ロマン主義アニメ研究会

「ごちうさ論:「Sister」の「魔法」〜アニメ『Dear My Sister』から読み解く『ごちうさ』」 書店様委託販売です。よろしくお願いします。 ZIN様 http://bit.ly/2DBgCH2 メロン様 http://bit.ly/2DEPXZG

【2日目 西め34a】コミケの告知!!『ごちうさ6巻を読む(前半)』、ごちうさ論、ほか既刊アリマス!!

 皆様、暑い中、いかがお過ごしでしょうか。

 もうすぐ夏コミですね。私は、カタログを見て、お買い物(特に1日目を…2日目は諦めます)しなきゃいけないものを早くチェックしなければ、と思っているところです。

 

 さて、今回は、当サークル「ロマン主義アニメ研究会」の、コミックマーケット94(夏コミ)参加のお知らせです。

 どうぞよろしくお願い致します。

 

【スペース】

コミックマーケット94 2日目(土曜日)

2018年8月11日(土) @東京ビッグサイト

西1 め34a

https://webcatalog.circle.ms/Perma/Circle/10371368/ 

f:id:miusow:20180802204104p:plain

 

【最新刊】

ごちうさ6巻を読む(前半)』

B52段組 48頁 ¥500

──「ごちうさ」考察・随想・評論本。

(今年6月の「3秒でもふもふ」@インテ大阪 での新刊)

 

【既刊】

・『ごちうさ論 その1 <基礎編>』 ¥300

・『ごちうさ論:「Sister」の「魔法」──アニメ「Dear My Sister」から読み解くごちうさ』 ¥500

・『chimametai ni naritai!!』(コスプレ写真集) ¥400

  

 「西」館です!  (西館は涼しい、とかって聞きますが、どうなんでしょう?)

 

 スペースにて、皆様のお越しをお待ちしております。

 既刊もいくらかご用意がありますので、よろしければ手にとってご覧いただければ幸いです。

 

 ◆(追記)『ごちうさ』に独特な研究意欲を掻き立てられている人(なんで?なんで?)へ

改めて、コミケがあるので、ちょっと『ごちうさ』について、思うところを。
我ながら、時々、変だよな~と思うのですが。

どういうわけか、『ごちうさ』は、私の場合、もう、研究意欲を掻き立てられて仕方がないのです。読んでいると、

 

あ、待てよ、この発言は、多分、以前のアレを踏まえてのことだな・・・
ということは、なるほど、確かにこの場面は、あの時と同じ場所だ。

つまり、あの時と同じシチュエーションでありながら、しかし、ここが違っている。
この「差分」が、つまり、大事なことなんだ。

 

・・・とかっていうように(これは今、思いつきで例として書いただけなのですが)、
こんな感じで、研究スイッチが入るのですよね。不思議なことに。

ただひたすら萌えるというより、こっちの方が先に始まるし、面白くて仕方ない。
(もちろん萌えてもいるんですが。)

あんまり一般的な楽しみ方ではないとは思うけど、似たような人も、少数ながら世の中にはいるのではないかと思って、こういう本を作ったりしているところもあります。

なので、「私も似たような人ですよ」という方がいらっしゃったら、是非、お会いした時にでも、申告していただけると、とても嬉しいです。


──実際、こうやって読んでいくと、つじつまがかなり合うのですよ。
もちろん、私の「読み込み」すぎなところもたくさんあると思いますけれども。

・・・というより、こういう「読み込み」が可能な余地の残し方が「うまい」ということなのかもしれませんが・・・でも、あんまり、うまいとか下手とか、そういう「評価」するような態度で、ごちうさとかKoi先生に、接したくないと、個人的には思っています。これは、ちょっと信仰っぽい態度かもしれませんが・・・あ、なるほど。例えば、ある宗教の信者が、聖典解釈に従事するのと、同じことなのかな。聖典って、古いこともあって、そういう「余地」だらけというのが、よくあることですよね。


──けどね~、それよりももっと、わりとロジカルに組み立てられているもののように思うのですよね、『ごちうさ』は。かなり、理屈っぽい「骨格」があると思っています。

例えば、かわい〜♡と思って、ふわふわの柔らかいウサギを抱いていると、意外と骨格の出っ張っているところに当たったりして、「あれ、意外と細身? 意外とゴツゴツしてる?」と気がつくような、そんな感じ、といってもいいでしょうか。

そして、ぬいぐるみみたいだと思っていたら、呼吸のたびに体が大きく動くのが伝わってきて、「息をして、懸命に生きているんだな、この子は」と、ハッと気がつくような、そんな感じです。

(チノが、うさぎのぬいぐるみの「縫い目」に気がつくシーンを、思い出してみてください[DMS、原作5巻]。〝優しい世界〟には縫い目もリゼの手の傷跡もあるわけです。)

 

いわゆる「ガチ勢」的に言われる方も時々いらっしゃるのですが(本を手にとって、ガチだ!と連呼されたことがありました笑)、それともちょっと違うというか・・・もちろんごちうさには「マジLOVE」なんですけど、他の作品とは違って、特に『ごちうさ』には、この種の意欲が掻き立てられる、という感じです。

(けれども、こういう研究意欲を掻き立てられて楽しむこと自体が、作者Koi先生の意図に反していることのような気もして、そこは申し訳ない気もします。何度も引用してますけど「ちょっとしたティータイム」に(1巻ATOGAKI)と思って、描かれているものなので・・・。)

 

 

◆最新刊『ごちうさ6巻を読む(前半)』について(まえがきより一部抜粋)

f:id:miusow:20180617172809j:plain

 

──神様はちっちゃいに宿る、とか? /それはきっと細部だと思うよ

チマメ隊「♡♡ケーキをもうひとつ?」

 

──やりたいことから きらきら受けとっちゃうんだよ

ココア「きらきら印をみつけたら」

 

 今回お届けします新刊では、これまでと少し趣向を変え、具体的なエピソードごとに即して、読解を試みていこうと思います。とりわけ今回は、原作コミックス「第6巻」を対象にいたします。こちらは既に読まれている方が殆どだと思いますが、よろしければ、どうぞご一緒に、もう一度コミックスを手に取りながら、読み進めてまいりましょう。

 

──なぜこんなことをするのか?

 私が『ごちうさ』研究を始めて以来、気がついたこと…というより、単に好きで読んでいた『ごちうさ』を、ただ読むのでなく、どうしてもいろいろと「研究」したくなってしまった理由でもあるのですが、それはすなわち、『ごちうさ』には、無数に・至る所に、細かな〝仕掛け〟のようなものが施されている、ということです。とりわけそれは原作において顕著です(アニメではすくいきれないような細かいものもたくさんあります)。そうした細かな〝仕掛け〟たちに注意を払いながら、仕掛けから仕掛けへと追いかけていくうちに、次第に『ごちうさ』の物語の全体を、より立体的に把握できるようになってまいりました。

 こうした〝仕掛け〟を追いかけた〝結果〟をまとめたものが、既にお届けしております2つの本(既刊)であります。そこで今度は逆に、そうした仕掛けを追いかけていく〝プロセス〟を、皆様とご一緒に楽しめないだろうか、と思ったのです。

 

──日常系作品における「個別」と「全体」の関係、『ごちうさ』の場合

 一般的に言って、日常系とも表現されるような作品では、「個別」(個々のエピソード、個々の4コマ)を「全体」(作品全体の大きな文脈)から楽しむというよりも、「個別」を「個別」としてそのままに楽しむこと、あるいは、せいぜい〝全体〟は「個別」が単に〝集積〟したものとして捉えることの方が、多いかもしれません。具体的に言えば、例えば、気の向くまま好きなページをランダムに開いて楽しむようなスタイルが適切な作品も多いかもしれません。実際、日常系と表現される作品では、そういったものも多いと思います。『ごちうさ』もそうした楽しみ方は可能ですし、私もよくやります。

 けれども、『ごちうさ』は他方で、「個別」(個々のエピソード、個々の4コマ、もっと細かく言えば、登場する個々のあらゆる要素)を、「全体」(大きな『ごちうさ』の文脈)の中で位置付けて読み解くための手掛り・仕掛けが、あまりにも頻繁に、明らかに意図的に、随所に散りばめられているように思われるのです。まるで、謎解きのヒントをわざと配置してある…ちょうど「シスト」のように、組み立てられているようなのです。そう、『ごちうさ』は、シストの地図を追いかけるような気持ちで、仕掛けから仕掛けへと追いかけながら読み解いていくと、より立体的に・より深く、味わえるように組み立てられている(と思う)のです。

 

──なぜ6巻?

