miusow’s diary / ロマン主義アニメ研究会

アニメに関する考察・・・というより、アニメ等を契機に私が思考した事柄を中心に、私の個人的な雑記等も書き記しております。

抑制と緊張:佐々木千枝ちゃんの見守り方

 「シンデレラガールズ」には、素敵なお子様アイドルがたくさんいらっしゃるのだけれども、その理由というか、なるほど、この作品と「ちびっ子愛好の精神」とはよくマッチするのだな、と思ったので、少し記してみたいと思う。

 

◆恋愛禁止なアイドルのプロデューサー

恋愛禁止、という決まりは、やっぱりこのアイドルの世界でもあるようだ。

 アイドルも一人の人間として、それについて何も思わないわけでないけれども、それでもなお、アイドルの仕事の方をあえて選んでいるのだ、というような意志が、例えばきらりんの言葉から読み取れる。

「アイドルは、普通の女の子が出来ないこと いっぱいできるけど……。普通の女の子にできて、アイドルにできないこともあるよね。

/それは……恋。でも、きらりんはアイドルになったから、大切に出逢えて、人を幸せにしたいって気持ち、いっぱい知ったんだぁ。

/だから、しばらくは、恋よりもお仕事!・・・」

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(「[With Love]諸星きらり+」親愛度MAX演出)

 そして、その選択のために、Pちゃんよろしくね、ありがとう、というような言葉を述べてくれるのである。

「Pちゃんと出会って、・・・[中略、お仕事をする中で]・・・きらりん、どんどん可愛くなれてる気がするの。」

(「同上、諸星きらり」親愛度MAX演出)

 だから、当然ながら、Pちゃんもまた、きらりんと恋愛関係になってはならない。どんなに可愛くても、それは妄想の中だけに留めておかねばならない(あるいは、そんなPちゃんの眠れぬ夜の妄想を表現する同人誌の中だけに留めておかねばならない)。*1

 

シンデレラガールズにおける「抑制」の意義

 そしてこの特徴は、「ちびっ子」愛好の精神と、非常によくマッチする。

 シンデレラガールズの世界に足を踏み入れたとき、まさかこんなにたくさんの素敵なお子様アイドルがいらっしゃるとは、思いもしなかった。しかも、見た目は幼いがそれなりの年齢である、という安全性に配慮した設定なのかと思いきや、まったくの公式の設定においても、「9歳」となっていたりするのである。

これは(はっきり言えば)嬉しいけれども、しかしいいのか!?というような気にならなくもなかったが、よく考えたら、別にいいのだ。二次元だからいいのだ、ということのみならず、設定上も問題ない。というのも、Pちゃんはプロデューサーさんであって、あくまで一会社員として、業務に専念しているだけ、だからである。だいたい、もしからしたら、この会社の他の部門に行きたかったのに、アイドル部門なんていうところに回されてしまった、今はとりあえずこれを頑張るけど、いつかはあっちの部門に・・・なんて思っているかもしれない。とにかくお仕事なのだから、成績を上げるためにも、がんばって、幅広いアイドルをスカウトして、ファンを増やさないといけないのである。

ちびっ子アイドルのスカウト場面はよくネタになるけれども、あくまでも仕事だから、しょうがないんですよ。

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 (龍崎薫(9)のスカウト場面。『デレステ』「アイドルコミュ」「龍崎薫とのメモリアル1」)

・・・というような、あくまでもお仕事なので、ましてや、そのお仕事で大事なアイドルと個人的な関係を持つなどということは決してあってはならないのであって、という、「抑制」された関係の持ち方。

 

アイドルたちは、「親愛度」をときどきストレートに伝えてくれることがあるけど、あくまでも「親愛」の印であって、「性愛」の表現ではないのです。

もちろん、うっかりしていると、親愛度の表現も、「え?どういうこと?それって・・・ああ、そういうことね、アイドルのお仕事頑張るってお話ね、そうだね・・・」と勘違いしそうになってぐらつきかけるけれども(もちろんそういうセリフが巧妙に練られているのだけれども)、あくまでも、お仕事、それを支えてくれるPへの感謝、なのです。

(男なら誰でも、いや女でも、そんな風にキラキラした目で言われると、そりゃ誤解しちゃうよ、しょうがないよ・・・というような「演出」が、よく練られているなあ、と思います。)

 

