ロマン主義アニメ研究会

「ごちうさ論」本、各種、書店様委託販売中です。よろしくお願いします♪ ZIN様 https://bit.ly/2vMxeK5 メロン様 https://bit.ly/2PbXy8v

【書店委託】「ごちうさ論」本、書店様依託(メロン、ZIN)のお知らせ

  改めまして、コミケでは、スペースにお越しいただいた皆様、本を手に取ってくださった皆様、ありがとうございました。また加えて、これまで書店様を通じて本を手に入れてくださった方にも、本当に、ありがとうございました。

  短い時間ながら、少しお話しできた方々も、とても楽しかったです。何人かの方は、かなりはっきりと、前回までの本について、「よかった」ということを伝えてくださり、やはり、それは実際言われるととてもうれしいものだと、感じました。

 

 さて、 コミケ等で頒布いたしました新刊、既刊について、書店様での委託販売が開始しておりますので、お知らせいたします。当サークルの本にご関心を持っていただきながらも、コミケ等にお越しになれなかった皆様、もしよろしければ、こちらをご利用いただければと思います。 

 今回新たに委託開始となるのは、昨年の夏コミ(C92)の既刊『ごちうさ論 その1〈基礎編〉』、今年のごちうさオンリー&夏コミ(C94)の新刊『ごちうさ6巻を読む(前半)』の、メロンブックス様でのお取り扱いです。

  

【書店様委託情報】

  

ごちうさ6巻を読む(前半)』(新刊)

ごちうさ物語における一つの転換点とも言える『6巻』を、「表紙」から順番に読み解いていきます。これからのごちうさはどうなっていくのか?これまでのごちうさとどうつながっているのか? 細部の仕掛けを追いかけていきます。

⇒メロンブックス

 

ごちうさ論:「Sister」の「魔法」〜「DMS」から読み解くごちうさ(C93)

〜最近のごちうさ世界のある「変化」を、「Sister」の「魔法」という観点から読み解きます。アニメ『Dear My Sister』の解釈、特に「夢」の解釈を、議論の出発点にします。

⇒メロンブックス

⇒COMIC ZIN

   

ごちうさ論 その1〈基礎編〉』(C92)

〜主に〝初期ごちうさ〟について。「ズレの構造」から読み解く。「もふもふ」とは何か? 「すべてがかわいい」の本当の意味。

⇒メロンブックス

 

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 (お取り扱い状況、2018/08/16現在)

  

メロンブックス

www.melonbooks.co.jp

 

COMIC ZIN

COMIC ZIN 通信販売/商品一覧ページ

 

 

 ◆それぞれの本について

 それぞれの本の概要については、お手数ですが、ブログ過去記事、書店様HP、コミケウェブカタログ、等をご参照いただければ幸いです。

 

ブログ過去記事

・『ごちうさ6巻を読む(前半)』

 

・『ごちうさ論:「Sister」の「魔法」〜アニメ「Dear My Sister」から読み解くごちうさ

 

・『ごちうさ論 その1〈基礎編〉』

  

 

コミケ ウェブカタログ

webcatalog.circle.ms

 

 

 よろしくおねがいしま〜〜す♪

 

 

 

 

◆(雑記)

  みなさま、お疲れ様でした。

 コミケから帰ってきてからの諸々のお片付けやお洗濯、また、戦利品のウスイホンの整理(そろそろ収納する場所がなくなってきた…)や、じっくり読む(…という時間が取れればいいのですけど…[薄いけどたくさんあるし、いろいろ刺激されるので時間がかかる…])、その他諸々のこと(コミケ中疎かになっていたアイドルゲームの遅れを取り返したり)などで、おそらくお忙しい時期ではないかと思います(=私がそうです)。そのうえ容赦なく進行するリアルでの実生活もあるわけですから(…そうだ、そういうのもあったんだ、思い出した…)、大変です。

  しかも、ごちうさ関連では「キャラクターソロシリーズ」(…っていう正式名称なんだね、「ソロシリーズ」って・・・ソロじゃないシリーズもあるってわけ??? ねぇ、エイプリルフールの嘘は、「嘘」じゃなくなるのよね、ごちうさはたいていの場合…)も発売されて、DMS-TPもありますものね(私は落選しましたが…皆様いってらっしゃい&円盤待ち)。『ごちうさ』は、勢いが激しいので、もう全部追いかけると大変ですよ。

 私はごちうさの「グッズ」に関しては、一生分買った、と思ったので、もう最初から極力「見ない」ことに、あるときから決めました(見ると欲しくなるから)。イベントでも、アニメイトでも、ごちうさグッズのコーナーにはなるべく近づかないようにします。(その反動として、結局別作品のグッズを買い込み始めているから、同じことのような気もするんですがね・・・)

 それと、こういう「ごちうさの勢い」にまともに向き合うと、忙しくなりすぎて『ごちうさ』そのものを読む時間がなくなる、という事態にも陥りがちでした。「あれ?思ったよりちゃんと読んでなかった?」と、1年前のコミケ本を作るときに、思い知らされましたよ。ごちうさに向き合うためにも、ごちうさから離れる時間が必要なのかもしれません。ちょうど、ごちうさの子たちがしているように、ゆっくりお茶を飲む時間を持つ、とか…。つまり、ごちうさが「仕事」や「勉強」(コミックス『1巻』「ATOGAKI」)になってはいけない、ということです(?)。 

 

 

 

【2日目 西め34a】コミケの告知!!『ごちうさ6巻を読む(前半)』、ごちうさ論、ほか既刊アリマス!!

 皆様、暑い中、いかがお過ごしでしょうか。

 もうすぐ夏コミですね。私は、カタログを見て、お買い物(特に1日目を…2日目は諦めます)しなきゃいけないものを早くチェックしなければ、と思っているところです。

 

 さて、今回は、当サークル「ロマン主義アニメ研究会」の、コミックマーケット94(夏コミ)参加のお知らせです。

 どうぞよろしくお願い致します。

 

【スペース】

コミックマーケット94 2日目(土曜日)

2018年8月11日(土) @東京ビッグサイト

西1 め34a

https://webcatalog.circle.ms/Perma/Circle/10371368/ 

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【最新刊】

ごちうさ6巻を読む(前半)』

B52段組 48頁 ¥500

──「ごちうさ」考察・随想・評論本。

(今年6月の「3秒でもふもふ」@インテ大阪 での新刊)

 

【既刊】

・『ごちうさ論 その1 <基礎編>』 ¥300

・『ごちうさ論:「Sister」の「魔法」──アニメ「Dear My Sister」から読み解くごちうさ』 ¥500

・『chimametai ni naritai!!』(コスプレ写真集) ¥400

  

 「西」館です!  (西館は涼しい、とかって聞きますが、どうなんでしょう?)