 まず第一に、コミックス6巻の重要性です。コミックス6巻は、これまでの『ごちうさ』コミックスに比べても、一つの大きな節目、あるいは折り返し地点のような印象を受けるからです。このことは、まずコミックスを開くよりも前に、〝表紙〟を見ただけでも、何か感じとられることではないでしょうか(のちに、6巻表紙の〝新しさ〟について詳しくお話しいたします)。そしてもちろん、収録されているお話からもそのことを感じ取ることができると思います。この「6巻」を軸とすることで、『ごちうさ』の過去のエピソードと、これから続くかもしれない展開との、両方を見渡せるような見通しの良い地点に立てるのではないか、と考えたことがまず大きな理由です。

 また第二に、せっかくですのでなるべく新しいエピソードで、というのもあります。とはいえ、本当に最新の「連載」の場合、単行本収録を待ってから解釈をしたいという気持ちが残ります。よく知られるように、単行本収録時にはしばしば〝修正〟が加えられますが、それにより、のちに本書でもお示しするように、お話しのニュアンスが変わるという事例がしばしばあります。

 

──(ちなみに)

 ちなみに、本書は「ごちうさ6巻を読む(前半)」となっております…いや、なってしまいました。今回はいろいろな制約から、文字どおり「薄い」本を作りたかったのですが、6巻の「表紙」の読解から始めて順番に各話を読解していこうとした結果、まず「表紙」だけでかなりの分量を費やしてしまい、さらにその後も、想像以上に分量が増えてしまいました。このようなことから、本書で触れていないエピソードについては、またの機会に読み解いてまいりたいと思います。

 

  

◆(追記、雑感など) 今年のオンリーでの新刊です & 〝ごちうさ島〟なので何かのついでにでもお気軽にどうぞ

 今回は、コミケ前にオンリーイベント(6月の「3秒でもふもふ」@インテ大阪)に参加し、そこで新刊を作っておき、それをそのままコミケに持っていく、というやり方にしました。

 コミケの前って、お買い物したりコスプレしたりしたいので、それだけでもけっこういろいろ準備がありまして(しかも、一応、普通の人間生活も送っていますから…)、ギリギリまで本を作っていると、本当にてんてこ舞いになっちゃうんですよね〜。というわけなので、今回は本を先に作ってしまおう、ということで、こういうやり方にしてみたんです。

 なので、「3秒でもふもふ」に来られた方にとっては、コミケでは何も新刊がないのですが・・・それでも、まあ、お気軽に来てもらえれば、と思います。

 というのも今回は、〝ごちうさ島〟の配置だからです(こう字で書くと、うさぎ島の大久野島みたいですね)。・・・皆さんここならいらっしゃる方も多いでしょう? それに、ごちうさ好きは企業ブースに行く人も多いと思いますけど、西館なので、そこからも近そうです(…と言っても、近いのに遠くてたどり着けない、というのがコミケではありそうなことですが…)。

 やはりいろいろ考えて、こちらのジャンルに出るのが、一番しっくりくるだろうな、と思いました。 (今まで「ジャンル違い」とされてこなかったのだから、別にいいのですけれど、とはいえやっぱり。今までは「アニメ(その他)」で出てたんですが、原作はアニメじゃないしなあ〜、とか、思っていました。──とはいえ、現実にはアニメ評論系がここに固まっていて、収まりはいいです[きらら原作系もなるべく固めてくれてる感じがする]。それに、私もごちうさの「アニメ」での表現についてもかなり書いているので、その意味では、原作が何であろうと「アニメの評論」と言ってもいいのだろう、とは思っていました。) というわけで、少し迷ったんですけど、特に今回の本は、『6巻を読む』ですから、思いっきり原作ですし、こちらでよかったな、と思います。 (それと、複数のアニメ作品を扱っている方だと、「アニメ(その他)」しかない、ということにもなるかもしれませんが、私の場合、今のところ『ごちうさ』しか扱っていません。)

・・・というような内部事情はどうでもいいだろうと思いますが、

 要するに、お気軽に来てください! そして、実際、お気軽に来やすいところに居ますよ! ということが言いたかったのです。よろしくお願いします。

 

 

プリパラが完璧なファンタジーであった理由の一つ──渦巻く欲望

◆中毒性

 『プリパラ』は、本当に、強力な依存性のある、コンテンツでした。

(比喩表現です。個人の感想です。)

 

『プリパラ』は、見ていると・遊んでいると、酔ってくるし、天国に連れて行ってもらえるの。

 

(例えば、前にも言いましたが、プリパラ・アニメは、まず、ストーリーの部分が、絶妙な仕方で可愛く狂っているのです。でも、終始その調子で進むので、だんだん狂っているとかどうだとか、ということ自体が、どうでもよくなってくるのです。気持ちよくなってくる。そして、そうやって気持ちよく、ふわっと地上から足が浮いているような、夢見心地になっているところへ、強烈なライブシーンが始まるのです。プリパラの、あのめまぐるしいライブシーンは、もう暴力的とも言っていいほどの輝き、煌めきに満ち満ちているのです。

 歌が中毒性のあるキャッチーなメロディーであるのはもちろんのこと、振り付けも素晴らしいのももちろんのこと、さらに、舞台セットがかなりカラフルで目まぐるしく、さらにメイキングドラマなどのぐるぐると目まぐるしいシーンが入り、その上、サイリウムチェンジといったように、過剰な演出に演出が重ねられていく。衣装も舞台装置も、装飾に次ぐ装飾、色彩の上に色彩が重ねられていて、この過剰さに、クラクラとしてしまうのです。

 ──要するにまとめると、ストーリー部分のフワフワ感ですっかり下ごしらえができたところへ、強烈なライブ部分が直撃することで、完全に出来上がってしまう、というわけです。)

  

◆この中毒性の背後にあるもの 〜じゃぶじゃぶ 

  「プリキュア」などもそうなんだけれども、要するにこういう女児向けアニメの多くは、ジャブジャブお金を使わせるための宣伝アニメで、おもちゃをじゃんじゃん買わせたり、ゲームをどんどん遊ばせようとするために、一生懸命考えて作られているわけです。

(補足)例えば「プリキュア」に関して、『まほプリ』では「ヨクバール」が「敵」になっていたのが面白いですね。作っている側の「欲」を隠す意味もあるだろうし、また消費者が、あのおもちゃもこのおもちゃも、って、ちょっと欲張りすぎかしら、私たちをヨクバリにするようなアニメなんじゃないのかしら、などと罪悪感を抱くのをあらかじめ防いでいるようにも思えます。「欲張る」こと(ヨクバール)はこの世界では敵なのだから、ヨクバールを倒すためにあれもこれも買い揃えることは、ヨクバリじゃない、というわけです。・・・だから、かえってこういう裏返した形で、実ははっきり、この女児向けアニメの底にある欲望・ヨクバリが具現化されているいう見方もできます。

 

 長い時間をかけて、だんだんとその世界に引き込んでいって、プリパラはいかに素晴らしいものか、・・・しかも、お勉強やお手伝いともきちんと両立できるし、不良のお友達ができるわけでもなく、かえって、人間として成長できる、というような、反論に対するあらかじめの反論も織り交ぜながら、ゆっくりと、プリパラはいかに素晴らしいものかを、刷り込んで行くわけです。 