とはいえもちろん、これもPの誤解、勘違い、にまったくすぎないのかといえば、そうとも限らず、当然、アイドルの側も、このPとアイドルとの「適切な関係」を分かった上で、振舞っていると見ることもできるわけです。つまりアイドルも「親愛度」表現に乗せて、何かそれ以外のことを伝えようとしている、という可能性もあります。

 

でもそれは最後まで「可能性がある」というだけであって、はっきり言葉では表現されることがない。

この、Pとアイドルとの「抑制」が程よく効いた関係を楽しむ(そしてその抑制の裏にある妄想との緊張感を楽しむ)、そういうゲームなのであると、理解しています。

   

◆ちびっ子愛好の精神における「抑制」の意義

そしてこの抑制の効いた関係を楽しむというのは、まさに、(少なくとも私の)ちびっ子愛好の精神とマッチする。

 ちびっ子(キャラ)は、本当に可愛く、ナデナデしたい。けれども、嫌がるようなことはしたくない。可哀想な目にあって欲しくない。いつまでもそのキラキラとした瞳の輝きを失わずに、純粋な心を失わずにいてほしい。頑張ったら褒めてあげたい。一方的にお話ししてくれることがあったら、隣でじっくり聞いてあげたい。一緒に、よかったね〜すごいね〜と言ってあげたい。その子が疲れて眠くなってしまったり、お話しすることに飽きてしまうまで、そうしてあげたい。 

そして、それ以上のことは、したくない。美しいものを汚したくない。・・・と言っても、その割には、男の子よりも女の子(幼女[キャラ])に興味を持っているということからしても明らかなように(でも可愛い男の子だったらいいかも・・・ *2 )、やっぱりまったくそういう感情がないかといえば、おそらく心の底にはないとは言い切れない、というか、きっとあるのでしょう。 

だけれども、そういうものをあまり前面に出してしまうと、もうあの純粋な美しい完璧な世界が壊れてしまう。薄汚れたものになってしまう。そしてありきたりな、陳腐な、あの例の動物の次元のお話になってしまう。なんとくだらない。 

だいいち、我々に常に働いている規律訓練権力によって、それは罪悪感や嫌悪感すらも呼び起こしてしまうであろう(人によるが)。そうなるとやっぱり面白くないし、つまらない。不愉快である。 

だからこそ、ちびっ子愛好の精神には、抑制が必要なのです。抑制そのものを楽しんでいるとすら言える。

 

シンデレラガールズにおけるちびっ子:佐々木千枝ちゃんの見守り方

佐々木千枝ちゃんSSRを運良くお迎えして以来、ホーム画面でいつも癒されています。

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自分のことを「ちえ」と言って、「ちえ、がんばります」なんてことを、あの頼りなさげな声で言うものだから、本当に心から応援したくなる。

「目立つのが苦手」で、自信がなかった千枝ちゃんが、素敵なステージ衣装を着て、輝いています。

大人に憧れていたちえちゃん、ちょっと大人っぽい衣装だな、と、恥ずかしいような喜んでいるようなことを言ったりもします。

 「お腹が出ている衣装だから、大人になった気分です」

(ホーム画面ボイス)

 

千枝ちゃんよかったね、これからも一緒に頑張ろうね、と、心から思えてきます。

 

そして、この気持ちは、実際、本当なのです。

 

でもそれ以上の気持ちがないかといえば、多分あるのです。だけれども、自分自身の意識の中ですらも、「たぶんあるのだろうな」という程度です。つまり、無意識、あるいは、うっすらとした意識の次元に、それは抑制しておきたい。

この「抑制」された状態で、緊張感を保ったまま、ちえちゃんを見守りたい。私にとってはこれが最も幸福な状態であって、それ以上でも、以下でも、その独特の甘い幸福感は、失われてしまうでしょう。

 

(ですから、同人誌をたしなむ際は慎重に選ばなければなりません。この緊張感を保ったまま、しかしもう一歩、いや半歩ほど踏み込んでいる、というぐらいの作品を、私はいつも探しています。)

 

 

 

◆(ついでに)ちょっと「ワガママ」になってみた千枝ちゃんについて

本来、あんまり目立つことが得意じゃないという千枝ちゃん。

それに、いつも真面目ないい子なのですが、少し真面目すぎるのかもしれません。

そういうこともあって、LIVEの前は緊張してしまいます(SSR特訓エピソード)。

そんな千枝ちゃんが、「千枝、精一杯頑張ります!」なんて言っているのを見ると、もう・・・。

 