 

 スペースにて、皆様のお越しをお待ちしております。

 既刊もいくらかご用意がありますので、よろしければ手にとってご覧いただければ幸いです。

 

 ◆(追記)『ごちうさ』に独特な研究意欲を掻き立てられている人(なんで?なんで?)へ

改めて、コミケがあるので、ちょっと『ごちうさ』について、思うところを。
我ながら、時々、変だよな~と思うのですが。

どういうわけか、『ごちうさ』は、私の場合、もう、研究意欲を掻き立てられて仕方がないのです。読んでいると、

 

あ、待てよ、この発言は、多分、以前のアレを踏まえてのことだな・・・
ということは、なるほど、確かにこの場面は、あの時と同じ場所だ。

つまり、あの時と同じシチュエーションでありながら、しかし、ここが違っている。
この「差分」が、つまり、大事なことなんだ。

 

・・・とかっていうように(これは今、思いつきで例として書いただけなのですが)、
こんな感じで、研究スイッチが入るのですよね。不思議なことに。

ただひたすら萌えるというより、こっちの方が先に始まるし、面白くて仕方ない。
(もちろん萌えてもいるんですが。)

あんまり一般的な楽しみ方ではないとは思うけど、似たような人も、少数ながら世の中にはいるのではないかと思って、こういう本を作ったりしているところもあります。

なので、「私も似たような人ですよ」という方がいらっしゃったら、是非、お会いした時にでも、申告していただけると、とても嬉しいです。


──実際、こうやって読んでいくと、つじつまがかなり合うのですよ。
もちろん、私の「読み込み」すぎなところもたくさんあると思いますけれども。

・・・というより、こういう「読み込み」が可能な余地の残し方が「うまい」ということなのかもしれませんが・・・でも、あんまり、うまいとか下手とか、そういう「評価」するような態度で、ごちうさとかKoi先生に、接したくないと、個人的には思っています。これは、ちょっと信仰っぽい態度かもしれませんが・・・あ、なるほど。例えば、ある宗教の信者が、聖典解釈に従事するのと、同じことなのかな。聖典って、古いこともあって、そういう「余地」だらけというのが、よくあることですよね。


──けどね~、それよりももっと、わりとロジカルに組み立てられているもののように思うのですよね、『ごちうさ』は。かなり、理屈っぽい「骨格」があると思っています。

例えば、かわい〜♡と思って、ふわふわの柔らかいウサギを抱いていると、意外と骨格の出っ張っているところに当たったりして、「あれ、意外と細身? 意外とゴツゴツしてる?」と気がつくような、そんな感じ、といってもいいでしょうか。

そして、ぬいぐるみみたいだと思っていたら、呼吸のたびに体が大きく動くのが伝わってきて、「息をして、懸命に生きているんだな、この子は」と、ハッと気がつくような、そんな感じです。

(チノが、うさぎのぬいぐるみの「縫い目」に気がつくシーンを、思い出してみてください[DMS、原作5巻]。〝優しい世界〟には縫い目もリゼの手の傷跡もあるわけです。)

 

いわゆる「ガチ勢」的に言われる方も時々いらっしゃるのですが(本を手にとって、ガチだ!と連呼されたことがありました笑)、それともちょっと違うというか・・・もちろんごちうさには「マジLOVE」なんですけど、他の作品とは違って、特に『ごちうさ』には、この種の意欲が掻き立てられる、という感じです。

(けれども、こういう研究意欲を掻き立てられて楽しむこと自体が、作者Koi先生の意図に反していることのような気もして、そこは申し訳ない気もします。何度も引用してますけど「ちょっとしたティータイム」に(1巻ATOGAKI)と思って、描かれているものなので・・・。)

 

 

◆最新刊『ごちうさ6巻を読む(前半)』について(まえがきより一部抜粋)

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──神様はちっちゃいに宿る、とか? /それはきっと細部だと思うよ

チマメ隊「♡♡ケーキをもうひとつ?」

 

──やりたいことから きらきら受けとっちゃうんだよ

ココア「きらきら印をみつけたら」

 

 今回お届けします新刊では、これまでと少し趣向を変え、具体的なエピソードごとに即して、読解を試みていこうと思います。とりわけ今回は、原作コミックス「第6巻」を対象にいたします。こちらは既に読まれている方が殆どだと思いますが、よろしければ、どうぞご一緒に、もう一度コミックスを手に取りながら、読み進めてまいりましょう。

 

──なぜこんなことをするのか?

 私が『ごちうさ』研究を始めて以来、気がついたこと…というより、単に好きで読んでいた『ごちうさ』を、ただ読むのでなく、どうしてもいろいろと「研究」したくなってしまった理由でもあるのですが、それはすなわち、『ごちうさ』には、無数に・至る所に、細かな〝仕掛け〟のようなものが施されている、ということです。とりわけそれは原作において顕著です(アニメではすくいきれないような細かいものもたくさんあります)。そうした細かな〝仕掛け〟たちに注意を払いながら、仕掛けから仕掛けへと追いかけていくうちに、次第に『ごちうさ』の物語の全体を、より立体的に把握できるようになってまいりました。

 こうした〝仕掛け〟を追いかけた〝結果〟をまとめたものが、既にお届けしております2つの本(既刊)であります。そこで今度は逆に、そうした仕掛けを追いかけていく〝プロセス〟を、皆様とご一緒に楽しめないだろうか、と思ったのです。

 

──日常系作品における「個別」と「全体」の関係、『ごちうさ』の場合

 一般的に言って、日常系とも表現されるような作品では、「個別」(個々のエピソード、個々の4コマ)を「全体」(作品全体の大きな文脈)から楽しむというよりも、「個別」を「個別」としてそのままに楽しむこと、あるいは、せいぜい〝全体〟は「個別」が単に〝集積〟したものとして捉えることの方が、多いかもしれません。具体的に言えば、例えば、気の向くまま好きなページをランダムに開いて楽しむようなスタイルが適切な作品も多いかもしれません。実際、日常系と表現される作品では、そういったものも多いと思います。『ごちうさ』もそうした楽しみ方は可能ですし、私もよくやります。

 けれども、『ごちうさ』は他方で、「個別」(個々のエピソード、個々の4コマ、もっと細かく言えば、登場する個々のあらゆる要素)を、「全体」(大きな『ごちうさ』の文脈)の中で位置付けて読み解くための手掛り・仕掛けが、あまりにも頻繁に、明らかに意図的に、随所に散りばめられているように思われるのです。まるで、謎解きのヒントをわざと配置してある…ちょうど「シスト」のように、組み立てられているようなのです。そう、『ごちうさ』は、シストの地図を追いかけるような気持ちで、仕掛けから仕掛けへと追いかけながら読み解いていくと、より立体的に・より深く、味わえるように組み立てられている(と思う)のです。

 

──なぜ6巻?