(女児向けアニメについて、大人でも楽しめる!とかってよく驚きとともに言われたりするけど、こういう女児向けアニメってそもそも大人が楽しめるように作ってあるんじゃないでしょうか。結局、テレビつけてあげて見せたり、子供を映画館に連れて行ったり、おもちゃをジャジャブ買ってあげるのは大人なんだから。むしろ本来のターゲットは大人のお財布なのだから、最初から実際には大人向けに作られていると言ってもいい。これは素晴らしいわ、これならうちの娘(息子)にも勧められるわ!と思わせなければいけないのだから。)

  

・・・で、私が言いたいのは、だから良いんだよね!ということです。

 売りつけたい、売りつけたい、というギトギトした脂ぎった欲望に突き動かされて、大人たちが計画して必死で作り上げるからこそ、これほど完璧なファンタジーが作られたのだろうと思います。

 

◆たとえば『アリス』

  例えば、詳細は分かりませんが、『不思議の国のアリス』は、ロリコン数学者の、アリスちゃんを何とか振り向かせたい、写真を撮りたい、とかっていうようなギトギトした欲望が、生み出したものとも言えそうです。(平凡社ライブラリー、キャロル『少女への手紙』を読むと、これは面白いんですが、こう解釈するのはあまり間違っていない、という気になると思います。)

 つまり、ギトギトした欲望が、見ているものを誘い込んで、閉じ込めて、もう二度とここから出られなくても良い、と思えるような、完璧なファンタジーを、生み出すのではないでしょうか。

(これを、文章、ファンタジーでやるのではなく、物理的に行うと犯罪です。彼もそんなことはしなかった。そうではなく、絵本を作って読ませたり、お手紙を送ったり、という方法で、つまり言葉を使って、それを行おうとしたのです。)

 

 プリパラに感じる、中毒性、どうすることもできないほどの、あっち側に連れて行かれるような感じというのも、こういうのに少し似ているんじゃないかと思います。

 もうすっかりやられてしまった私としては、そういうファンタジーで手篭めにされたいし、もっと催眠術をかけられてしまいたいと、自ら思うようにすらなりました。(そして、じゃぶじゃぶとお金を使ってしまいたいです。)

 

 

ときめきポポロン♪の感動、再び──『DMS』特典の「チマメマーチ」大阪公演の映像と、『MAX』連載2018/3

  先日発売された『DMS』(OVAご注文はうさぎですか?? 〜Dear My Sister〜』)Blu-ray特典の

chimame march in Osakaダイジェスト」を何回も観ているのですが、

ときめきポポロン♪」のところは、やはり毎度うっかり泣きそうになります。

 

この歌はもう、このように振り付けと共に歌ってくださると、

何か自動的にこうなるようになってしまっている。

 

そのとき頭に思い浮かんでいるのは、いうまでもなく、

アニメ2期エンディングの映像、

そして、最近の『きららMAX20183月号のお話、です。

 

 

f:id:miusow:20180617170840j:plain

(1)アニメ2期エンディング

アニメ2期エンディングは、初めて見たとき、チノちゃんがお外で、お友達と一緒に、踊ってる!

ということへの、驚き&感動が、何よりもまず思い起こされます。

 Chimame marchライブで生き生きと歌って踊っている声優さんたちの姿は、この感動をより一層強くしてくれます。

 

何度もお話しているような気がしますが、とにかく、この2期エンディングの映像の感動するところは、

 

・もちろんその姿が「可愛すぎる」ということもあるのですが、

 

それ以上に、

 

・チノちゃんがこんなことを!お友達と!お外で!している!という、チノちゃんの変化、チノちゃんの世界の広がりです。

 

本当によかったね〜〜!!、チノちゃん(そしてチマメ3人)という気持ちで、感動してしまうのです。

原作第1話、アニメ1期第1羽から、ここに至るまでのチノちゃんの様々な、一歩ずつ進んできた道のりが思い起こされて・・・進んできたと言うと、少し違うかもしれません。何か問題を抱えていた人がそれを克服するような、そんなお話ではありません。そうではなくて、チノちゃんの本来の姿が、いつものみんなの優しさによっていつの間にか開花していた、と言うべきでしょうけれども、

そのようなチノちゃんのこれまでの姿が思い起こされます。

 

 

(2)『きららMAX20183月号

そしてまた、『きららMAX20183月号のお話も思い起こされます。

このお話は、このようなファンの私(たち)の、チノちゃんや、「ときめきポポロン♪」エンディング映像に対する気持ちを、しっかりと受け止めてくれているお話です。

「あの橋の上」「パーカー」などが、わかりやすい目印になっていますよね。モチーフとして、あの映像を、みんなで撮っている、というようなイメージのお話になってると思います。

 

 特に、この連載2018/3p. 79左3〜4コマ目のココアの表情と発言は、

私がアニメ2期の「ポポロン」エンディング映像を初めて見たときのものと、全く完全に一致していて、「ファンの気持ちを汲み取ってもらえている!!」と、喜びに浸りました。

・・・というよりも、ファン、特にチマメファンは、ココアお姉ちゃんと気持ちがどんどんシンクロしていくものなのかもしれませんが。

 

 

 また、このお話の最後のコマでは、タカヒロが「チノも変わったな」と言っていますよね。

──ここで思い浮かぶのは、タカヒロのキャラソンです。タカヒロは、原作でもアニメでも、本編で気持ちをつらつらと述べるということはほぼありませんが、キャラソンは手がかりを与えてくれます。そこでは、チノの変わっていく部分と、同時に「でも無理に全てを変えなくてもいいんだよ」と優しく見守ろうとする気持ちとが、絶妙に表現されていました。

 

 そして、このようにチノを見守るタカヒロの気持ちは、私(たち)の気持ちでもあります。アニメのエンディングを見たとき、こんな気持ちになった、ということは、すでに述べた通りです。

 

 ・・・とはいえ実は、細かいことを言えば、アニメ2期の段階では、もしかしたら少しまだ早かったかもしれません。みんなと踊る、ということでいえば、確かにバレエを始めるというエピソードもありましたし、スムーズではありました。

 しかしながら、2期までのお話の段階よりも、今のこの時点(『MAX』連載20183月号)の時期の方が、より一層、チノちゃんの変化をスムーズに捉えることができると思います。

(アニメ2期よりも後の時系列に当たると思われる原作エピソード、例えば、チノの独唱、文化祭、・・・等の展開を経て。)

 

 例えばこのように、アニメエンディングの映像に至るまでも、Koi先生は、原作の中で生かしきり、全体としての「ごちうさ」の世界を、より完璧なものにしてくれているのだと思います。しみじみと思うのは、『ごちうさ』というのは、本当に、一切がとても丁寧に・繊細に組み立てられている作品だということです。だから、何度でも嚙みしめて味わう甲斐があるのです。

 

【新刊】『ごちうさ6巻を読む(前半)』@「3秒でもふもふ」カ74a(インテ大阪5号館)

 当サークル「ロマン主義アニメ研究会」の、冬コミ以来の新刊&イベント参加のお知らせです。

 どうぞよろしくお願い致します。

 

 

新刊:

ごちうさ6巻を読む(前半)』

 B52段組 48頁 ¥500(予定)

──「ごちうさ」考察・随想・評論本。

  

参加イベント:

 3秒でもふもふ

(トレ魂 4 内 合同開催)

ご注文はうさぎですか? オンリー同人誌即売会

 

2018年6月24日(日) 11:00~15:00

会  場      インテックス大阪 《5号館》

 https://www.aoboo.jp/neo/item/p0106.html

  

スペース 5号館 カ74a

  

 当日はスペースにて、皆様のお越しをお待ちしております。

 既刊もいくらかご用意がありますので、こちらもよろしければ手にとってご覧いただければ幸いです。

 

お品書き 

 

【新刊】

ごちうさ6巻を読む(前半)』¥500

 

【既刊】

・『ごちうさ論 その1 <基礎編>』 ¥300

・『ごちうさ論:「Sister」の「魔法」──アニメ「Dear My Sister」から読み解くごちうさ』 ¥500

・『chimametai ni naritai!!』(コスプレ写真集) ¥400

 

 

f:id:miusow:20180617172809j:plain

(↑新刊表紙イメージ) 

 

 

◆新刊について

神様はちっちゃいに宿る、とか? /それはきっと細部だと思うよ

チマメ隊「♡♡ケーキをもうひとつ?」

やりたいことから きらきら受けとっちゃうんだよ

ココア「きらきら印をみつけたら」

  今回お届けします新刊では、これまでと少し趣向を変え、具体的なエピソードごとに即して、読解を試みていこうと思います。とりわけ今回は、原作コミックス「第6巻」を対象にいたします。こちらは既に読まれている方が殆どだと思いますが、よろしければ、どうぞご一緒に、もう一度コミックスを手に取りながら、読み進めてまいりましょう。

  

──なぜこんなことをするのか?