そしてLIVE前日はこんな様子だった千枝ちゃんですが、実際にLIVEが終わると、

LIVE楽しかった、終わってしまうとちょっと寂しいような気がする、またLIVEがしたいな──というように言ってくれるのです(SSR特訓後親愛度MAX演出)。

「もっと、もっとって、ワガママになっちゃうのかもっ。」

ううっ(>_<) いいんだよ、君はむしろ、もっとワガママになっていいんだよ・・・。

今やこんなことを言ってくれて、しかも「ワガママ」なんていう言葉を素直に使っているのを見ると、なんだかホッとして、本当によかった…、としみじみ思います。

 

 

*1: 逆に言えば、そういう妄想の表現としての同人誌と、アイドルマスターの公式コンテンツとは、表裏一体の関係でもある。そういう妄想は、公式コンテンツに取り組む多数の人たちの動機の重要な部分を占めているであろう。

(もちろん、さまざまな人がさまざまな動機で、意識的・無意識的に、コンテンツに取り組んでいると思うので、一概には言えない。こういう妄想など微塵もなしで取り組んでいる人だっているだろう、それはもちろんありえることだ。

──Pちゃん不在のアイドルコンテンツたる『ラブライブ!』での例になるが、以前、ある「ラブライブ展」のような催しで、文字通りの幼女と母親がそこに来ているのを見たことがある。文字がようやく書けるかどうか、くらいの年齢の子であるが、その子が、来場者が自由に書き込んでいいノートに、「しょうらいみゅーずになれますように」と、大きな歪んだ文字で書いているのを見かけた。なるほど、「ぷりきゅあになれますように」というのと同じなわけである。──もちろん言うまでもなく、逆に、『プリキュア』にも大きなお友達がいて、しかもその大部分は、この子供とはかなり別の角度から楽しんでいるであろう。)

 

*2:CCさくら』の小狼くんは大好きでした。知世ちゃんに着目して見ていたのに、いつの間にか雪兎さん、小狼くんが気になってしまっていた。少女漫画なので、没入していけばいくほど、結局、男性キャラの方が魅力的に見えてくるのかもしれません。そういえば、『アイドルマスターSide M』というのはどういう感じなんだろう。

 

 

かおる、薫、かおる〜:龍崎薫MVスクショ

薫、かわいいよ薫。
2周年記念のスカチケで、やっぱり薫に来てもらいました。

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これで、千枝、みりあ、薫、と、ちびっ子アイドルが揃いました。幸せ。
もうこれで満足…ではあるけれども、
いつかハイファイ☆デイズがSSRで組めたらなあ。

 

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う〜、かおる〜、かわいいよ薫。

元気いっぱいで無邪気ですが、時々可憐な表情も見せます。

 

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薫らしい元気な表情。

 

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脳がフリーズする可愛さ・・・!!

 

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いっぱいいろんな曲で、ライブしてもらっちゃいました。
ちょっと疲れたね、薫。休憩しよう。

 

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DJ KAORU!

 

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う〜ん、一緒にかくれんぼとかしたい。

 

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こんなふうに、ウインクが得意なんです。

 

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こういう感じもいいですね。

 

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バシャバシャとスクショ撮りまくり。

 

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こうやってときどきこの子たちの元気に踊る姿が見られるなんて。
なんと素晴らしいゲーム・・・。

 

 

スカウトチケットというものが現れて以来、課金というものに躊躇がなくなりましたよ。──ええ、昔は、絶対に課金だけはいけない、でないと泥沼にハマるから・・・と思ってましたよ。コツコツ集めればスタージュエルはけっこう貯まるんです。でも、これはもうダメだった。・・・いえいえ、むしろですね、これだけ素晴らしいゲームで遊んでいるんだから、お金を払うのは全然変なことじゃない。ゲーム機とゲームソフトとを買ったと考えてごらんなさい。最低でもその金額までなら課金していいんです。・・・というような言い訳は、簡単に見つかりました。何もかも、スカウトチケットなるものが現れて以来のことです。それに、思っていたほど、泥沼にはまるほどお金をつぎ込むなんてことにはなっていません。心配いりませんよ、さああなたも、微課金、始めてみませんか・・・という投資信託の宣伝みたいですが、投資信託以上に利益をもたらしますよ? 素敵な衣装を身に纏った薫に、いつでも会えるんです。端末を持って出かければ、一緒にお出かけだってできますよ? もう迷うことはありません。 *1