 まず第一に、コミックス6巻の重要性です。コミックス6巻は、これまでの『ごちうさ』コミックスに比べても、一つの大きな節目、あるいは折り返し地点のような印象を受けるからです。このことは、まずコミックスを開くよりも前に、〝表紙〟を見ただけでも、何か感じとられることではないでしょうか(のちに、6巻表紙の〝新しさ〟について詳しくお話しいたします)。そしてもちろん、収録されているお話からもそのことを感じ取ることができると思います。この「6巻」を軸とすることで、『ごちうさ』の過去のエピソードと、これから続くかもしれない展開との、両方を見渡せるような見通しの良い地点に立てるのではないか、と考えたことがまず大きな理由です。

 また第二に、せっかくですのでなるべく新しいエピソードで、というのもあります。とはいえ、本当に最新の「連載」の場合、単行本収録を待ってから解釈をしたいという気持ちが残ります。よく知られるように、単行本収録時にはしばしば〝修正〟が加えられますが、それにより、のちに本書でもお示しするように、お話しのニュアンスが変わるという事例がしばしばあります。

 

──(ちなみに)

 ちなみに、本書は「ごちうさ6巻を読む(前半)」となっております…いや、なってしまいました。今回はいろいろな制約から、文字どおり「薄い」本を作りたかったのですが、6巻の「表紙」の読解から始めて順番に各話を読解していこうとした結果、まず「表紙」だけでかなりの分量を費やしてしまい、さらにその後も、想像以上に分量が増えてしまいました。このようなことから、本書で触れていないエピソードについては、またの機会に読み解いてまいりたいと思います。

 

  

◆(追記、雑感など) 今年のオンリーでの新刊です & 〝ごちうさ島〟なので何かのついでにでもお気軽にどうぞ

 今回は、コミケ前にオンリーイベント(6月の「3秒でもふもふ」@インテ大阪)に参加し、そこで新刊を作っておき、それをそのままコミケに持っていく、というやり方にしました。

 コミケの前って、お買い物したりコスプレしたりしたいので、それだけでもけっこういろいろ準備がありまして(しかも、一応、普通の人間生活も送っていますから…)、ギリギリまで本を作っていると、本当にてんてこ舞いになっちゃうんですよね〜。というわけなので、今回は本を先に作ってしまおう、ということで、こういうやり方にしてみたんです。

 なので、「3秒でもふもふ」に来られた方にとっては、コミケでは何も新刊がないのですが・・・それでも、まあ、お気軽に来てもらえれば、と思います。

 というのも今回は、〝ごちうさ島〟の配置だからです(こう字で書くと、うさぎ島の大久野島みたいですね)。・・・皆さんここならいらっしゃる方も多いでしょう? それに、ごちうさ好きは企業ブースに行く人も多いと思いますけど、西館なので、そこからも近そうです(…と言っても、近いのに遠くてたどり着けない、というのがコミケではありそうなことですが…)。

 やはりいろいろ考えて、こちらのジャンルに出るのが、一番しっくりくるだろうな、と思いました。 (今まで「ジャンル違い」とされてこなかったのだから、別にいいのですけれど、とはいえやっぱり。今までは「アニメ(その他)」で出てたんですが、原作はアニメじゃないしなあ〜、とか、思っていました。──とはいえ、現実にはアニメ評論系がここに固まっていて、収まりはいいです[きらら原作系もなるべく固めてくれてる感じがする]。それに、私もごちうさの「アニメ」での表現についてもかなり書いているので、その意味では、原作が何であろうと「アニメの評論」と言ってもいいのだろう、とは思っていました。) というわけで、少し迷ったんですけど、特に今回の本は、『6巻を読む』ですから、思いっきり原作ですし、こちらでよかったな、と思います。 (それと、複数のアニメ作品を扱っている方だと、「アニメ(その他)」しかない、ということにもなるかもしれませんが、私の場合、今のところ『ごちうさ』しか扱っていません。)

・・・というような内部事情はどうでもいいだろうと思いますが、

 要するに、お気軽に来てください! そして、実際、お気軽に来やすいところに居ますよ! ということが言いたかったのです。よろしくお願いします。

 

 

プリパラが完璧なファンタジーであった理由の一つ──渦巻く欲望

◆中毒性

 『プリパラ』は、本当に、強力な依存性のある、コンテンツでした。

(比喩表現です。個人の感想です。)

 

『プリパラ』は、見ていると・遊んでいると、酔ってくるし、天国に連れて行ってもらえるの。

 

(例えば、前にも言いましたが、プリパラ・アニメは、まず、ストーリーの部分が、絶妙な仕方で可愛く狂っているのです。でも、終始その調子で進むので、だんだん狂っているとかどうだとか、ということ自体が、どうでもよくなってくるのです。気持ちよくなってくる。そして、そうやって気持ちよく、ふわっと地上から足が浮いているような、夢見心地になっているところへ、強烈なライブシーンが始まるのです。プリパラの、あのめまぐるしいライブシーンは、もう暴力的とも言っていいほどの輝き、煌めきに満ち満ちているのです。

 歌が中毒性のあるキャッチーなメロディーであるのはもちろんのこと、振り付けも素晴らしいのももちろんのこと、さらに、舞台セットがかなりカラフルで目まぐるしく、さらにメイキングドラマなどのぐるぐると目まぐるしいシーンが入り、その上、サイリウムチェンジといったように、過剰な演出に演出が重ねられていく。衣装も舞台装置も、装飾に次ぐ装飾、色彩の上に色彩が重ねられていて、この過剰さに、クラクラとしてしまうのです。

 ──要するにまとめると、ストーリー部分のフワフワ感ですっかり下ごしらえができたところへ、強烈なライブ部分が直撃することで、完全に出来上がってしまう、というわけです。)

  

◆この中毒性の背後にあるもの 〜じゃぶじゃぶ 

  「プリキュア」などもそうなんだけれども、要するにこういう女児向けアニメの多くは、ジャブジャブお金を使わせるための宣伝アニメで、おもちゃをじゃんじゃん買わせたり、ゲームをどんどん遊ばせようとするために、一生懸命考えて作られているわけです。