  私が『ごちうさ』研究を始めて以来、気がついたこと…というより、単に好きで読んでいた『ごちうさ』を、ただ読むのでなく、どうしてもいろいろと「研究」したくなってしまった理由でもあるのですが、それはすなわち、『ごちうさ』には、無数に・至る所に、細かな〝仕掛け〟のようなものが施されている、ということです。とりわけそれは原作において顕著です(アニメではすくいきれないような細かいものもたくさんあります)。そうした細かな〝仕掛け〟たちに注意を払いながら、仕掛けから仕掛けへと追いかけていくうちに、次第に『ごちうさ』の物語の全体を、より立体的に把握できるようになってまいりました。

 こうした〝仕掛け〟を追いかけた〝結果〟をまとめたものが、既にお届けしております2つの本(既刊)であります。そこで今度は逆に、そうした仕掛けを追いかけていく〝プロセス〟を、皆様とご一緒に楽しめないだろうか、と思ったのです。

  

──日常系作品における「個別」と「全体」の関係、『ごちうさ』の場合

  一般的に言って、日常系とも表現されるような作品では、「個別」(個々のエピソード、個々の4コマ)を「全体」(作品全体の大きな文脈)から楽しむというよりも、「個別」を「個別」としてそのままに楽しむこと、あるいは、せいぜい〝全体〟は「個別」が単に〝集積〟したものとして捉えることの方が、多いかもしれません。具体的に言えば、例えば、気の向くまま好きなページをランダムに開いて楽しむようなスタイルが適切な作品も多いかもしれません。実際、日常系と表現される作品では、そういったものも多いと思います。『ごちうさ』もそうした楽しみ方は可能ですし、私もよくやります。

 けれども、『ごちうさ』は他方で、「個別」(個々のエピソード、個々の4コマ、もっと細かく言えば、登場する個々のあらゆる要素)を、「全体」(大きな『ごちうさ』の文脈)の中で位置付けて読み解くための手掛り・仕掛けが、あまりにも頻繁に、明らかに意図的に、随所に散りばめられているように思われるのです。まるで、謎解きのヒントをわざと配置してある…ちょうど「シスト」のように、組み立てられているようなのです。そう、『ごちうさ』は、シストの地図を追いかけるような気持ちで、仕掛けから仕掛けへと追いかけながら読み解いていくと、より立体的に・より深く、味わえるように組み立てられている(と思う)のです。

  

──なぜ6巻?

  まず第一に、コミックス6巻の重要性です。コミックス6巻は、これまでの『ごちうさ』コミックスに比べても、一つの大きな節目、あるいは折り返し地点のような印象を受けるからです。このことは、まずコミックスを開くよりも前に、〝表紙〟を見ただけでも、何か感じとられることではないでしょうか(のちに、6巻表紙の〝新しさ〟について詳しくお話しいたします)。そしてもちろん、収録されているお話からもそのことを感じ取ることができると思います。この「6巻」を軸とすることで、『ごちうさ』の過去のエピソードと、これから続くかもしれない展開との、両方を見渡せるような見通しの良い地点に立てるのではないか、と考えたことがまず大きな理由です。

 また第二に、せっかくですのでなるべく新しいエピソードで、というのもあります。とはいえ、本当に最新の「連載」の場合、単行本収録を待ってから解釈をしたいという気持ちが残ります。よく知られるように、単行本収録時にはしばしば〝修正〟が加えられますが、それにより、のちに本書でもお示しするように、お話しのニュアンスが変わるという事例がしばしばあります。

 

──(ちなみに)

 ちなみに、本書は「ごちうさ6巻を読む(前半)」となっております…いや、なってしまいました。今回はいろいろな制約から、文字どおり「薄い」本を作りたかったのですが、6巻の「表紙」の読解から始めて順番に各話を読解していこうとした結果、まず「表紙」だけでかなりの分量を費やしてしまい、さらにその後も、想像以上に分量が増えてしまいました。このようなことから、本書で触れていないエピソードについては、またの機会に読み解いてまいりたいと思います。 (以上、まえがきより一部抜粋)

 

ピュアな男の子を求めて 〜私にとっての二次元の男の子アイドルの魅力を考えてみた

 ピュアな男の子をもとめて。

  

◆浄化されたい

結局、『アイドルマスター SideM』の、二次元の男の子アイドルに私が求めているものは、ピュアさなんだ、ということに気づきました。

  

f:id:miusow:20180608104716j:plain

(【↑上図】あぁ…もうなんて可愛いんでしょうね…。なんかこう、喉の奥が、ウッとなる。可愛すぎて吐きそうになります。 ──ねぇ、もう本当に可愛いので、可愛いものが好きな人には全員にお勧めしたいくらいです。

 (関係ないですけど、この『〜ライブオンステージ』の、任意の好きなアイドル2人を〝仲良し〟にできるシステムは、本当に良いですよね。)

 

 

『SideM』のアイドル達の歌を聴いていると、浄化されるような、心が洗われて、自分が透き通っていくような気持ちになります。

その歌声に、いつの間にか自分も同一化して、一緒になって歌っている。

 

そうしているうちに、男でありながらピュアでもあり得る、というような希望が持てる気がしてくる。

…それらも一切が二次元が見せる幻想だ、と言われるなら、多分そうなのでしょう。けれども、幻想でもいいから、一時的にであれ、浄化されたような気にさせて欲しいのです。

 

二次元の(アイドルの)男の子は、本当にピュアなのですよ。男性(大雑把な言い方ですみませんが)のもつ汚らしさ、いやらしさ、クソなところが、ないのですよ。

私はそういう汚いものから解放されて、純粋に戻りたい。浄化されたいのです。

 

(二次元の女の子も[作品にもよりますが]、ピュアですよね。だから、感情移入しながら没頭することで、同じような浄化作用があるのですが、いくら感情移入しても、でも、この子は女の子だし…という「壁」にぶち当たるような気もします。もちろん、私は常日頃からピュアな女の子になりたいと願い、頑張って(?)はいるが、どうしても私のベースが男である以上、限界がある気がする。それに、よく考えたら女の子になりたいわけでもない。そうではなくて、ともかくピュアになりたいだけなのだ。)

 

(補足)

ここまで考えて、そういえば、『けいおん!』『ごちうさ』的作品にハマる女性が稀にいるけれども、これも現実の女性(たち)にある嫌な部分が浄化されているからなのかなあ、と、ふと思いました*1 

例えばなんとなく傍目にも、女性集団の生活は、生きづらい人にとっては生きづらいだろうなあ、という気がしていましたから。これは推測ですが。

(『ごちうさ』の女の子たちは、嫌がらせをしたりしないし、恋愛トラブルもないし、変わった子や気弱な子も優しく仲間に入れてあげますよね。──ただし、みんな素のままで異常に外見が美しい、というのがあって、あらかじめみんなが美醜をめぐるルサンチマンから解放されているのだけれども。)

  

(補足2)

『SideM』の次郎さんはじめ、S.E.M.のアイドルたちも好きなのですが、「先生」という包容力ある優しいお兄さん・おじさんたちという意味で、好きなのだろうと思います。彼らもまた、浄化されていて、ピュアな振る舞いをします(道夫は特にピュア)。