所詮はデータ、・・・というのはよく聞かれる言い方ですが、それを言うならなんでもそうです。ブルーレイだって所詮はデータを焼いたものです。アニメも映画も、所詮は光の束です。何だって、そこに在ると思っているから在ると思えるだけのこと。ならば、薫だって「居る」と思っている人にとっては居るんです。

 

 

*1: (少しでも浪費への罪悪感を減らしたいなら、ヨドバシあたりでたまに安売りしているiTunesカードをポイントで購入しましょう。こうすれば少しは節約した気になれます。買わないこと自体が節約・・・と言うのはナシね。) 

少女の魔法:まどか、詩人、功利主義者

「魔術的観念論 Idearismus 」を唱えた詩人は、12歳の純真な美少女に理想 Idea を見たのだった。

 

「魔法」は少女のものであり、また詩人もそれに近づくことが許されるが、決して市民のもの(成人男性的なもの)ではない。


◆「ほんとうの魔法」

まどマギ』においては、市民的・近代的合理性というようなものを打ち破り、覆すようなものとして「魔法」、特に「ほんとうの魔法」が登場していた。

インキュベーターは詩人ではなく、結局のところ魔法に近づくことができない。


功利主義者QB

キュウべぇの話に対して、「もっともだ」という人が、それなりにいるようである。
確かに、ある観点からすれば、「彼」の話は「もっともな話」である。

どのような観点かというと、
「宇宙規模における、(かなり単純な)功利主義の立場に立つならば」、
ということである。


ただ、この観点に立つことためは二重に考慮しなければならないことがある。

α)宇宙規模における(配分的)正義を、我々人間が考えることは必要か/可能か/適切か。
β)そもそも功利主義は、特にキュウべぇが持ち出すような最も単純なやり方でのそれは、道徳・正義の諸規則を考えるのに妥当な原理か。


キュウべぇ派に反論したい人たち(私がその一人)は、もうすでに前者(α)の視点を持ち出すだけでも、かなりそれを成し遂げることができるだろうと思われる。

とはいえ、こうした議論は、そもそも議論自体が成り立っている基礎が曖昧なところがあって、どのような「設定」までを議論の基盤に取り入れるかが問題になる。キュウべぇは人間ではないにせよ、「理性的存在者」なのではないか(キュウべぇによる解説から、そのように考えられなくもない)、だとすれば、理性的存在者に適用されるあらゆる道徳的諸規則は、同じく妥当するのではないか、等々といったところに入り込んでいってしまうかもしれない。

そこで後者(β)の論点を考えることになるが、これについては、もちろん倫理学・政治哲学において様々な議論があるけれども、大まかに言えば、功利主義が無効とまでは言わないまでも(それでも現代倫理学界においては少数派のようである)、ベンサム型の最もシンプルな功利主義については問題がある、というのが一般的な見方である。

そして私の見るところ、キュウべぇが持ち出す議論は、基本的にこの「シンプルな功利主義」である。

要するに、何人かの中学生くらいの女の子たちが犠牲になってでも、人類を含む宇宙全体のエネルギーを確保する「効用」の方が大きいから、前者の犠牲は正当である、という議論である。
(「過去と未来の全ての魔法少女達」の、さらに魔女の犠牲になる普通のひとたちの、不快・マイナスの効用は、それによって得られる宇宙に所属するその他の存在者たちの効用の大きさによって相殺される、という「効用原理」に則った単純な「快楽計算」である。・・・だがもちろん、キュウべぇが快楽計算を間違っているという可能性も十分考えられる。それにそもそも、宇宙全体という規模の場合、どのような存在者までを快楽の主体として考えるのだろう。──これは(α)の論点につながる。)


だが私がお話ししたいことは、実はこの問題そのものではなくて、以上のようなことからもよくわかる通り、キュウべぇが依拠しているもの、「彼」が具現化している価値観・世界観が何かということである。すなわち典型的に近代的・合理主義的なそれである。

私は意図的に「彼」と呼んだが、それは成人男性が範型になっている、むき出しの理性的(悟性的)存在者そのものだからである。

(『セーラームーン』の「ルナ」はメスのようであり、彼女を理性的に制止したりする別のオス猫が登場する。)