(補足)例えば「プリキュア」に関して、『まほプリ』では「ヨクバール」が「敵」になっていたのが面白いですね。作っている側の「欲」を隠す意味もあるだろうし、また消費者が、あのおもちゃもこのおもちゃも、って、ちょっと欲張りすぎかしら、私たちをヨクバリにするようなアニメなんじゃないのかしら、などと罪悪感を抱くのをあらかじめ防いでいるようにも思えます。「欲張る」こと(ヨクバール)はこの世界では敵なのだから、ヨクバールを倒すためにあれもこれも買い揃えることは、ヨクバリじゃない、というわけです。・・・だから、かえってこういう裏返した形で、実ははっきり、この女児向けアニメの底にある欲望・ヨクバリが具現化されているいう見方もできます。

 

 長い時間をかけて、だんだんとその世界に引き込んでいって、プリパラはいかに素晴らしいものか、・・・しかも、お勉強やお手伝いともきちんと両立できるし、不良のお友達ができるわけでもなく、かえって、人間として成長できる、というような、反論に対するあらかじめの反論も織り交ぜながら、ゆっくりと、プリパラはいかに素晴らしいものかを、刷り込んで行くわけです。 

(女児向けアニメについて、大人でも楽しめる!とかってよく驚きとともに言われたりするけど、こういう女児向けアニメってそもそも大人が楽しめるように作ってあるんじゃないでしょうか。結局、テレビつけてあげて見せたり、子供を映画館に連れて行ったり、おもちゃをジャジャブ買ってあげるのは大人なんだから。むしろ本来のターゲットは大人のお財布なのだから、最初から実際には大人向けに作られていると言ってもいい。これは素晴らしいわ、これならうちの娘(息子)にも勧められるわ!と思わせなければいけないのだから。)

  

・・・で、私が言いたいのは、だから良いんだよね!ということです。

 売りつけたい、売りつけたい、というギトギトした脂ぎった欲望に突き動かされて、大人たちが計画して必死で作り上げるからこそ、これほど完璧なファンタジーが作られたのだろうと思います。

 

◆たとえば『アリス』

  例えば、詳細は分かりませんが、『不思議の国のアリス』は、ロリコン数学者の、アリスちゃんを何とか振り向かせたい、写真を撮りたい、とかっていうようなギトギトした欲望が、生み出したものとも言えそうです。(平凡社ライブラリー、キャロル『少女への手紙』を読むと、これは面白いんですが、こう解釈するのはあまり間違っていない、という気になると思います。)

 つまり、ギトギトした欲望が、見ているものを誘い込んで、閉じ込めて、もう二度とここから出られなくても良い、と思えるような、完璧なファンタジーを、生み出すのではないでしょうか。

(これを、文章、ファンタジーでやるのではなく、物理的に行うと犯罪です。彼もそんなことはしなかった。そうではなく、絵本を作って読ませたり、お手紙を送ったり、という方法で、つまり言葉を使って、それを行おうとしたのです。)

 

 プリパラに感じる、中毒性、どうすることもできないほどの、あっち側に連れて行かれるような感じというのも、こういうのに少し似ているんじゃないかと思います。

 もうすっかりやられてしまった私としては、そういうファンタジーで手篭めにされたいし、もっと催眠術をかけられてしまいたいと、自ら思うようにすらなりました。(そして、じゃぶじゃぶとお金を使ってしまいたいです。)

 

 

ときめきポポロン♪の感動、再び──『DMS』特典の「チマメマーチ」大阪公演の映像と、『MAX』連載2018/3

  先日発売された『DMS』(OVAご注文はうさぎですか?? 〜Dear My Sister〜』)Blu-ray特典の

chimame march in Osakaダイジェスト」を何回も観ているのですが、

ときめきポポロン♪」のところは、やはり毎度うっかり泣きそうになります。

 

この歌はもう、このように振り付けと共に歌ってくださると、

何か自動的にこうなるようになってしまっている。

 

そのとき頭に思い浮かんでいるのは、いうまでもなく、

アニメ2期エンディングの映像、

そして、最近の『きららMAX20183月号のお話、です。

 

 

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(1)アニメ2期エンディング

アニメ2期エンディングは、初めて見たとき、チノちゃんがお外で、お友達と一緒に、踊ってる!

ということへの、驚き&感動が、何よりもまず思い起こされます。

 Chimame marchライブで生き生きと歌って踊っている声優さんたちの姿は、この感動をより一層強くしてくれます。

 

何度もお話しているような気がしますが、とにかく、この2期エンディングの映像の感動するところは、

 

・もちろんその姿が「可愛すぎる」ということもあるのですが、

 

それ以上に、

 

・チノちゃんがこんなことを!お友達と!お外で!している!という、チノちゃんの変化、チノちゃんの世界の広がりです。

 

本当によかったね〜〜!!、チノちゃん(そしてチマメ3人)という気持ちで、感動してしまうのです。

原作第1話、アニメ1期第1羽から、ここに至るまでのチノちゃんの様々な、一歩ずつ進んできた道のりが思い起こされて・・・進んできたと言うと、少し違うかもしれません。何か問題を抱えていた人がそれを克服するような、そんなお話ではありません。そうではなくて、チノちゃんの本来の姿が、いつものみんなの優しさによっていつの間にか開花していた、と言うべきでしょうけれども、

そのようなチノちゃんのこれまでの姿が思い起こされます。

 

 

(2)『きららMAX20183月号

そしてまた、『きららMAX20183月号のお話も思い起こされます。

このお話は、このようなファンの私(たち)の、チノちゃんや、「ときめきポポロン♪」エンディング映像に対する気持ちを、しっかりと受け止めてくれているお話です。

「あの橋の上」「パーカー」などが、わかりやすい目印になっていますよね。モチーフとして、あの映像を、みんなで撮っている、というようなイメージのお話になってると思います。

 

 特に、この連載2018/3p. 79左3〜4コマ目のココアの表情と発言は、

私がアニメ2期の「ポポロン」エンディング映像を初めて見たときのものと、全く完全に一致していて、「ファンの気持ちを汲み取ってもらえている!!」と、喜びに浸りました。

・・・というよりも、ファン、特にチマメファンは、ココアお姉ちゃんと気持ちがどんどんシンクロしていくものなのかもしれませんが。

 

 

 また、このお話の最後のコマでは、タカヒロが「チノも変わったな」と言っていますよね。

──ここで思い浮かぶのは、タカヒロのキャラソンです。タカヒロは、原作でもアニメでも、本編で気持ちをつらつらと述べるということはほぼありませんが、キャラソンは手がかりを与えてくれます。そこでは、チノの変わっていく部分と、同時に「でも無理に全てを変えなくてもいいんだよ」と優しく見守ろうとする気持ちとが、絶妙に表現されていました。