(お馬さん好き・ビール好きのおじさん、次郎先生は、飲む打つ買う、と三拍子揃いそうなところですが、当然ながら、買う、の要素はありません(それは嫌だ)。猫カフェがそれに置き換わってるのかもしれないですね(猫なら許せる)。)

 

◆二次創作の捉え方

二次元の(アイドルの)男の子は、ピュアで、いやらしくない…とはいえ、同人誌を開けばいろんなことをしています。もちろん二次創作であるのだから、切り離して考えるべきですが…とはいえ、こういう作品の受容は、二次創作なくして十分にできるのだろうか、という気もいたします(こういったゲームは、アイドルたちの断片的な言動をかき集めて、再構成するという作業をし続けない限り、アイドル達のことがわからないようになっています。そのような再構成の作業はそれ自体楽しいものだから、各自が頭の中で行えばいいものではあるのですけれども、とはいえ、二次創作作家の皆様が行ってくれる「再構成」は、やはりそういう各自の楽しみのための強力な手助けになってくれる場合が多いと思います)。

確かに私は元々、成人向け二次創作はあまり積極的には手にしない方ではありますが、けれども、成人向けの二次創作でも、やっぱり現実の(三次元の)男の持つ汚らしさは、きれいに浄化されている場合が多いと感じます。私自身が現実世界では、(おそらく)ホモセクシュアルではなく、そういった経験もないので、二次創作における男性登場人物達の「行為」は、ファンタジーの領域で、〝空想上の行為〟なわけです。そういう私にとっては、二次創作における彼らの行為は、現実の世界の「汚れ」から逃れている(ように見える)。 ・・・とはいえ、いずれにしても私は、主観的に特にきれいである・ピュアであると思われるような作品を念入りに選択するようにはしています。要するに基本的には、全年齢のもののみを嗜むようにするのが良いのでしょう。

 

◆ライブ等に対する距離

またついでにいえば、それゆえに私は、ライブなどの声優さんが前面に出てくるコンテンツに対して、どのような態度をとるのがよいのだろうと少し迷う部分があります。 

ライブのライブビューイング、アニメのイベント(Five-St@r Party!!)のライブビューイング、には行き、大変楽しみましたし、いずれ現地にも行ってみたいという気にはなりましたが、そのうえさらに、そうした声優さんイベントの映像の円盤を入手することには少し躊躇があります(そもそもライブの円盤は公演ごとに膨大にあって、入手もかなり骨が折れそう、という理由もありますが)。 

声優さんは三次元の人であり、とりわけ男性の声優さんというものに対して、私はどのような感情を持っているのだろうか(あるいはどのような感情も持っていないのだろうか──ピエール君は、中の人も可愛くてよかった、とは思った)。

 

私の場合は、原則的には二次元で完結して、ファンタジーの中でウットリ遊びたいだけなのでしょうけれども、

とはいえ、実際にがんばって演技をしたり歌ってくださる方々のおかげで、このファンタジーは成り立っていると考えれば、

やはりその人たちはどんな人なのだろうということは気になるし、また何より、

直接、その人たちに声援を送ったり、「光」で応援の意を示すことは是非したいと思うのですけれども。

*1: かおり監督:「なんというかこう…リアルな女子高生って結構言葉とか汚いですが/[『ゆゆ式』では]こうあって欲しいと思う理想を地でいってくれてて非常に可愛らしいなって/[中略]/二次元の女子高生っていいですよぉ…実際いてくれたらいいのになぁ/…二次元は素晴らしいですよ本当…」

レポーター:「かおり監督…リアル女子高生で何かあったのだろうか(捨てゼリフのようにっ)」

(津留崎優「制作現場レポートマンガ」, 三上小又[原作], まんがタイムきらら[編]『ゆゆ式TVアニメ公式ガイドブック:情報処理部のライフログ』, 芳文社, 2013, 103頁.) 

『プリチャン』、アイドル「脱-魔術化」のぱらどっくす ──「魔法より素敵なライブがはじまるよ」?

 『キラッとプリチャン』のアニメ・筐体ゲームで少し遊んだ今の時点で思うことです。

 

 やっぱり何と言っても「ライブ」の部分は、「そうそう、こういうのが見たくて見たの」と思わされるような、キラキラ感がありました。

 けれども、かえってその分、「ライブ」部分と、それ以外の部分とに感じられる、ちょっとしたズレ、齟齬が、どうしても気になってしまいました。何となくつながりが悪いような気がしてしまっております。この違和感を手掛かりに、少し考えたことを述べたいと思います。

 

◆疑問:そもそも「プリチャン」において「ライブ」はどういう位置付けなのか

 それはつまり、「プリチャン」という仕組みの全体が、一体どうなっているのかがよくわからないからなのですが、特にわからないのは、「プリチャン」という仕組み全体における「ライブ」の位置付けです。

  

◆「ライブ」と、それ以外の「番組」との関係がよくわからない

 確かに、「番組」を頑張ると(「いいね」が集まると)→「ライブ」ができる、という仕組みは、前作『アイドルタイムプリパラ』における、「アイドルタイムがたまる」→「ライブができる」、というような仕組みと同じもののようにも思われます。

 しかしながら、やはり『プリチャン』の場合、「ライブ」して「コーデがもらえる」という要素と、そのライブ以外の「番組」との関係が、どうもよくわからないところが多いのです。

 

 もちろん、『プリパラ』でも、『プリリズ』でも、ライブ(or プリズムショー)とライブまでのアニメのストーリーとは、いつもそんなに深いつながりがあったわけではありません(こじつけ的に急に出てくる「そうか、ライブをすればいいんだ!」という発想などは、かえって面白い部分でもありました)。

 けれども、『プリチャン』の場合、特にそれが気になってしまうのは、『プリチャン』においては、ライブの前までのストーリー部分は、ほぼニアリーイコールで、「プリチャン」の「番組」づくりになっている、ということがあります。つまり、「ライブ」とそれ以外の部分とは、一つの仕組みとしての「プリチャン」の中においてどういう関係になっているのかが、どうしても余計に気になってしまいます。

 

 これに関して特に思うのは、「プリチャン」の番組配信者は、老若男女、あらゆる人たちであり得る(ようである)、ということがあるからです。

 確かにプリパラでも、女子プリ、ダンプリ、といったようなものはあったけれども、「プリチャン」の場合は、もっと自由度が高い(ようです)。まさに現実の動画配信サービスの配信者と同じくらいに。

 しかしそうなると、コーデとか、ライブとかっていうものは、「プリチャン」というシステムにとって、どういう位置付けになるのだろう、ということが気になってきます。例えば、コーデもライブもいらないけどプリチャン番組配信だけをします、という人がいてもいいのだろうか(これらに関心のなさそうな?プリチャン配信者が、アニメ内では映ったりしている)。その場合、番組が盛り上がった結果、「ライブができますよ」と言われても、「あ、私はやらないです」と断ったりもしていいのでしょうか。

 

◆「めが姉ぇ」、「プリズムストーンショップ」、の位置付けは?

 さらに気になるのは、めが姉ぇやプリズムストーンショップの位置付けです。例えばユーチューブの場合、グーグルに相当するような立場なのでしょうか。しかしめが姉ぇは「店長」と呼ばれていて、そんな大規模なものを統括している人には見えません。

 また、みらい、えもたち以外では、プリズムストーンに通っている風の人があまり出てこないので、一体プリズムストーンというのは、「プリチャン」という仕組みや、プリチャン配信者にとって、どんな位置付けなのかが、よくわからないところがあります。

 例えば、プリズムストーンに関与しなくても、プリチャン配信はできる、ということでしょうか(プリズムショーはプリズムストーンショップに関与しなくてもできるのと同じように)。つまり、プリズムストーンは、「プリチャン」というグローバルな?仕組みにおいて、一つのプロバイダとか、なにか代理店的な位置付けなのだろうか。あるいは、「プリチャン」という仕組みにおいて何かを成し遂げたいと思う人のための、コンサルタントのような感じなのだろうか。

 

 ・・・いやまあ、キッズ向けなんだから、こんなことはどうでもいいんだよ、と言われればそれまでなのだけど、前作の『プリパラ』は、ああ見えて案外、いろいろ仕組みについてはそれなりに(無理やりにでも)説明がされていたように思うので、どうしても、プリチャンではいろいろと気になってしまう。

 

◆「フォロチケ(交換)」の位置付けは?