◆「魔術」=「因果律に対する反逆」

そして、物語が進むにつれ、こうした成人男性的なもの、合理的なものの冷たさに対して、少女による「魔法」「奇跡」、それも、ほんとうの魔法、ほんとうの奇跡というものが、力を得ることになる。

因果律に対する反逆だ」と、「その時」彼は言うが、まさに「魔法」とは「因果律」をも逸脱する「奇跡」である。

 

そもそも、「奇跡」とは、因果法則から逸脱することである。あらゆるものに原因がある、という原則からの逸脱であり、原因・結果の[機械論的]連鎖から離れて、原因なく起こるものが「奇跡」である。

・・・だから、魔法を売って歩いていた彼が「因果律」を大事にしているというのがそもそも不思議な話なのであるが、逆にこのことからよくわかる通り、彼が持ち出していたものは実は魔法ではない。

・・・というより、元々の魔法少女システムが、そもそも彼らのものではないのであり、最初から少女達の「ほんとうの魔法」を利用していただけ、なのであろう。)

 

 

少女の自由

成人男性から、幼女へ。(その絶望的で倒錯的な変身願望について。)

 

これは、十字に軸をとれば、ちょうど「表」tableau, table の逆サイドにあたるものへの移行、変身を願うものである。

成人女性 成人男性

幼女   幼児(男児) 

なるほど、幼女というものが特別に持ち上げられる状況は、何か異常であって、差別的だ、というような意見もあるかもしれない。

そしてそれは、実際、もっともであると思うが、それは、そもそもこの「表」の存在そのものが、差別的だからである。すなわち、幼女のみならず、成人男性もまた成人男性という枠の中に閉じ込められているわけである。動物園などという言葉で揶揄することもあるが、逆に彼らもまた、成人男性という檻の中に閉じ込められている。

──「動物園」の檻は、成人男性中心型社会における成人男性の檻の裏返しにすぎない。わかりやすく言えば、「檻」は、向こうとこちらを隔てているのであり、どちらも「閉じ込められている」。

 

近代市民社会は、特に成人男性中心主義かもしれないが、そのような近代市民は、中心に位置付けられ、規律され、訓練され、逃れられないものにがんじがらめにされているということである。

むしろ、このヒエラルヒーの中で「周縁」に位置付けられ、追いやられた者たちのほうにこそ、かえって、自由があるとすら言えるかもしれない。もちろんそれは、「おめこぼし」的な自由であって、健全ではないのだろう。しかしそもそも、健全さというものが抑圧である。健全さの枠組みを逸脱し、横断できるものには自由がある。

 

これこそが、「幼女」の「自由」である。

この自由を求めて、一部の成人男性は、横断、越境を試みる。幼女になろうとする。もちろん、それは永遠に叶わない願いであろう。だが、ほんの一ミリでも近づこうと努力をする。空想の世界、心の中の世界だけでも、幼女になりたい。でも、その合間にふと鏡に映った自分に絶望する。薄汚い、汚れた欲求の主体(市民社会的「自由」の主体)としての「成人男性」(市民)がそこに映っている。そこで、外見もまた、ほんの一ミリでも「幼女」に近づきたいと思うようになる。ここから、幼女コス・女装コスプレに足を踏み入れる「成人男性」もいるだろう。これらの試みは、永遠にむなしいままの試みであるかもしれない。完全にかなうことはないものを追い求めている(のかもしれない)。しかしながら、不毛かもしれないこうした越境、横断を、不断に試み続けること、このことの中にだけ、この「表」、近代市民社会の秩序を前提にした上で、わずかに許された自由が手に入る・・・、かもしれない。「どこへでもこの世界の外へ」という絶望的な願望においてしか、今や自由は許されないのであるとすれば。

 

それだから、幼女になりたい願望、幼女への憧れとは、成人男性の/からの「逃走」なのである(また「闘争」でもあるかもしれない)。自由を求める逃走(闘争)である。

(同時に、自由「からの」逃走とも言えるだろう。近代市民社会的な市民の自由からの、である。)

 

 

「教訓」はいらない:ヴィトゲンシュタインの映画、平沢唯のおやつ

なんのオチもないとか、さらには何もここから教訓を引き出せない、などと、アニメなどの娯楽作品に不平を言う人が時々いるが、そういう人は、一休さんのとんち問答とか、悪いおばあさんが懲らしめられる昔話とか、何かそういうものを本来のアニメとしてイメージしているのかな、と思う。

 