 

 そして、このようにチノを見守るタカヒロの気持ちは、私(たち)の気持ちでもあります。アニメのエンディングを見たとき、こんな気持ちになった、ということは、すでに述べた通りです。

 

 ・・・とはいえ実は、細かいことを言えば、アニメ2期の段階では、もしかしたら少しまだ早かったかもしれません。みんなと踊る、ということでいえば、確かにバレエを始めるというエピソードもありましたし、スムーズではありました。

 しかしながら、2期までのお話の段階よりも、今のこの時点(『MAX』連載20183月号)の時期の方が、より一層、チノちゃんの変化をスムーズに捉えることができると思います。

(アニメ2期よりも後の時系列に当たると思われる原作エピソード、例えば、チノの独唱、文化祭、・・・等の展開を経て。)

 

 例えばこのように、アニメエンディングの映像に至るまでも、Koi先生は、原作の中で生かしきり、全体としての「ごちうさ」の世界を、より完璧なものにしてくれているのだと思います。しみじみと思うのは、『ごちうさ』というのは、本当に、一切がとても丁寧に・繊細に組み立てられている作品だということです。だから、何度でも嚙みしめて味わう甲斐があるのです。

 

【新刊】『ごちうさ6巻を読む(前半)』@「3秒でもふもふ」カ74a(インテ大阪5号館)

 当サークル「ロマン主義アニメ研究会」の、冬コミ以来の新刊&イベント参加のお知らせです。

 どうぞよろしくお願い致します。

 

 

新刊:

ごちうさ6巻を読む(前半)』

 B52段組 48頁 ¥500(予定)

──「ごちうさ」考察・随想・評論本。

  

参加イベント:

 3秒でもふもふ

(トレ魂 4 内 合同開催)

ご注文はうさぎですか? オンリー同人誌即売会

 

2018年6月24日(日) 11:00~15:00

会  場      インテックス大阪 《5号館》

 https://www.aoboo.jp/neo/item/p0106.html

  

スペース 5号館 カ74a

  

 当日はスペースにて、皆様のお越しをお待ちしております。

 既刊もいくらかご用意がありますので、こちらもよろしければ手にとってご覧いただければ幸いです。

 

お品書き 

 

【新刊】

ごちうさ6巻を読む(前半)』¥500

 

【既刊】

・『ごちうさ論 その1 <基礎編>』 ¥300

・『ごちうさ論:「Sister」の「魔法」──アニメ「Dear My Sister」から読み解くごちうさ』 ¥500

・『chimametai ni naritai!!』(コスプレ写真集) ¥400

 

 

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(↑新刊表紙イメージ) 

 

 

◆新刊について

神様はちっちゃいに宿る、とか? /それはきっと細部だと思うよ

チマメ隊「♡♡ケーキをもうひとつ?」

やりたいことから きらきら受けとっちゃうんだよ

ココア「きらきら印をみつけたら」

  今回お届けします新刊では、これまでと少し趣向を変え、具体的なエピソードごとに即して、読解を試みていこうと思います。とりわけ今回は、原作コミックス「第6巻」を対象にいたします。こちらは既に読まれている方が殆どだと思いますが、よろしければ、どうぞご一緒に、もう一度コミックスを手に取りながら、読み進めてまいりましょう。

  

──なぜこんなことをするのか?

  私が『ごちうさ』研究を始めて以来、気がついたこと…というより、単に好きで読んでいた『ごちうさ』を、ただ読むのでなく、どうしてもいろいろと「研究」したくなってしまった理由でもあるのですが、それはすなわち、『ごちうさ』には、無数に・至る所に、細かな〝仕掛け〟のようなものが施されている、ということです。とりわけそれは原作において顕著です(アニメではすくいきれないような細かいものもたくさんあります)。そうした細かな〝仕掛け〟たちに注意を払いながら、仕掛けから仕掛けへと追いかけていくうちに、次第に『ごちうさ』の物語の全体を、より立体的に把握できるようになってまいりました。

 こうした〝仕掛け〟を追いかけた〝結果〟をまとめたものが、既にお届けしております2つの本(既刊)であります。そこで今度は逆に、そうした仕掛けを追いかけていく〝プロセス〟を、皆様とご一緒に楽しめないだろうか、と思ったのです。

  

──日常系作品における「個別」と「全体」の関係、『ごちうさ』の場合

  一般的に言って、日常系とも表現されるような作品では、「個別」(個々のエピソード、個々の4コマ)を「全体」(作品全体の大きな文脈)から楽しむというよりも、「個別」を「個別」としてそのままに楽しむこと、あるいは、せいぜい〝全体〟は「個別」が単に〝集積〟したものとして捉えることの方が、多いかもしれません。具体的に言えば、例えば、気の向くまま好きなページをランダムに開いて楽しむようなスタイルが適切な作品も多いかもしれません。実際、日常系と表現される作品では、そういったものも多いと思います。『ごちうさ』もそうした楽しみ方は可能ですし、私もよくやります。

 けれども、『ごちうさ』は他方で、「個別」(個々のエピソード、個々の4コマ、もっと細かく言えば、登場する個々のあらゆる要素)を、「全体」(大きな『ごちうさ』の文脈)の中で位置付けて読み解くための手掛り・仕掛けが、あまりにも頻繁に、明らかに意図的に、随所に散りばめられているように思われるのです。まるで、謎解きのヒントをわざと配置してある…ちょうど「シスト」のように、組み立てられているようなのです。そう、『ごちうさ』は、シストの地図を追いかけるような気持ちで、仕掛けから仕掛けへと追いかけながら読み解いていくと、より立体的に・より深く、味わえるように組み立てられている(と思う)のです。

  

──なぜ6巻?

