいおん!の本を、私はまったく偶然に手にしたのですが、そこで「けいおん!は日常系なのか否か」といったようなことが論じられていました。

 

そうした議論のなかで、気になることがありました。

それは、「〇〇は単なる日常系ではない」というような言い方によって、『けいおん!』やその他の日常系作品を評価することがときどきある、ということです。これの何が気になるかといえば、単なる日常系では何かいけないのか、そもそも単なる日常系とは何なのか、ということです。

 

そこで私もこの機会に、けいおん、日常系、というテーマで考えをまとめたいと思い、サークルの方に連絡したのでした。

 

なお、私は基本的に『けいおん!』や日常系作品のファンであり、この作品ジャンルについて根本的に批判的なことは書いていません。それは客観的な評論の態度を欠いていると思われるかもしれませんが、それは全くその通りです。それゆえ私の文章は「評論」と名乗るのも少し違うのではないかと思います。ファンによる随想のようなものと言うべきかもしれません(※注)。──先ほども述べたように、こういう仕方での作品の受容もあるのだという程度に受け取っていただければ、と思います。あるいは、私と同じような仕方で受容している方もある程度いるのではないかと思うので、そういう方は楽しめるのではないかと思っております。

 

(※注 通常は二次創作などで表現するようなことを、文章で説明してしまっている、と思っていただいてもいいと思います。)

 

(・・・ですので、本自体は「評論」ジャンルになると思いますが、私の文章は評論と呼べるようなものではなく、単なる随想のようなものです、ということです。)

 

 

 

「人間らしさ」の称揚、動物キャラ化幻想の限界:『けものフレンズ』感想

(※以下は、この作品をすっかり気に入って、心から愛しているような人の文章ではないですので、この作品が大好きな方は、少し気を悪くされるかもしれません。また、私の理解不足も多いと思います。とはいえ、もちろん何か悪口のようなことを書くことが目的ではありません。) 

 

◆「にんげんっていいな」、技術、啓蒙主義(11話までを見たときの記述)

よくわかっていないながらも録画はしていて、数話溜まってから見ようと思っていたところ、どうやらこれが大変流行っていると知りました(あんまりそうした流行に疎いので、しばらくしてから)。

 

こうなってくると、へそ曲がりな私は、逆に、決して見るもんか、思うようになりました。

・・・でもやっぱり見たいから、

最終回まで終わって、皆がこれを忘れかけてきた頃、完全にネタバレした上で、客観的に見てやるんだ、と、謎の決意をしたのでした。

・・・決意したのでしたが、なんだかどうしても気になって、やっぱりつい見てしまいました。

 『うらら迷路帖』も終わってしまい(あ、もう最終回だ、というような最終回でした。いや、これこそ日常・きららの本来のあり方なのかも知れません)、まだもう少し何か見たい、と思っていたある夜、つい再生してしまいました。

  

結局、11話まで続けて見てしまったのですけれども、

なるほど、確かに面白い、素晴らしい、よく作られている、とは思いました。

 

これは、大変前向きで、建設的で、「プロジェクトX」のような、「技術」を賞賛し、人々を鼓舞するような、そういう作品だと思いました。人間が自らつくった「にんげんっていいな」というすごい歌詞の歌を思い出しました。

 

ですので、この作品に引き込まれ、鼓舞され、感動する人たちは、立派な人たちで、まっとうな、常識的な、健全な、近代的市民なのであろうと思います。こうした作品が流行るということは、そういう点で、安心できます。その意味で、こういうものが流行っているのは、いい事だ、助かる、という気がします。

(今後もしばらくは、橋が急に落下したりということが起きないで済みそうです。)

 

自然科学のドキュメンタリーとか、(自然科学系の)ノーベル賞の話に興奮したり、瀬戸大橋をかけるプロジェクトの裏に秘められたすごい技術の話などに惹かれるような人たちは、これが好きだろうな、と思いました。

 

人間って、頭いいね、賢いね、技術があるね。

 

まさに「にんげんっていいな」なのです。それを動物に言わせる、という仕組みです。

人間の人間らしさが発揮されてフレンズたちが喜ぶ、フレンズたち自身もみずから得た人間らしさについて戸惑いながら喜ぶ(料理がおいしいとか)、というような場面が多く、しきりに「人間らしさ」というものが強調される作品です。

 

そして確かに、「人間らしさ」というものは、現代でもやっぱりある、またあってよい、と私も信じていますが、・・・問題はその「人間らしさ」の内実を何に置くか、ということです。