ミュージカル映画

ヴィトゲンシュタインは、意外なことに(?)、ハリウッド映画を好んでいた。講義が終わると、まず映画を見に行き、それから彼の本来の「仕事」に取り組んだという。

ハリウッド映画、なかでも彼が好んだというミュージカル映画は、ヴィトゲンシュタインの哲学に何をもたらしたのか。──おそらく、まったく何ももたらしていないだろう。だが、ヴィトゲンシュタインという人間の、哲学的思索を含んだ生活のためには、欠かせなかったのだろう。

なるほど確かに、ハリウッド映画も、「言語ゲーム」の一種ではあろう。しかし、そこに「論理」の問題は、「神秘」の問題は、何か「示さ」れているであろうか。

「ばかばかしくて素朴なアメリカ映画は、そのばかばかしさにおいて、まさに、ばかばかしさゆえに教えられるところがある。」

ひとにはばかばかしいものが必要なのである。とりわけ、全身全霊で取り組まなければとうてい不可能であるような、高度な知的活動に従事しなければならないような人にとっては、いっそうそうであろう。

 

◆おやつ

これは言い換えれば、おやつの時間が必要だ、ということになるだろう。

「人はおやつがあるから頑張れるんだよ。頑張った後にはおやつを食べないと!」

平沢唯の言葉である。(※1)

 

プリキュアも、ごちうさも、ひとによってはばかばかしいと思われるかもしれない。甘すぎる、「意味」がなさすぎる、「教訓」がない、と不平を言うかもしれない。(※2)
 
だけれどもそれは、立派な「おやつ」なのであって、やっぱり欠かすことのできないものである。
 
それは、ショートケーキに対して、栄養バランスがおかしい、野菜が足りていない、と不平を言うようなものである。
 
──なるほど確かに、「ショートケーキだけを食べている人」に対しての不平ならば、真っ当であろう。
しかし、世の中の「ショートケーキを食べている人」の大半は、「ショートケーキだけを食べている人」ではないであろう。
 
ショートケーキは、野菜たっぷりカレーでも柿の種でもないから、野菜は入っていないし、辛くもない。
それは甘すぎるくらい甘いかもしれないが、それで良いのである。

 

 

◆注

(※1)2期番外編「計画!」より。また、次の言葉;

あずにゃんが予定表作るとおやつの時間がなくなるんだよなあ」

(『映画』) 

 翻って、あずにゃんに必要なのは「おやつの時間」だったのだ、と言えるだろう。

「梓ちゃんは真面目だから知識の吸収は早かったけど

音楽ってそれだけじゃないのよね

唯ちゃんみたいに最初から知識を凌駕する何かを持っている子もいたけど…」
山中さわ子、『highschool編』)

 

  
(※2)ちなみに言えば、これらの諸作品に、「意味」「教訓」を読み取ることは可能であるが、たとえ読み取れないとしても、何も問題はないと思う。

 
 
参考:野家啓一編『ウィトゲンシュタインの知88』新書館
 

 

【告知】C92『ごちうさ論その1<基礎編>』発刊のお知らせ(2日目東J-82a)

うっかりとしていて、遅くなってしまいましたが、コミックマーケット92で、『ごちうさ論 その1<基礎編>』なる新刊を頒布します。お知らせします。

ご注文はうさぎですか?』に関する考察…というより、随想のような内容です。

 

刊行物の概要

ごちうさ論 その1 <基礎編>』

三浦想(ロマン主義アニメ研究会)

 コミックマーケット92

2017年8月12日(土)

東地区 J-82a

 

A5、56ページ、300円(予定)

 

こちらがサークルカット

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こちらが本の表紙。

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 どちらがカットで表紙なんだか、という感じですね。

 

  

 どのような本であるのか?

 冒頭・「はじめに」から抜粋します。

 ◆本書について

 もともとアニメと原作とをじっくり読みながら、考えたこと、気がついたことなどを常にメモをとってきたのですが、そのメモ群のほんの一部を抜粋して、組み立て直したものです。・・・そのような作業の中で改めて思ったことは、私は『ごちうさ』をほとんどちゃんと観ていなかった、読んでいなかった、ということです。・・・特に原作で顕著にわかりやすいのですが、至る所に巧妙に様々な「仕掛け」のようなものが施されています。ストーリーの展開上欠かせないようなものもあれば、そうでもない細かいものもあり、また複数の連載分を順番に読んだとき初めて気がつくようなものもあります。・・・