  まず第一に、コミックス6巻の重要性です。コミックス6巻は、これまでの『ごちうさ』コミックスに比べても、一つの大きな節目、あるいは折り返し地点のような印象を受けるからです。このことは、まずコミックスを開くよりも前に、〝表紙〟を見ただけでも、何か感じとられることではないでしょうか(のちに、6巻表紙の〝新しさ〟について詳しくお話しいたします)。そしてもちろん、収録されているお話からもそのことを感じ取ることができると思います。この「6巻」を軸とすることで、『ごちうさ』の過去のエピソードと、これから続くかもしれない展開との、両方を見渡せるような見通しの良い地点に立てるのではないか、と考えたことがまず大きな理由です。

 また第二に、せっかくですのでなるべく新しいエピソードで、というのもあります。とはいえ、本当に最新の「連載」の場合、単行本収録を待ってから解釈をしたいという気持ちが残ります。よく知られるように、単行本収録時にはしばしば〝修正〟が加えられますが、それにより、のちに本書でもお示しするように、お話しのニュアンスが変わるという事例がしばしばあります。

 

──(ちなみに)

 ちなみに、本書は「ごちうさ6巻を読む(前半)」となっております…いや、なってしまいました。今回はいろいろな制約から、文字どおり「薄い」本を作りたかったのですが、6巻の「表紙」の読解から始めて順番に各話を読解していこうとした結果、まず「表紙」だけでかなりの分量を費やしてしまい、さらにその後も、想像以上に分量が増えてしまいました。このようなことから、本書で触れていないエピソードについては、またの機会に読み解いてまいりたいと思います。 (以上、まえがきより一部抜粋)

 

ピュアな男の子を求めて 〜私にとっての二次元の男の子アイドルの魅力を考えてみた

 ピュアな男の子をもとめて。

  

◆浄化されたい

結局、『アイドルマスター SideM』の、二次元の男の子アイドルに私が求めているものは、ピュアさなんだ、ということに気づきました。

  

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(【↑上図】あぁ…もうなんて可愛いんでしょうね…。なんかこう、喉の奥が、ウッとなる。可愛すぎて吐きそうになります。 ──ねぇ、もう本当に可愛いので、可愛いものが好きな人には全員にお勧めしたいくらいです。

 (関係ないですけど、この『〜ライブオンステージ』の、任意の好きなアイドル2人を〝仲良し〟にできるシステムは、本当に良いですよね。)

 

 

『SideM』のアイドル達の歌を聴いていると、浄化されるような、心が洗われて、自分が透き通っていくような気持ちになります。

その歌声に、いつの間にか自分も同一化して、一緒になって歌っている。

 

そうしているうちに、男でありながらピュアでもあり得る、というような希望が持てる気がしてくる。

…それらも一切が二次元が見せる幻想だ、と言われるなら、多分そうなのでしょう。けれども、幻想でもいいから、一時的にであれ、浄化されたような気にさせて欲しいのです。

 

二次元の(アイドルの)男の子は、本当にピュアなのですよ。男性(大雑把な言い方ですみませんが)のもつ汚らしさ、いやらしさ、クソなところが、ないのですよ。

私はそういう汚いものから解放されて、純粋に戻りたい。浄化されたいのです。

 

(二次元の女の子も[作品にもよりますが]、ピュアですよね。だから、感情移入しながら没頭することで、同じような浄化作用があるのですが、いくら感情移入しても、でも、この子は女の子だし…という「壁」にぶち当たるような気もします。もちろん、私は常日頃からピュアな女の子になりたいと願い、頑張って(?)はいるが、どうしても私のベースが男である以上、限界がある気がする。それに、よく考えたら女の子になりたいわけでもない。そうではなくて、ともかくピュアになりたいだけなのだ。)

 

(補足)

ここまで考えて、そういえば、『けいおん!』『ごちうさ』的作品にハマる女性が稀にいるけれども、これも現実の女性(たち)にある嫌な部分が浄化されているからなのかなあ、と、ふと思いました*1 

例えばなんとなく傍目にも、女性集団の生活は、生きづらい人にとっては生きづらいだろうなあ、という気がしていましたから。これは推測ですが。

(『ごちうさ』の女の子たちは、嫌がらせをしたりしないし、恋愛トラブルもないし、変わった子や気弱な子も優しく仲間に入れてあげますよね。──ただし、みんな素のままで異常に外見が美しい、というのがあって、あらかじめみんなが美醜をめぐるルサンチマンから解放されているのだけれども。)

  

(補足2)

『SideM』の次郎さんはじめ、S.E.M.のアイドルたちも好きなのですが、「先生」という包容力ある優しいお兄さん・おじさんたちという意味で、好きなのだろうと思います。彼らもまた、浄化されていて、ピュアな振る舞いをします(道夫は特にピュア)。

(お馬さん好き・ビール好きのおじさん、次郎先生は、飲む打つ買う、と三拍子揃いそうなところですが、当然ながら、買う、の要素はありません(それは嫌だ)。猫カフェがそれに置き換わってるのかもしれないですね(猫なら許せる)。)

 

◆二次創作の捉え方

二次元の(アイドルの)男の子は、ピュアで、いやらしくない…とはいえ、同人誌を開けばいろんなことをしています。もちろん二次創作であるのだから、切り離して考えるべきですが…とはいえ、こういう作品の受容は、二次創作なくして十分にできるのだろうか、という気もいたします(こういったゲームは、アイドルたちの断片的な言動をかき集めて、再構成するという作業をし続けない限り、アイドル達のことがわからないようになっています。そのような再構成の作業はそれ自体楽しいものだから、各自が頭の中で行えばいいものではあるのですけれども、とはいえ、二次創作作家の皆様が行ってくれる「再構成」は、やはりそういう各自の楽しみのための強力な手助けになってくれる場合が多いと思います)。

確かに私は元々、成人向け二次創作はあまり積極的には手にしない方ではありますが、けれども、成人向けの二次創作でも、やっぱり現実の(三次元の)男の持つ汚らしさは、きれいに浄化されている場合が多いと感じます。私自身が現実世界では、(おそらく)ホモセクシュアルではなく、そういった経験もないので、二次創作における男性登場人物達の「行為」は、ファンタジーの領域で、〝空想上の行為〟なわけです。そういう私にとっては、二次創作における彼らの行為は、現実の世界の「汚れ」から逃れている(ように見える)。 ・・・とはいえ、いずれにしても私は、主観的に特にきれいである・ピュアであると思われるような作品を念入りに選択するようにはしています。要するに基本的には、全年齢のもののみを嗜むようにするのが良いのでしょう。

 

◆ライブ等に対する距離

またついでにいえば、それゆえに私は、ライブなどの声優さんが前面に出てくるコンテンツに対して、どのような態度をとるのがよいのだろうと少し迷う部分があります。 

ライブのライブビューイング、アニメのイベント(Five-St@r Party!!)のライブビューイング、には行き、大変楽しみましたし、いずれ現地にも行ってみたいという気にはなりましたが、そのうえさらに、そうした声優さんイベントの映像の円盤を入手することには少し躊躇があります(そもそもライブの円盤は公演ごとに膨大にあって、入手もかなり骨が折れそう、という理由もありますが)。 

声優さんは三次元の人であり、とりわけ男性の声優さんというものに対して、私はどのような感情を持っているのだろうか(あるいはどのような感情も持っていないのだろうか──ピエール君は、中の人も可愛くてよかった、とは思った)。

 