 また筐体ゲームで、2回目に遊んだ時、まだ誰ともフォロチケ交換していないし、1回しか遊んでいないのに、すでに「フォロワー」が増えていたが、あれはなんなのだろう(誰なのだろう)。

 「フォロワー」とは、フォロチケ交換とは直接には関係がないのだろうか。となると、フォロチケ交換とはどういう意味を持つのだろう。

 アニメでは、フォロチケ交換するシーンで、「特別な意味でのフォロワーだよ」みたいなことが言われていたが、となると、「フォロワー」という同じ言葉を使っていながら、二つの別のものを指している場合があるということだろうか。複雑である。

 

 ◆以上の疑問の根底にある事柄 〜脱魔術化されたアイドルは成り立つのか?

  要するに、こういうことではないでしょうか?

・コーデが「もらえる」、ライブが「できる(させてもらえる)」、というような、何か上位の権威によって、──プリパラ的に言えば「システム」の判断によって、何かをようやくもらえたりもらえなかったりする、といった(垂直型の?というべきかわかりませんが)仕組みと、

・ネットの動画配信のような、好き勝手に何かを配信して、見ている人が好き勝手にいいねを送って評価する、というような(デモクラティック?SNS的?な)仕組みとが、

互いにマッチしていない、というのが、根本の要因としてあるように思います。

 

 もちろん、グーグルなどにおいても、特定の配信者をピックアップして何かの援助を行うということは、行っているであろうけれども、しかし、ちょっとこの「プリチャン」の場合はそういうもの以上であって、「ライブ」は、その「与えられる」特殊な空間でのみ可能なものとされているし、またそこで何らかの判断によってコーデが「与えられる」。

 

 『プリパラ』の場合は、「アイドル」とは、まさに従来型の意味のそれであって(昭和のアイドルどころか、古代にまでさかのぼるくらい、伝統的な意味でのそれ)、モデルとしては、旧来型の芸能界とか、テレビ業界、といったものが念頭にあるだろう。私は実際のこういう業界のことは知らないが、確かにそこでは、なんらかの形で、権威を持っている層、決定権を持った人たちがいて、チャンスが与えられたり、与えられなかったり、するであろう。それは、「運営」「プロデューサー」などと呼ばれることもあるだろう。もちろんその判断は、必ずしも恣意的なものとは限らず、卓越した能力や、従来の慣習、つまり、ある種の伝統に基づく権威のようなものがものを言っている場合も多いであろう。そしてそれは(大げさに言えば)芸術的な価値に関する判断においては、必ずしも間違っていないとも思われる。

 

 もちろん、『プリパラ』でも、「いいね」を集めるという仕組みがあり、その意味ではすでにSNS的ではあったかもしれないが(とはいえ、実際に観客が「いいね」を送るというのはアニメでの表現であって、筐体ゲームではプレイヤー同士が互いに「いいね」を送り合うような仕組みは、原則としてなかったと言えるだろう。・・・トモチケを通じた「ボーナス」などの仕方で、微妙にそういう要素があったと言えなくもないだろうけれども。)、しかし、神アイドルグランプリなどに見られるように、必ずしも、すべてがSNS的に、デモクラティックに事が進んでいたわけではない。つまり「いいね」の数によらず、「システム」、ないしはシステムの権化たる「女神」などが「判断」し、「与える」、というような仕組みが、いたるところに存在した(直近では「古代メガネ」(笑)が判断したりしてましたね)。

 

 そしてこの「システム」、「女神」とは、結局のところ、「タカラトミーアーツシンソフィア」等の権化なわけであるが、それはまさに、百円を入れて遊ぶ、ガチャ要素のあるゲーム、というものをベースにして全体が組み立てられている以上、「運営」が「判断する」「与える」といった要素が避けられず、一切がSNS的に、デモクラティックに、決定していくような仕様には、当然できないのである。

 

 で、『プリチャン』も、基本的には『プリパラ』からほぼ同じフォーマットを引き継いで設計されている。(アーケードのプリパラ最後の日には、お店で作業する人を見かけましたよね? 上からシールや厚紙を貼り付け、画面には「アップデート」という文字が出ていましたが、つまり「アップデート」なんですよね) ──だから、ぼんやり遊んでたら、『プリパラ』と同じような気持ちでゲームし終わることだってできます。(おひっこシステムで、今までのマイキャラの容姿を捨てて[気に入っていたけど、それはマイキャラグッズに固定化しておくことでよしとした]、レオナきゅんそっくりマイキャラちゃんにしてしまった私など、まさにプリパラのつもりで遊んでいる。) 

f:id:miusow:20180602192732j:plain

 

 ところが、『プリパラ』から引き継いだ、こういう垂直統合型モデル──というと大げさですが、そういった、上位の判断者がいる、というような仕組みと、新たに加わった、SNS的な、デモクラティックな評価・判断の仕組みとが、どうも、齟齬をきたしているというか、つまり、論理的なレベルで噛み合わないのではないだろうか、と思うわけです。

 

 思い返せば、プリティシリーズでは、『プリパラ』(「古代プリパラ」だとか)だけでなく、『プリリズ』でも(遺跡みたいなステージなんかが出てきましたよね)、何らかの神話的なもの、伝統的な権威、つまり上位の判断者が、つねに重要さを持っていました。

 それに対して『プリチャン』の場合(今後の展開を見なければ何とも言えない部分もありますが)、「プリティシリーズ」にこれまで見られた、そういった神話的な要素、伝統や権威といった要素が、今のところかなり排除されているように思われます。

 

 それは、大げさに言えば、近代化、脱魔術化ということであって──OP曲の歌詞にある「魔法より素敵な ライブがはじまるよ」は、なんとなくそれの表れとして読めなくもない。また、まさに魔法少女に定番の「マスコット」的存在が今のところ見当たりません──、それはそれでいいのではありますが、他方で、キラキラ輝くコーデがなぜか運良く与えられるとか、そういった要素も残っています。

 実際、少女趣味的な憧れとか、うっとり感、といったものは、一切のこうした魔法的な・神話的な要素を排除して、成り立つのであろうか、ということが疑問です(少女趣味的憧れには、常に貴族主義的な価値観が根底にあると思います)。

 実際、『プリチャン』でも、ライブの空間が突如現れるとか、キラッとボタン、コーデがもらえる、といった部分は、魔法的な力によるキラキラさがあり、脱魔術化していません。〜そしてこの部分は、プリパラからほぼそのまま受け継がれている要素である、ということはすでに述べた通りです。

 

◆要するに

 要するにまとめるならば、プリパラ的なものと、プリチャン独自の要素との齟齬、これは言い換えれば、権威的・神話的・魔法的なものと、SNS的・デモクラティックなもの(=脱魔術化した近代的なもの)との齟齬が、何かあるのではないか?