 『ごちうさ』は、柔らかく美しいものに包まれていて気が付きにくくなっていますが、存外、その下には「理屈っぽい」骨組みが隠れており、形式的な美を重んじて組み立てられているのです。

 しかも重要なことは、それをいちいち意識しなくても楽しめるようになっていること、・・・というよりもむしろ、それを意識させないように「隠す」ための仕掛けもまた、同時に仕込まれている、ということです。・・・アラ、ということは、私のやっていることは、やらなくて良い、やらない方がいい、余計な試みなのでしょうか。──はい全くその通りだと思います。『ごちうさ』の骨組みのようなものをわざわざ指摘して露骨に見せるだなんていうことは、野暮、無粋そのもの。やらない方がいいことです。

 でもそれが同人誌。きれいな服を着ているのに、脱がせようとする。無粋で、やらない方がいいことだ。だけれども、それを見たくなる。

 あと、もうひとつ言えることは、こころぴょんぴょんの流行語に乗って、次々と派手なプロモーションが仕掛けられて、関連グッズも毎月発売され続け・・・という状況が今でも続いており、多くの人にとって、こうした動きに対処し続けるということが、ごちうさの楽しみ方の大きな部分を占めるようになっている。私もそれが大好きである!・・・のだけれども、しかしながら、少なくとも私に限って言えば、最近、そんなことに夢中になっているうちに、ちょうどドーナツの真ん中のように、原作・アニメをじっくり見返す、ということのための時間が、少々おろそかになってきているような気がしないでもない。もっとしつこく、ネチネチと、舐め回すように、原作・アニメを見返してみたかった。そして今回、そういう時間が取れたので、とても楽しかったです。・・・と、絵日記風にご挨拶を終わることにいたします。

 

 ◆本書の趣旨:「すべてがかわいい」の本当の意味

 絵が可愛い、何よりチノちゃんが可愛い。はっきり言って、私が『ごちうさ』を愛好するようになった理由は、まったくこのようなものです。今でもほとんどがこのようなものであるかもしれません。

 しかしながら、愛好する上でじっくりと原作を読んだり、アニメを繰り返し観ているうちに、『ごちうさ』の可愛さとは、単に絵が可愛い、チノちゃんが可愛い、ということ以上の理由がある、というような事に気がついてきました。

 ・・・と言って、シャロちゃんもリゼちゃんもココアさんも、あるときから千夜ちゃんも、それどころか、青山さん、凛さん、いや、タカヒロやティッピー、それにリゼ父まで可愛いんじゃないか、(最近では委員長だって・・・云々、等々々々・・・、以下無限に列挙可能)・・・ということが言いたいわけじゃないんです。いや、これはもちろんそうだと思います。こんなのは、大前提です。でもここで私が特に言いたいのは、このことじゃない。

 それはすなわち、物語の構造としての可愛さ、人間関係の構造としての可愛さ、とでもいうべきものなのです。──それだからまた、「すべてがかわいい」というのは、無理やり付けられたキャッチフレーズのような気もしないでもなかったのですが、このように考えるならば、むしろ当たっている、と思い直しました。

 『ごちうさ』が可愛く魅力的であるのは、絵が可愛いから、というだけではないのです。それは、物語の構造というレベルから、そうなのです。次第にその事に気がついてから、その点を意識して読み、観るようになりました。すると、それなりにいろいろなことが見えてきました。

 この本では、そのような構造について、私が読んだところを、お話ししてみましょうと思っております。

 

 ◆暗いもの、不安なもの

  また、本書でもう一つ言及することは、『ごちうさ』の暗い側面についてです。ごちうさを規定しているのは、やはり喫茶店です。それも、流行のカフェといったようなものではなく、いわゆる、薄暗い、静かな、古い喫茶店です。いわゆる喫茶店というものがイメージしている世界観が、そのまま喫茶店の中だけでなく外にまで広がっていったのが、あの木組みの街なのではないかと思いますが(「広く浅」い、昔ながらの日本人的ヨーロッパ趣味)、その喫茶店の世界というのは、カラッとした明るさとは、少し違うものを持っています。薄暗い喫茶店で人は何をするか。そこで人は読書をする、考えにふける、ゆっくりと静かに話し合う(「おしゃべり」というよりも)。その証拠に、文学者・青山さんが登場します。彼女は喫茶店というものの利用方法を示しているわけです。何か文学的なもの、少し陰のあるもの、内に抱えたもの、そういうものが、うっすらと常に背景で、この優しく楽しいお話を、規定している。