私の場合は、原則的には二次元で完結して、ファンタジーの中でウットリ遊びたいだけなのでしょうけれども、

とはいえ、実際にがんばって演技をしたり歌ってくださる方々のおかげで、このファンタジーは成り立っていると考えれば、

やはりその人たちはどんな人なのだろうということは気になるし、また何より、

直接、その人たちに声援を送ったり、「光」で応援の意を示すことは是非したいと思うのですけれども。

*1: かおり監督:「なんというかこう…リアルな女子高生って結構言葉とか汚いですが/[『ゆゆ式』では]こうあって欲しいと思う理想を地でいってくれてて非常に可愛らしいなって/[中略]/二次元の女子高生っていいですよぉ…実際いてくれたらいいのになぁ/…二次元は素晴らしいですよ本当…」

レポーター:「かおり監督…リアル女子高生で何かあったのだろうか(捨てゼリフのようにっ)」

(津留崎優「制作現場レポートマンガ」, 三上小又[原作], まんがタイムきらら[編]『ゆゆ式TVアニメ公式ガイドブック:情報処理部のライフログ』, 芳文社, 2013, 103頁.) 

『プリチャン』、アイドル「脱-魔術化」のぱらどっくす ──「魔法より素敵なライブがはじまるよ」?

 『キラッとプリチャン』のアニメ・筐体ゲームで少し遊んだ今の時点で思うことです。

 

 やっぱり何と言っても「ライブ」の部分は、「そうそう、こういうのが見たくて見たの」と思わされるような、キラキラ感がありました。

 けれども、かえってその分、「ライブ」部分と、それ以外の部分とに感じられる、ちょっとしたズレ、齟齬が、どうしても気になってしまいました。何となくつながりが悪いような気がしてしまっております。この違和感を手掛かりに、少し考えたことを述べたいと思います。

 

◆疑問:そもそも「プリチャン」において「ライブ」はどういう位置付けなのか

 それはつまり、「プリチャン」という仕組みの全体が、一体どうなっているのかがよくわからないからなのですが、特にわからないのは、「プリチャン」という仕組み全体における「ライブ」の位置付けです。

  

◆「ライブ」と、それ以外の「番組」との関係がよくわからない

 確かに、「番組」を頑張ると(「いいね」が集まると)→「ライブ」ができる、という仕組みは、前作『アイドルタイムプリパラ』における、「アイドルタイムがたまる」→「ライブができる」、というような仕組みと同じもののようにも思われます。

 しかしながら、やはり『プリチャン』の場合、「ライブ」して「コーデがもらえる」という要素と、そのライブ以外の「番組」との関係が、どうもよくわからないところが多いのです。

 

 もちろん、『プリパラ』でも、『プリリズ』でも、ライブ(or プリズムショー)とライブまでのアニメのストーリーとは、いつもそんなに深いつながりがあったわけではありません(こじつけ的に急に出てくる「そうか、ライブをすればいいんだ!」という発想などは、かえって面白い部分でもありました)。

 けれども、『プリチャン』の場合、特にそれが気になってしまうのは、『プリチャン』においては、ライブの前までのストーリー部分は、ほぼニアリーイコールで、「プリチャン」の「番組」づくりになっている、ということがあります。つまり、「ライブ」とそれ以外の部分とは、一つの仕組みとしての「プリチャン」の中においてどういう関係になっているのかが、どうしても余計に気になってしまいます。

 

 これに関して特に思うのは、「プリチャン」の番組配信者は、老若男女、あらゆる人たちであり得る(ようである)、ということがあるからです。

 確かにプリパラでも、女子プリ、ダンプリ、といったようなものはあったけれども、「プリチャン」の場合は、もっと自由度が高い(ようです)。まさに現実の動画配信サービスの配信者と同じくらいに。

 しかしそうなると、コーデとか、ライブとかっていうものは、「プリチャン」というシステムにとって、どういう位置付けになるのだろう、ということが気になってきます。例えば、コーデもライブもいらないけどプリチャン番組配信だけをします、という人がいてもいいのだろうか(これらに関心のなさそうな?プリチャン配信者が、アニメ内では映ったりしている)。その場合、番組が盛り上がった結果、「ライブができますよ」と言われても、「あ、私はやらないです」と断ったりもしていいのでしょうか。

 

◆「めが姉ぇ」、「プリズムストーンショップ」、の位置付けは?

 さらに気になるのは、めが姉ぇやプリズムストーンショップの位置付けです。例えばユーチューブの場合、グーグルに相当するような立場なのでしょうか。しかしめが姉ぇは「店長」と呼ばれていて、そんな大規模なものを統括している人には見えません。

 また、みらい、えもたち以外では、プリズムストーンに通っている風の人があまり出てこないので、一体プリズムストーンというのは、「プリチャン」という仕組みや、プリチャン配信者にとって、どんな位置付けなのかが、よくわからないところがあります。

 例えば、プリズムストーンに関与しなくても、プリチャン配信はできる、ということでしょうか(プリズムショーはプリズムストーンショップに関与しなくてもできるのと同じように)。つまり、プリズムストーンは、「プリチャン」というグローバルな?仕組みにおいて、一つのプロバイダとか、なにか代理店的な位置付けなのだろうか。あるいは、「プリチャン」という仕組みにおいて何かを成し遂げたいと思う人のための、コンサルタントのような感じなのだろうか。

 

 ・・・いやまあ、キッズ向けなんだから、こんなことはどうでもいいんだよ、と言われればそれまでなのだけど、前作の『プリパラ』は、ああ見えて案外、いろいろ仕組みについてはそれなりに(無理やりにでも)説明がされていたように思うので、どうしても、プリチャンではいろいろと気になってしまう。

 

◆「フォロチケ(交換)」の位置付けは?

 また筐体ゲームで、2回目に遊んだ時、まだ誰ともフォロチケ交換していないし、1回しか遊んでいないのに、すでに「フォロワー」が増えていたが、あれはなんなのだろう(誰なのだろう)。

 「フォロワー」とは、フォロチケ交換とは直接には関係がないのだろうか。となると、フォロチケ交換とはどういう意味を持つのだろう。

 アニメでは、フォロチケ交換するシーンで、「特別な意味でのフォロワーだよ」みたいなことが言われていたが、となると、「フォロワー」という同じ言葉を使っていながら、二つの別のものを指している場合があるということだろうか。複雑である。

 

 ◆以上の疑問の根底にある事柄 〜脱魔術化されたアイドルは成り立つのか?

  要するに、こういうことではないでしょうか?