 

その人間らしさの内実は、本作では基本的に、「技術」に限られている(ように見える・・・このあたりも、私の本作への思い入れが薄いせいかもしれませんが)。

 

人間の本質が、あらゆるものの存在が、「技術」に見出されています。
 

技術の問題を技術で乗り越えようとする、ひたすらな、永久機関的あこがれに裏打ちされた「前向きさ」が、ひしひしと感じられます。

 

・・・そして、こうしたことのすべてに、私自身は、特別に何か心を動かされるということはないのでした。すごく純粋に「建設的」であるなあ、と距離をおきながら、感心するばかりでした。(荒廃しているような舞台は、「建設」のためのよい背景となります。──繰り返しますが、「荒廃」の役割についても、私の見方が浅い可能性はあります。)

 

(・・・と言っても現実の私は、過度に技術的な、人工的な生き方をしていると思います(多分平均よりはるかにそうだと思います)。人工物がないと不安です。完全にそういう人です。といって、ここに永遠の安らぎを見出せているかと言えば全くそうでもなく、結局は、どこにも落ち着きどころがない訳です。「どこへでも此[この]世界の外へ」という言葉そのもので、典型的な「故郷喪失者」です。──だから、せめて娯楽の中では、もう少し違うものが見たい、という気がします。・・・そういえば、かばんちゃんの「故郷」はどんなところなんだろう。それを見たらまた感想が変わるかもしれない。)

 

一種が一フレンズ、という、大まかな原則というのも、まさしく百科全書的で、啓蒙主義的です。(そもそもジャパリパークのような「動物園」というものが、そのようなものです。動物園=生ける標本を展示する博物館 〜博物学・誌[自然誌・史]  〜典型的に啓蒙主義的なもの)

 

こうした価値観を11回まで称揚しつつ、最後にそれをひっくり返すという、大きな皮肉なのだろうかとも思ってみていましたが、たぶんそんなひねくれたものではないでしょう。


 

◆(追記)12話を見て。

 

もちろん、感動しました。

(もう、そういうやせ我慢はしないことにしています。)

 

それから、そういえば、木登りを教えてもらったりというのは、最終回で目立ってましたが、そのような、人間が動物化するという方向(動物の人間化だけではなく)は、それ以前にもありましたね。

それほど単純ではなかったみたいです。

 

 

◆「人間が動物を見る仕方」をそのまま表現しているとも言える


また、動物とお話ししたい、とか、動物の行動を人間のそれに見立てて面白がるとか、そういったことは昔からよくあることではある。だいたい私は、猫とか犬とかうさぎとか、そういう動物が可愛くて好きだけれども、たぶん勝手にそこに人間的なものを見出して可愛がっているだけだろうと思う。人間的なものを見出せなくなると、可愛くなくなり、むしろ気持ち悪くなる。虫とか爬虫類は基本的に私は苦手である。

 

動物園でも、「クマ」の檻の前で、くまさんかわいい〜と思ってぼんやり眺めていると、ある瞬間、ちょっと立ち上がったりして、あれ、クマ、さん・・・、けっこう大きいな、これにやられたらひとたまりもないな・・・、というようなことを思い出して、「キャラ化」フィルターの限界がときどき露呈することがある。と思ったら、また寝床でゴロンとしたりして、あ、やっぱりクマさんかわいい〜と、キャラ化ファンタジー気分に戻ったりする。

 

深読みすれば、動物園でのキャラ化幻想の途切れかける瞬間に、セルリアン関係の危機の場面は似ている。あれは不気味であるし、かわいくない。またあれに食われるとただの動物に戻る(らしい)。

 

こうした動物園などで動物を見るときの、キャラ化フィルターというべきものは現実にもあるが、フレンズ(化)とは、これをそのまま表現しているものと見ることもできる。

 

なんにせよ(私自身が、熱心に見ている人たちに比べるとそれほどでもないということもあり)、わからないことが多すぎて、何かはっきりとした感想を持つことも難しい状態ではあります。

 

また、12話のああいう話は、やっぱり感動してしまいます。
 

 

「ときめきポポロン」の感動:ごちうさステージ@AJ2017での体験から

「アニメジャパン2017」で、ごちうさステージを観覧してまいりました。

  

今回、私の時間の見通しがいろいろ甘かったせいで、ステージ観覧に遅れて入ってしまいました。

 

すると、いのりさんが、遅れて入ってきたチノちゃんがすごく気になるんだけど、と仰りました。(その日私はチノちゃんになってました。)