 それは特にチノちゃんという子を通じて、現れています。そもそもチノちゃん、というより香風家そのものが、カラッとした明るさとは違うものがあります。・・・それで、ココアの明るさがいっそう引き立つわけですが、このような明るさと対照的な暗さ、明るい世界を取り囲むように縁どっている暗い世界といったようなものに着目して読み解く試みも行おうと思っております。

 

 ◆ただし;ごちうさ論は、ごちうさ愛にとって諸刃の剣であるということについて

  ここですぐ、こう思われる方もいらっしゃるでしょう。すなわち、そもそも「ごちうさ論」なる試みに、どういう意味があるのか、その必要性があるのか、ということです。言い換えれば、「『ごちうさ』は考えるんじゃなくて、感じるものでしょ?」と大雑把にまとめることができそうな疑問です。

 こうした疑問については、私はもっともであると思います。正直に申しなすならば、私自身が、この疑問を抱いています。・・・ここで簡潔に結論だけ述べるなら、ごちうさを「論じる」という試みには、確かにかなり「非‐ごちうさ的」と言うべき側面があるけれども、「ごちうさ愛」の発現形態の一つとしてあり得る、というようなことになります。そして同時に、「ごちうさ愛ゆえのごちうさ論」であるとしても、「ごちうさ論」なる営みは、本質的に「非‐ごちうさ的」な要素を秘めているがために、「ごちうさ愛」の実践にとって危険なものにもなりうる、ということを常に意識しておかねばなりません。

 

目次から一部を抜粋してご紹介。

不調和における調和──誤解、伝わらなさ、循環、反復、アルキメデスの点の消失

ズレという問題提起──噛み合っていないけど嚙み合っている / ロリコン数学者のつもりが幼女になっていた問題

 

「もふもふ」とは何か

積み上がっていく「すれ違い」 / 自分のことに夢中である人たち / ドライ / ごちうさの「摂理」 / 見守ること / アルキメデスの点の不在

 

事例1:積み重なる誤解と調和、千夜とシャロ──「鬼と仏と無慈悲なボタン」(原作4-10, アニメ2-9)

事例2:非対称な関係・逆転する関係、リゼとシャロ──「Eを探す日常」(原作4-9, アニメ2-10)

事例3:ズレているけどズレていない、チノとリゼ──「さらばココア!蘇る地獄の記憶!」(原作5-3)

 

(試論)ココア存在論──魔法的なもの

意志と奇跡──なぜチノはそれを「願った」のか、なぜマヤ・メグは「笑った」のか / チノちゃんのお願い事と、メグのお導き / 魔法が浸透する世界 / ココアが遍在する世界

 

アニメと原作

OVA』について:原作5-3〜4、原作5-4、及び、これら以外の原作エピソードが使用される可能性 / アニメ3期があるとすれば / さらに今後のごちうさ

 

(付録)ごちうさ論の非‐ごちうさ性 / あとがき

 

 

C92頒布「けいおん検証本」に文章を載せています(3日目東U-43b )

 

 

今年2017年5月の「桜高新入生歓迎会!! 7じかんめ」における新刊で、私が文章を投稿してもいる『けいおん!』に関する本が、「コミックマーケット92」にて、再び頒布されます(コミケでは初)。

3日目(8月13日、日曜日)東U-43b 

「『けいおん!』再検証 vol.2」 前提編〔二〕& 躍動編〔一〕」

価格:500円 サイズ:A5 ページ数:78ページ(表紙を含む)

アニメ熟考委員会

 

 私が書いている文章については、以下の記事に説明がございます。

miusow.hateblo.jp

 

また、この『けいおん!本』の全体、及びこれが属するシリーズの全体、また同サークルが頒布されるその他の本(『うる星やつら』関連)については、以下の記事に説明がございます。

jukkouiin.hateblo.jp

 

また、ついでに、

当会の新刊『ごちうさ論 その1 <基礎編>』も、別の日(2日目 東J82a)に頒布がございます。以下の記事に内容の詳細等がございます。 

miusow.hateblo.jp

 

以上、皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。

(カラフルで素敵で綺麗な本・・・等々がうまいことゲットできた後にでも、気晴らしに、「ちょっとあっちの方にも行ってみるか〜」、という感じでお立ち寄り頂ければ幸いです。)