・コーデが「もらえる」、ライブが「できる(させてもらえる)」、というような、何か上位の権威によって、──プリパラ的に言えば「システム」の判断によって、何かをようやくもらえたりもらえなかったりする、といった(垂直型の?というべきかわかりませんが)仕組みと、

・ネットの動画配信のような、好き勝手に何かを配信して、見ている人が好き勝手にいいねを送って評価する、というような(デモクラティック?SNS的?な)仕組みとが、

互いにマッチしていない、というのが、根本の要因としてあるように思います。

 

 もちろん、グーグルなどにおいても、特定の配信者をピックアップして何かの援助を行うということは、行っているであろうけれども、しかし、ちょっとこの「プリチャン」の場合はそういうもの以上であって、「ライブ」は、その「与えられる」特殊な空間でのみ可能なものとされているし、またそこで何らかの判断によってコーデが「与えられる」。

 

 『プリパラ』の場合は、「アイドル」とは、まさに従来型の意味のそれであって(昭和のアイドルどころか、古代にまでさかのぼるくらい、伝統的な意味でのそれ)、モデルとしては、旧来型の芸能界とか、テレビ業界、といったものが念頭にあるだろう。私は実際のこういう業界のことは知らないが、確かにそこでは、なんらかの形で、権威を持っている層、決定権を持った人たちがいて、チャンスが与えられたり、与えられなかったり、するであろう。それは、「運営」「プロデューサー」などと呼ばれることもあるだろう。もちろんその判断は、必ずしも恣意的なものとは限らず、卓越した能力や、従来の慣習、つまり、ある種の伝統に基づく権威のようなものがものを言っている場合も多いであろう。そしてそれは(大げさに言えば)芸術的な価値に関する判断においては、必ずしも間違っていないとも思われる。

 

 もちろん、『プリパラ』でも、「いいね」を集めるという仕組みがあり、その意味ではすでにSNS的ではあったかもしれないが(とはいえ、実際に観客が「いいね」を送るというのはアニメでの表現であって、筐体ゲームではプレイヤー同士が互いに「いいね」を送り合うような仕組みは、原則としてなかったと言えるだろう。・・・トモチケを通じた「ボーナス」などの仕方で、微妙にそういう要素があったと言えなくもないだろうけれども。)、しかし、神アイドルグランプリなどに見られるように、必ずしも、すべてがSNS的に、デモクラティックに事が進んでいたわけではない。つまり「いいね」の数によらず、「システム」、ないしはシステムの権化たる「女神」などが「判断」し、「与える」、というような仕組みが、いたるところに存在した(直近では「古代メガネ」(笑)が判断したりしてましたね)。

 

 そしてこの「システム」、「女神」とは、結局のところ、「タカラトミーアーツシンソフィア」等の権化なわけであるが、それはまさに、百円を入れて遊ぶ、ガチャ要素のあるゲーム、というものをベースにして全体が組み立てられている以上、「運営」が「判断する」「与える」といった要素が避けられず、一切がSNS的に、デモクラティックに、決定していくような仕様には、当然できないのである。

 

 で、『プリチャン』も、基本的には『プリパラ』からほぼ同じフォーマットを引き継いで設計されている。(アーケードのプリパラ最後の日には、お店で作業する人を見かけましたよね? 上からシールや厚紙を貼り付け、画面には「アップデート」という文字が出ていましたが、つまり「アップデート」なんですよね) ──だから、ぼんやり遊んでたら、『プリパラ』と同じような気持ちでゲームし終わることだってできます。(おひっこシステムで、今までのマイキャラの容姿を捨てて[気に入っていたけど、それはマイキャラグッズに固定化しておくことでよしとした]、レオナきゅんそっくりマイキャラちゃんにしてしまった私など、まさにプリパラのつもりで遊んでいる。) 

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 ところが、『プリパラ』から引き継いだ、こういう垂直統合型モデル──というと大げさですが、そういった、上位の判断者がいる、というような仕組みと、新たに加わった、SNS的な、デモクラティックな評価・判断の仕組みとが、どうも、齟齬をきたしているというか、つまり、論理的なレベルで噛み合わないのではないだろうか、と思うわけです。

 

 思い返せば、プリティシリーズでは、『プリパラ』(「古代プリパラ」だとか)だけでなく、『プリリズ』でも(遺跡みたいなステージなんかが出てきましたよね)、何らかの神話的なもの、伝統的な権威、つまり上位の判断者が、つねに重要さを持っていました。

 それに対して『プリチャン』の場合(今後の展開を見なければ何とも言えない部分もありますが)、「プリティシリーズ」にこれまで見られた、そういった神話的な要素、伝統や権威といった要素が、今のところかなり排除されているように思われます。

 

 それは、大げさに言えば、近代化、脱魔術化ということであって──OP曲の歌詞にある「魔法より素敵な ライブがはじまるよ」は、なんとなくそれの表れとして読めなくもない。また、まさに魔法少女に定番の「マスコット」的存在が今のところ見当たりません──、それはそれでいいのではありますが、他方で、キラキラ輝くコーデがなぜか運良く与えられるとか、そういった要素も残っています。

 実際、少女趣味的な憧れとか、うっとり感、といったものは、一切のこうした魔法的な・神話的な要素を排除して、成り立つのであろうか、ということが疑問です(少女趣味的憧れには、常に貴族主義的な価値観が根底にあると思います)。

 実際、『プリチャン』でも、ライブの空間が突如現れるとか、キラッとボタン、コーデがもらえる、といった部分は、魔法的な力によるキラキラさがあり、脱魔術化していません。〜そしてこの部分は、プリパラからほぼそのまま受け継がれている要素である、ということはすでに述べた通りです。

 

◆要するに

 要するにまとめるならば、プリパラ的なものと、プリチャン独自の要素との齟齬、これは言い換えれば、権威的・神話的・魔法的なものと、SNS的・デモクラティックなもの(=脱魔術化した近代的なもの)との齟齬が、何かあるのではないか?

 それが、「プリチャン」という全体の仕組みのブレというか、つかみどころのなさに、つながっているのではないか──というようなことが、今の所、感じていることであります。

(特に、ライブのキラキラ感はやっぱり素晴らしく、こういうのが大好きな私などは、やっぱりどうしても、何回見ても、ほぼ反射的に、ついウットリと没入してしまうのですが、そのせいかより一層、ライブ以外の部分との齟齬が気になってしまいます。)

 

 ──とはいえ、これは今日まで(2018年6月初旬現在)、アニメと、筐体で少し遊んだ時点での、私の思うところであって・・・、今後を追いかけていかないとわからないところもたくさんあります。もしかすると半年後あたりにこの記事を自分で見て、ああ〜、あの頃は何にもわかっていなかったな〜、などと思う日が来るかもしれません。