 それが、「プリチャン」という全体の仕組みのブレというか、つかみどころのなさに、つながっているのではないか──というようなことが、今の所、感じていることであります。

(特に、ライブのキラキラ感はやっぱり素晴らしく、こういうのが大好きな私などは、やっぱりどうしても、何回見ても、ほぼ反射的に、ついウットリと没入してしまうのですが、そのせいかより一層、ライブ以外の部分との齟齬が気になってしまいます。)

 

 ──とはいえ、これは今日まで(2018年6月初旬現在)、アニメと、筐体で少し遊んだ時点での、私の思うところであって・・・、今後を追いかけていかないとわからないところもたくさんあります。もしかすると半年後あたりにこの記事を自分で見て、ああ〜、あの頃は何にもわかっていなかったな〜、などと思う日が来るかもしれません。

 

 

 

アイマスって何?(「P」とは何か) ──よくわからないけど、楽しめている

◆私にとってのアイマス

 結局の話、アイマスっていうものが、私は未だにわかっていないのです。元祖の「アイドルマスター」には、アーケードはもちろん、あらゆる形態で、一度も触れたことがなく、今後も触れないのではないかと思います。

 

──『〜 シンデレラガールズ

 私は、「アイドルマスターシンデレラガールズ」(デレマス)の「アニメ」(デレアニ)を見たことをきっかけに、ゲーム「〜スターライトステージ」(デレステ)をプレイするようになった。たまに覗き見をするために、元の育成ゲームの方(モバマス?)もインストールはしたものの、あまりやらなくなっている。それに対して、デレステはそれなりに好んでいて、いまでも継続している。とはいえ、一時期ほどの熱心さは無くなった。一つには、とりわけてお気に入りのアイドルが、自分にとって明らかになってきたこと(端的に言えばロリ組、特に、薫、千枝、みりあ…みんな可愛くて仕方ない)、そして、そのアイドルたちの欲しかったカード(恒常SSR)が手に入り(幸運&スカウト課金により)、ずっと見たかったライブMVを綺麗な衣装でじっくり堪能するということができたこと(およびバシャバシャ写真撮ること)、つまり、ある程度の達成感が得られてしまったことが原因である。とはいえ、限定SSRなども、本当は欲しくないと言えば嘘になるので、手に入るなら手に入れたいと思っているし、もっとレベルを上げていろいろな曲をプレイしたいし、ストーリーも全部読みたい、という気持ちも残っているので、毎日ではないが、1〜2日置きくらいにログインして、何か少しやる、という程度のことを続けている。いまでも稀に課金もする(スカウトチケット系は、どうしてもつい手が伸びる──だからそれに備えて、ヨドバシで安売りしている時にiTunesカードをポイントで買う)。・・・というか、このゲームはこのあたりのさじ加減がすごく巧妙なのだろうと思う。

 

 

──『〜 Side M』

 そしてやはりこれもアニメから入ったのだが、「アイドルマスター Side M」を視聴して以来、すっかり幾人かのアイドルがお気に入りになり、曲やストーリーも気に入ってしまった。アニメでは、最終話のゴージャスなライブに至るまでのプロセス、とりわけ、「ワケあってアイドル」の、「理由[ワケ]」(過去)→アイドルになる(現在)→さらにその先の夢(未来)、というような、このプロセスがとても面白くて、一挙に引き込まれた。本当に軽い気持ちで視聴したものだが、すっかり心惹かれてしまい、何回も見てしまった。そこから、ゲーム「~ライブオンステージ」(エムステ)をプレイするようになった。と、同時に、やはり幾人かのアイドルにすっかり頭の中を占領されてしまうほどお気に入りになってしまい(基本的に可愛い系。ピエール・Beit、次郎・SEM、カフェパレ、巻緒、アスラン、咲、さらに、もふもふ…次郎さんも私的には可愛い系ですよ!)、最近ではこちらの方が起動頻度が高く、ほぼ毎日遊んでいる。ゲームが起動すると、明らかに気持ちが高揚しているのが自分でもわかる。事務所でアイドルが話しているのを見ると、ニヤニヤ、あるいは、ウットリが止まらない。

(限定ピエール特別お衣装SRが得られるイベントの際には、ああ、これがイベント走る、っていうことなんだなあ、と、実感した。…おかねもかかったよ…

 

f:id:miusow:20180420235655j:plain

(↑これです、これ。これが見たくて頑張った。──はあ、もう、天使すぎていぎぐるぢぃ…。可愛すぎて吐きそう。)

 

 私自身がまだゲームをやり込んでいないということに加え、おそらくこのゲームそのものがまだこれから発展していく余地を大いに残しているもののように思われるので、当分は飽き足らずにやり続けることであろうと思う。ついでにその発展する余地、あるいはゲームに期待することを書き記しておくと;

 

1、「315プロストーリー」に、もっとユニットを増やして欲しいな! 今一番思っていることはこれ。SEMは最近追加されたけど、もふもふ、カフェパレのを読みたい。

(さらに、ストーリー部分に、音声がついたらいいなあ。フルボイスとまでいかなくとも、ところどころでもつけばよいのですが)

 

2、ライブMVのクオリティ。もっと滑らかで、愛すべきものに改良されていったらいいな! 今でも十分愛しています、が、どうしても、すでに慣れ親しんでいるデレステのMVを見た後にこれを見ると、もっと!と欲張りになってしまいます。(だって、ピエール君はもっと可愛いはずなんだもん!!) […今でも十分素敵な王子様ですよ?けど、もっとポテンシャル引き出せるはず!!という意味です。]

 

デレステと比較するのは酷なのでしょうか。私は詳しい事情を存じませんが(私は意図的にそういう生々しい情報をできれば避けたいと思うタイプです、中の人などいない!夢だけ見させて!…と言いつつ、中の人にまったく興味がないというのもまた嘘になるけど)、ユーザー数や資金などが断然に違うのかもしれません。ですので、微力ながら課金を続けていこうと思います。ゲーム内だけでなく、CDも買ったりします。

 

 (ちなみに、リズムゲーム要素は、私はデレステよりこのエムステくらいがちょうどいいです。もともとリズムゲームはそんなに得意じゃないし、ちょっと疲れちゃうので。──あんまり指をパパパッと動かしたり、反射神経つかうゲームみたいなのが苦手。マリオみたいなゲームも昔、人の家でやったりしても、すぐ歩いてくる変なのにぶつかって死んじゃうから、おもしろくなかった。

 

 それから「~Side M」の元のケータイゲームの方もインストールして、「雑誌」を読んでいます。この「雑誌」、書籍化されないだろうか。

 

 

──二次創作

 

 そしてさらに、これらの公式コンテンツと並行して楽しんでいるのが、二次創作です。──私、あんまりエロいのはダメなので、基本的には全年齢です。とはいえ、成人向けでも自分のツボにはまるいいお話のものもあったりするので、薄眼でチェックするくらいのことはして、良さそうなものは入手します。

 

 私の感覚としては、このアイマス界隈の二次創作は、驚くべきクオリティの高さのものがたくさんあるように思います。「あんきら」の本など、もはや一つの文学ジャンルと言っていいのではないか、と思うくらい。深く、内省的で、文学的なものが多い気がします。エムマスの方も、二次創作を探求しています。しっとりとしたカフェパレ本は好きです。

 

 二次創作で心打たれるユニットないしアイドルと、一次作品で特にお気に入りのアイドルとは、ちょっと別だったりするのも、面白いところ。というより、二次創作作家の方々から見て、とりわけ二次創作がはかどりやすいアイドル、ユニット、というものが、あるのかもしれません。

 

 

◆「プロデューサー」/「主人公」/「アイドル」/「傍観者」

 ところで上記の文章では、「お気に入りの」アイドルと記しましたが、どうやらアイマス文化においては、これを「担当」と呼ぶようです。で、「お気に入り」と「担当」とは異なる概念である、という議論もあるようで、確かになるほどと、かなり納得いく部分もあります。

 

──「プロデューサー」って何? 