 

チノちゃーん、などと、皆さん(そらまるさん、りえしょんさん)が呼びかけてくださり、

またいのりさんは、おじいちゃんここにいるよー、とも仰りました。なんと可愛らしい。

 

ですけれどもこのときは、

遅れて入って話を中断させてしまって申し訳ない、という気持ちと、

話しかけてもらえて嬉しい、という気持ち、

だけれども急のことで気が動転してドキドキしてしまう状態、

というのとが、ごちゃごちゃに混ざり合って、

ぼんやりと、話が頭に入ってこなくなりました。

そうこうするうち、あ、もう終わってしまう、と思っていたら、

なんとここで「歌う」というサプライズがあり、また気が動転、

ポポロンパーカーが登場し、私はBDでしか見たことのないこの場面が、ついに目の前で見られるという事態が急に生じて、ちょっとしばらく現実を受け止めきれなかったのでした。

(まだ頭がぼんやりしていたせいか、自分もポポロンパーカーを着てくればよかった、という、よくわからない、関係のないことを考えたりしました。)

 

 

◆「ときめきポポロン」がついに目の前で

そらまるさんのイベント「青空ナイト」では、同曲をそらまるさん単独で歌っているのを聴けて、感激しておりました。

それは、マヤバージョン(シングルに収録)ではなくて、3人バージョンだったのでした(記憶)。つまり、メグ、チノの、合いの手というか、セリフが、音声で入っていた[ように聞こえた]のでした(例:メグの「くるくるりん♪」)。

それで何が言いたいかというと、この歌はあえて3人バージョンで、というところに、本当は3人で歌いたいという意志のようなものを、勝手ながら推測したのでした。

それで私も、いつかそれを聴ける機会があればいいなあ、と思っていたら、今回の、全く思わぬサプライズが生じたのでした。

 

あんまりネットなどの情報収集なんかをしていないのであれなんですが、これって、皆さん予測ついていたんでしょうか。私は、ラジオ、とあるし、これは歌わないという意味だろうと、結構、普通に思っていましたので、本当にサプライズでした。(昨年のきんモザ、ゆゆ式のステージでは歌はありませんでした。)

 

ともかく、BD(『Tea Party』)で感涙にむせびながら見たあの光景が、ここで!!というのは、インパクトが大きすぎました。

 

でも、ここからが戦いでした。我慢大会とはこのことだ、と。

ついさっきメイクしたばかりの状態で、泣くわけにはいかなかったのです。

まだ、化粧を直すという技術が身についていない。(まずはメイクを「する」技術を身につける方が優先だと思い、まだなのでした。私はマニュアル人間なので、「自分マニュアル」にないことに対応できないのです。)

 

崩れたら一からやらないといけない。

一からやっていたら、アニメジャパンが終わってしまう。

 

というわけで、泣くわけにいかない。

 

しかしながら、私は──また、私と同じような方もいるかと思いますが──、「ときめきポポロン」は、ほんとうに、泣かずにいられない曲なのです。悲しいからではありません。

 

アニメのEDで流れたとき、感涙を抑えきれませんでした。

あのチノちゃんが、お友達と一緒に、元気に踊っている!!・・・という感動です。

(恥ずかしいです、運動は苦手です、踊ったりしません、とかって言いそうなのに!)

この二人と仲良くなって、本当によかったね、チノちゃん、という感動があふれてしまいました。

 

ただでさえこうなのに、その上、歌詞が。

この子たちのみずみずしい世界を見る目が、とても透き通っていて、感動してしまいます。

 

そういう歌だったので、これを、チマメのポポロンパーカーで、声優さんお三方が歌っているのをBDで見たときは、この場にいられたらどんなによかったか、と思ったものでした。

 

それが、なんと今日。この大好きな歌が、なんと目の前で。

 

なんとか涙が出ずに済みましたが、なるほど、心の中でだけ泣くっていうことは、頑張ったらできるんだと、気がつきました(今度、映画館とか、電車の中でとか、そういう必要が生じたら、今回の技術を応用しよう)。・・・とはいえ、かなり頑張りました。

 

サプライズということもあって、座ってしっとりと聞くことができて、それも大変よかったです。

 

 

また、さらに「チマメマーチ」のライブがあるというサプライズが追加されました。

こちらも大変楽しみですが、果たして予定が合うのかどうか、チケットは入手できるだろうか、ということが早速気になりました。

 

 

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