 この際、さらに考慮しなければならないのは、「主人公」という概念です。アイマスシリーズは、やはり、ギャルゲー(ないし乙女ゲー)の一形態であると、大きな枠組みでは、捉えることができるのでしょう。Pありきで、Pを取り合うというようなゲームである、という側面です。

 ところで、そういうジャンルのゲームにおいては、「主人公」が登場します。では、恋愛シミュレーションゲームの「主人公」と、アイマスの「プロデューサー」とは、どう違うのでしょうか。違うとは思いますが、どのように違うのでしょうか。

 

 これは結局のところ、「プロデューサー」とは何か、という問題につきます。で、私はこれが、未だによくわかっていないままなのです。したがって、これは同時に、「アイマス」とは何か、ということがよくわかっていない、ということです。

 このコンテンツは、明らかに、ユーザーに「プロデューサー」になることを求めるものだとは思います。けれども、私の場合、このコンテンツを楽しみながら、いつもどこかで、「自分はプロデューサーではないのではないか」という思いがよぎるのです。

 

 

──「主人公」に馴染めない人にとって

 このコンテンツが、ギャルゲー(乙女ゲー)の一形態であるならば、私は「主人公」にならなければならないということになりますが、そういったゲームであれば、私はおそらくやっていないし、ハマってもいないと思います。

 

 私は、そもそも、男性主人公(ないし女性主人公)を中心とした、そういったタイプのコンテンツが、基本的にあまり馴染めないタイプの人間なのです。食わず嫌いだけど、やってみたら面白いかもしれない、と思って、かつて挑戦してみたことがあるのですが、どうしても馴染めず、最後まで続かないか、かなり無理をしないと最後までやれませんでした。

 

 「プロデューサー」というのは、こういった「主人公」よりはまだ、私にとっては馴染みやすいポジションのように思うのですが、それでもやっぱりどこかしっくりこないところがあります。それは、やはり「プロデューサー」にも「主人公」とよく似た要素が含まれるからではないかと思います。

 

 

──「傍観者」か、あるいはいっそ「アイドル」になりたい

 

 私の場合、アイマス・コンテンツに接する際、アイドル達をどこからともなく傍観するか、あるいは、むしろアイドルのうちの誰かになっているかのように思うタイプのようです。私にとって「お気に入り」という感情は、傍観者的に気に入っているという意味か、あるいはむしろ、この子になりたい、というような感情です。

 

 例えば「デレステ」では、「プロデューサーさんのおかげで…!」と、親愛度を一生懸命アイドルが伝えてくれるんですけれども、

「ちょ…僕の事はいいから、君が頑張っただけだし、その…、そういうのは仲間のアイドルたちに伝えてあげて…」

と、少し身構えてしまうというか、引いてしまうというか。──人によっては、いやいや、そこを楽しまないでどうするんだ、一番おいしいところを味わっていないよ君は、と言われてしまうかもしれないんですが、実際そうなんです。アイドル達がお互いどうしで勝手に協力しあったり、ワイワイやっているのを見るのは好きなんですが、こちらに話しかけてこられると、ちょっと引いてしまいます。

 

 このあたりは、「〜Side M」の方が、私に馴染みます。アイドルとPとの絆が深まる、というだけでなく、アイドルどうしの絆が深まっていく、という要素があり、それによってライブの演出が変わっていきます。いつも一緒に練習などをさせていると(「プロデュース」していると)、いつの間にか、ユニットを超えて絆が深まっていたりして、「あらこの子たち、いつの間にか仲良くなってる!」と、面白いと同時に、微笑ましく感じられるものです。

(きちんと検証しないとわからないことですが、何となく、「〜Side M」の方が、「〜シンデレラガールズ」よりも、プロデューサーの存在感が希薄に感じます。そして、これくらいの味付けが、私を含めて、人によってはちょうどよかったりするのだろうと思います。)

 

──アニメの視点

 デレマスもエムマスも、アニメでは、アイドル達の頑張る日々を描く、ということがメインだったように思います。これは、どちらかというと日常系アニメの描き方に近いかもしれません。 

 で、私は、デレマスもエムマスもアニメから入った人ですので、おそらくこういうアニメの目線の延長でしか、とらえられていないのだろうと思います。こういうわけなので、「プロデューサー」になるのが、やっぱりなんとなく慣れません。こっちは見なくていいから、君達だけで楽しくやっていて欲しい、それをちょっと横から眺めさせて貰えばそれでいいです、という感じ。

[まさにけいおん的な楽しみ方です。けいおんの部室に謎の男がいたらおかしいでしょ?追い出されます。(厳密に言えばさわちゃん先生とかは、部分的には、男性主人公の代わりの役割を果たしていると言えるのだろうけれども。)]

 

◆いずれにせよ、幸せです

 結論を言うと、私は「プロデューサー」というものを、従ってまた「アイマス」というものを、よくわかっていません。けれども、現実に、日々、デレマスも、エムマスも、とても楽しんでいます。自己流で、独自の楽しみ方かもしれませんが、これで幸せです。

 アイマスは、「本来は」そういう作品じゃないんだ、と言う人もいるかもしれませんが、私はその「本来の」楽しみ方であれば、近づかなかったと思います。また、こういう私のような近づき方も可能であるような余地が、初めから用意されていたのではないか、とも思います(その場合、私の楽しみ方も「本来の」楽しみ方に数え入れて良いということになるでしょう)。

 つまり「プロデューサー」というのは、適度な距離を持ってアイドルたちを見守る人のことで、それゆえ「傍観者」にも、「主人公」にも、圧縮したり膨らませたりできるのでしょう。それだから、「主人公」が苦手な私のような人でも、自分なりの処理がしやすい立場なのではないかと思います。(反対に、「主人公」になりたい人は、「主人公」寄りにふくらませていくことも可能な立場なのでしょう。)

 

 

 

◆(補足)「プリパラ」の「プロデューサー」?

 エムステの「315プロストーリー」や、デレステの「コミュ」(ストーリー)を読んでいると、ほとんどプロデューサーが出てこず、実質的にプロデューサーがいなくても十分お話として成り立つようなものが多いように思う。一応、デレステのコミュの場合、プロデューサーが「アイドルたちとコミュニケーションをとる」ということになっているのだけれども、アイドル同士がコミュニケーションをとっている様子を眺めている、という側面も強い。

  さらに、リズムゲーム部分について、設定上は、プロデューサーが、ライブの指示を出している、ということになっているのだとは思いますが、リズムゲームは実質的には、指でダンスを踊っているようなものに近いので、ユーザーが行っていることは、プロデューサーというよりむしろアイドルの立場になっているような気もします(太鼓の達人は「太鼓奏者」になるゲームですよね? 「太鼓」でも「太鼓プロデューサー」でもなくて…こういう職業があるのか知りませんが。仕事の流儀的ドキュメンタリーに出てきそう)。

 

 実際、ライブに合わせてリズムゲームをするというのは、例えば「プリパラ」のゲームでも同じであるが、「プリパラ」の場合は、明らかに、ユーザーがアイドルになるという形式のゲームである。 

 ちなみに、「プリパラ」のゲームに関して興味深い話を、以前聞いたことがあるので、ついでに書き記しておく。つまり、「プリパラ」のゲームは、「本来は」明らかに、ユーザーがアイドルになることを想定しているものであり、だから私も、「わぁい!これでついに念願の女児アイドルになれる〜〜っ!!」と大喜びし、興奮気味に楽しんでいるのだけれども、ふと冷静に考えてみると、「プリパラ」筐体に集まる大きなお友達は、みんなこんな調子で「心は女児」なのだろうか、つまり私と同じ気持ちなのだろうか。いや、なんとなくみんながそうというわけでもないような気がするが、ではどういう気持ちで熱心に遊んでいるのだろう。というようなことが気になったので、ある機会に、長年プリパラ筐体で遊んでいるという人に「どういうつもりでやっているのですか」と訊いてみた。すると、「プロデューサーになった感覚ですね」という答えが返ってきたのだった。これは大変興味深い答えだった。「プロデューサーがいないはずなのに、プロデューサーになった感覚で楽しむ」というのだから(プリパラにマネージャーはいても、プロデューサーはいない。アニメにおいて紫京院ひびきはある意味でプロデューサーのような立場になろうとしていたとも言えますが…その企ては否定されてしまいます)。しかしそれはそれで、かなり納得のいく発想でもあった。確かに、マイキャラちゃんは自分の分身であると同時に、「育てる」という感覚もあると思います。

 そこで、この取り組み方を、逆転して、アイマスコンテンツに適用してみることもできるのではないだろうか。すなわち、「プロデューサーがいるはずなのに、いないつもりで楽しむ」ということも、十分できるのではないだろうか、ということです。